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三浦英之「銀河鉄道の夏」⑥ 第六章 津軽海峡

[連載]

第六章 津軽海峡


写真/浅沼和明

 夜明け前の青森には重たい雲が垂れこめ、その唐草模様の隙間から線で引いたような細い雨が大地に降り注いでいた。
 JR青森駅周辺のビジネスホテルで夜を過ごした私は一〇〇年前の宮沢賢治の樺太からふと旅行と同様、青森から津軽海峡を越えて函館へと渡るため、ねぶた祭の熱が残る市中心部から青森港へと向かうタクシーに乗った。
 夜明け前のフェリーの乗り場ではすでに北海道へと渡る数十のトラックが長蛇の列を作っており、運転席ではドライバーが眠そうな目でスマートフォンをいじったり、近くのコンビニで購入してきたサンドイッチなどを食べたりしていた。
 研究者らの調査によると、賢治は一〇〇年前、青森港午前七時五五分発・函館港午後〇時二五分着の青函連絡船に乗船している。彼が樺太旅行に出発する約二カ月前の一九二三年五月には北海道の稚内わつかないと樺太の大泊おおどまり間を結ぶ鉄道省の連絡船が開通しており、青函連絡船と合わせてそれらの航路を乗り継ぐことで、彼の故郷である花巻はなまきから樺太までの旅程を一枚の鉄道切符で旅行できるようになっていた。
 どこまでも行ける切符──。賢治はきっとそんな無限性に胸をときめかせていたに違いない。
 樺太旅行をもとに執筆したとされる『銀河鉄道の夜』にも、そんな心情をみてとれる場面が確かに出てくる。


「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想げんそう第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行けるはずでさあ、あなた方大したもんですね。」
(『銀河鉄道の夜』・第四次稿)


 出航時間が近づいて青函フェリーのゲートが開くと、車両と一般の乗船客は同じ出入口を使用する構造になっているらしく、私は排気ガスの籠もった車両甲板を抜けて、鉄製の階段で上階の二等客室へと上がった。カーペットが敷かれただけの雑魚寝部屋にリュックサックを下ろし、朝の新鮮な空気を吸おうとデッキに出ると、ちょうどフェリーが桟橋を離れるところだった。
 八月だというのに海を渡ってくる風は肌寒く、港内の波は穏やかで、水平線に浮かぶ筋状の雲は朝焼けに照らされて紫と青と黄の三色にきれいに塗り分けられている。
 賢治は一〇〇年前、この海峡の風景を見ながら「津軽海峡」という詩を書いている。
 船上で賢治の心をつかんだのはイルカだった。東北人以外にはあまり知られていない事実だが、津軽海峡ではよくイルカが見られる。
 彼はその海洋生物の姿を少し滑稽に描写している。


いるかは水からはねあがる
そのふざけた黒の円錐形
ひれは静止した手のやうに見える。
弧をつくって又潮水に落ちる
(「津軽海峡」)


 イルカは『銀河鉄道の夜』を書き直す過程である第二次稿でも登場し、樺太旅行が作品の元になったという傍証の一つにもなっている。


 そのうちもうあっちでもこっちでもその黒いつるつるした変なものが水から飛び出して円く飛んでまた頭から水へくぐるのがたくさん見えて来ました。(略)
「まあ、をかしな魚だわ、何でせうあれ。」
海豚いるかです。」カムパネルラがそっちを見ながら答へました。
(「銀河鉄道の夜」・第二次稿)


 同時に彼は一〇〇年前の連絡船内に外国人の姿を見つけている。その事実も『銀河鉄道の夜』に出てくるシーンと酷似している。


二等甲板の船艙の
つるつる光る白い壁に
黒いかつぎのカトリックの尼さんが
緑の円い瞳をそらに投げて
竹の編棒をつかってゐる。
(「津軽海峡」)


 ジョバンニのうしろには、いつから乗つてゐたのか、せいの高い、黒いかつぎをしたカトリツク風の尼さんが、まん円な緑のひとみを、じっとまっすぐに落して、まだ何かことばか声かが、そっちから伝はって来るのを、つつしんで聞いてゐるといふやうに見えました。
(「銀河鉄道の夜」・第三次稿)


 そんなイルカを眺めたり、珍しい外国人に出会ったりしながらも、賢治はやはり妹のことが忘れられない。どうしてもトシのことばかり考えてしまう。


こんなたのしさうな船の旅もしたことなく
たゞ岩手県の花巻と
小石川の責善寮と
二つだけしか知らないで
どこかちがった処へ行ったおまへが
どんなに私にかなしいか。
(「津軽海峡」)


 青函フェリーのデッキで潮風に吹かれながら、私も長時間早朝の海に目をこらしてみたが、残念ながら泡立つ白波を飛び交うイルカも、船内で編み物をする修道女の姿も見つけることはできなかった。
 それでも数十分間、船特有のゆったりとした揺れに身を任せ、定期的に船体に当たってはじけ飛ぶ波しぶきを浴びていると、私もかつて「こんなたのしさうな船の旅」を経験したことがあったな、とふと思い出した。
 それは小学校の卒業式の直後に担任の女性教師と二人で行った箱根への日帰り旅行で、私たちは最寄りの小田急線の相武台前駅からロマンスカーで箱根湯本まで行き、登山鉄道やロープウェイに乗って大涌谷で温泉卵を食べた後、山中にある芦ノ湖の遊覧船に乗った。
 三月下旬の穏やかな春の風のなかで、私は夢中になって小学校時代の思い出を語り、女性教師も「本当に楽しかったね」と笑った。私と女性教師の関係は小学校の入学から実に六年間も続いたが、卒業を迎える頃にはどこか教え子と教師という関係を離れ、一人の人間と人間という公平な関係になっていた。
 実家に残るアルバムには、芦ノ湖の遊覧船をバックに笑う、少し背が伸びた小学六年生の私と女性教師の笑顔の写真が貼られている。それが二人で撮った最後の写真になるとは、そのときは思ってもいなかった。

 私のように小学校時代の六年間を事実上一人の教師に受け持ってもらったという経験は、過疎地や島嶼部とうしよぶにおける特殊なケースを除けば、現代の教育制度では極めて珍しいことだったように思う。女性教師は、私の一年生と二年生、五年生と六年生の時には正式な担任として、三年生と四年生の時には彼女が妊娠中だったため副担任として、私を受け持ってくれた。私は女性教師からひらがなやかけ算や音楽を習い、毎朝マラソン大会に向けて団地の外周を走った。放課後は女性教師の自宅で宿題をやった後、夜になると近くの畑に天体望遠鏡を持ち出して、授業で習ったオリオン座や当時接近していたハレー彗星などを夢中になって探した。
 柔らかな光の繭に包まれたような学童期だった。両親や女性教師からの愛に守られ、将来や現実に何一つ不安を抱えることなく、ただ宇宙の成り立ちや宗教の意味について思いを巡らせていればそれでよかった。
 もちろん、そんな幸福な少年の日々は長く続かない。小学校時代に極めて恵まれた教育環境に置かれていた多くの少年少女が同じ経験をしたのではないかと推察するが、私は中学校に入学するとその徹底した管理教育の中に押し込められ、自我を喪失し、自信を失い、生活のすべてが暗転した。入学式の翌日には生活指導の体育教師に職員室に呼び出され、「お前、髪染めてんだろ」(私は生まれつき茶色がかった髪をしていた)とその日のうちに丸坊主にされた。所属した部活動では指導教師からの体罰が激しく、毎日のように体育館シューズで頭を殴られたり、平手でビンタを張られたりして、いつも口の中に血がにじんでいるような状態だった。中学校自体が荒れていたこともあり、時々、暴走族がバイクに乗って学校内に乱入し、ゴルフクラブで窓ガラスを割ったり、学校の壁にスプレーで「黒薔薇」と難しい漢字の落書きをしたりしていた。その間、私はできるだけ面倒くさいことに関わらないように息を潜め、ただ静かに一人で本を読んだり、数学の公式を暗記したりしていた。
 女性教師は私の小学校卒業と同時に相模原市内の別の小学校に異動していた。私たちはしばらくの間、文通のようなことを続け、私はその度に行き過ぎた管理教育への不満や将来の進路に対する不安などを書き送っていたが、やがてその返事も届かなくなった。
 学校での勤務が忙しいのだろうと想像していたが、ある日、嫌な噂を耳にした。
「先生ね、行方不明になっているみたいなの……」と小学校時代のある同級生が教えてくれた。
「転任先の小学校で男の先生と不倫して、その人の赤ちゃんを身ごもったみたいで……」
 私は半信半疑のまましばらくの間はそれらの噂について深く考えないようにしていたが、部活動を引退した中学三年の夏、人伝ひとづてになんとか女性教師の所在を探り出すと、小遣いをはたいて近くのスーパーでショートケーキを二つ買い、思い切って会いに行った。
 産業廃棄物処理場の近くに立てられたバラック小屋のような一室で、女性教師は私の二つ年下の長女や私が小学三年生の時に生まれた次女と一緒にひっそりと生活していた。
「ミッコ、会いに来てくれて本当にありがとう」
 女性教師はかつてのようにヒマワリのような笑顔を作って私を出迎えた。日の差し込まない薄暗い部屋に入ると、玄関脇のトイレは汲み取り式で、六畳の和室では私と仲の良かった長女が伏し目がちに女性教師の狭い鏡台の上にノートを置いて制服姿で中学校の宿題をやっていた。
 雑談の中でそれとなく尋ねると、女性教師は不倫や妊娠の噂については否定したが、転勤先の学校で何かがあったのはどうやら事実のようだった。それが何であったのかについては、当時まだ中学生であった私には踏み込めなかった。
 その日は結局、次女を加えた四人で二つのショートケーキを分け合いながら、小学校時代の思い出話に花を咲かせた。
「あの頃は楽しかったねえ」
 女性教師は心から楽しそうに笑い、過去を振り返った。そして別れ際、私の手を握って言った。
「住む場所は随分変わっちゃったけど、大丈夫。私は元気だからどうか心配なんてしないで」

 その後、私は暗澹あんたんたる青春時代を送った。高校は地元の公立進学校に進んだものの、幼少期に読んだ賢治の影響もあったのか、当時の管理教育や競争社会といったものに猛烈な反発心があった。学校の成績は上位を維持していたものの、私はどうしても「受験戦争」と呼ばれる無益な競争に参加する気にはなれず、進路希望の調査票はいつも白紙で提出していた。
 高校三年の夏、私は一度もまともに会話をしたこともない担任の体育教師(名前はもう忘れてしまった)に呼び出され、「お前、大学どうするんだ? もし受験する気がないなら、推薦がいくつかあるからそれでどうだ」と強引に勧められた。体育教師としても、受け持ちの生徒の進学先が決まらないことには都合が悪かったのだろう。私は何もかもが嫌になり、その場で示された二つの大学のうち、専攻が「化学」というだけで自宅から通えそうな中堅の私大を選んで「ここでいいです」とその場で指定校推薦の書面にサインした。高校教育に絶望し、行きたい大学も、将来やりたい夢もない。もうどうにでもなれ、といった心境だった。
 ただ一つだけ、「化学」には興味があった。学問的に関心があったわけでも、学科として化学のテストの点が良かったわけでもない(むしろ全教科中、化学が最も点数が悪かった)。小学校時代、女性教師が手渡してくれた賢治の代表作『銀河鉄道の夜』のなかで、登場人物がしきりに「化学を学べ」と諭していたのが、心のどこかに引っかかっていた。
 作中に登場する博士は次のようなことを言っていた。


 みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる。
(『銀河鉄道の夜』・第三次稿)


 私は指定校推薦で「化学科」のある私大を選んで進学したが、案の定、私大の授業はあまりにも退屈で、私は三年間、ほぼ毎日河原や海辺に出向いては日中、本ばかり読んで過ごした。これといった親友もできず、高校時代からつきあっていた同学年の彼女だけが唯一の心の支えだった。就きたい職業も見つからず、叶えたい夢もない。
 そんな怠惰な日々を送っていた大学三年の学期末、私は配属された高分子化学研究室の教授に呼び出され、「どうも君の成績は学内で三番らしいね。大学院に進学して研究者を目指してみないか」と告げられた。私はあまりのばかばかしさに翌々日、教授室を訪ねて逆に退学届を提出した。理由を尋ねる教授に対し、私は「アメリカに渡って、アメリカ人になるつもりです」とあまりにも常軌を逸した退学理由を教授に向かって大まじめに通告した。
 当時、世の中はバブル崩壊後の大不況を受けて後に「超就職氷河期」と呼ばれるほど企業が学生の採用を控えており、大学を卒業しても二人に一人しか正社員として働くことはできないと言われていた。私はその頃、大好きだった彼女にふられたこともあり、過分な自暴自棄に陥って、将来は狭い日本を飛び出してアメリカに渡り、アメリカ人として生きていこうと無謀な夢を描いていた。教授は笑いながら、「私にも一時期、君のような時代があった。まあ、籍は残しておくから、世界を広く見た上で気が向いたらまた日本に戻ってきなさい」と私を説得し、退学届を休学届に変更して大学事務局に提出してくれた。
 周囲に出国の意志を伝えると、数少ない友人たちが「がんばれよ」「お前ならできるよ」と励ましてくれたが、もちろん、私は彼らの本意を正しく理解していた。彼らが心の中で期待しているのは、私がアメリカで成功することでも、価値ある経験を積んで日本に戻ってくることでもない。むしろ私が外国でドロップアウトして、人生の坂道を転げ落ちていくことなのだということを―。
 その中で唯一、私の身を心から案じてくれたのは、他でもない、小学校時代にお世話になった女性教師だった。私は日本を出国する前に彼女に感謝の気持ちを伝えておこうと、渡航資金を稼ぐために三カ月間住み込んで働いていたアルバイト先のスキー場から面会依頼の手紙を書いた。返事はすぐに来て、出国前に彼女が暮らしている転居先近くの公園で二人で会うことになった。
 面会の当日、私たちは昔よくそうしたように近くのハンバーガーショップで一番安いハンバーガーを一つ買い、公園のベンチに座ってそれを二つに分けあって食べた。女性教師の目尻にはかつてなかった深いしわが刻まれ、細い腕にはまだ歩き始めたばかりの幼い男児が抱かれていた。女性教師は、いまは子育てに忙しく、その合間を縫ってパートで学習塾の講師として働いている、と私に言った。
「懐かしいねえ」と彼女は小学校の教師時代と変わらない笑顔で言った。「あの頃は本当に楽しかったねえ」
 私が出国の計画を説明し、「日本にはもう帰ってこないつもりです」と告げると、女性教師は少し考えて、「わかったわ。でもどうか一つだけ、私と約束して。旅先から私に手紙を書いてちょうだい」と小学校の教師時代のように私に言った。
「あなたが楽しいと思ったり、悲しいと思ったりしたことを、滞在先から手紙に書いて。昔、あなたが私に読ませてくれた、夏休みの絵日記みたいに。あなたが見た風景を、あなた自身の言葉で、どうか私に送ってちょうだい」
 言葉が人生を変えていく。
 おそらく女性教師は知っていたのだと思う。それらの行為が―つまり人が定期的に文章をつづり、手紙として送り続けるという行為が―目標や希望を失った人間にとって唯一の「命綱」になる可能性があるということを。
 数日後、私はまだ一度も海外に行ったことのない両親に「カナダで語学学校に通う」と噓をつき、成田空港からロサンゼルスへと向かう深夜便のチケットを買った。格安旅行会社が企画するロサンゼルスのディズニーワールドに向かう四泊五日・往復五万五〇〇〇円の格安航空券で、私はアメリカの空港に到着し次第、帰国分はその場で破り捨ててそのままロサンゼルスの日本食レストランで働く計画を立てていた。
 出国の朝、女性教師は私の母親と密かに連絡を取り、最寄り駅へと向かう団地のバス停に長女や次女を連れてわざわざ見送りに来てくれた。故郷に未練などなく、日本に帰ってくるつもりは毛頭なかったが、女性教師の長女や次女があまりにもかわいらしく見えたため、私は「このまま日本にとどまった方が楽しく幸せに暮らせるのではないか」と出国の意思が少しだけ揺らいだ。
 バスが団地のバス停を出発する瞬間、周囲の風景がわずかににじんだ。歪んだ車窓の向こう側で、母親と女性教師とその長女や次女が私に向かってひらひらと手を振っている。
 自分は一体何をやっているのだろう……。
 米軍キャンプのフェンスの上に見慣れた星条旗が揺れていた。

 あれから四半世紀の月日が流れ、気がつくと四〇代後半を迎えていた私はそのとき、青函フェリーのデッキの上で津軽海峡の景色を眺めていた。振り返ってみると、過ぎ去ったすべての出来事が幻であったかのようにも感じられた。いくつもの奇跡が重なり、曲がりなりにも、いまの自分が存在している。
 私はデッキから二等客室に戻り、リュックサックから賢治の詩集『春と修羅』を取り出して、意識を本来の目的である賢治の樺太旅行へと引き戻そうとした。フェリーが函館に到着するまでの間、賢治がこの海峡で綴った挽歌をもう一度読み直し、この取材旅行における目的を自分の中で整理しておこうと思ったのだ。
 賢治が生前唯一刊行した詩集『春と修羅』に収録した「心象スケッチ」(賢治はそれらを詩ではなくそう呼んでいた)にはどれも日付が刻まれており、それは一九二二年一月六日から始まっている。賢治はその後、約二年の間に約五〇編の詩を書き連ねていくが、一九二二年一一月、トシの死を綴った「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」を境に一九二三年六月までの約半年間は詩を残していない。その半年間に彼は何を感じ、考えていたのか――。
 一九二三年七月、賢治は樺太へと向かう列車に飛び乗り、再び「心象スケッチ」を刻み始める。彼が求めた喪失と再生への旅路。それこそが彼にとっての樺太旅行の意味であり、最終的に『銀河鉄道の夜』へとつながったのだろうか……。
 そんな思索の海に身を沈めていると、突然、それまで圏外になっていた私のスマートフォンの画面が点灯し、小刻みに震え始めた。発信者を見てみると、普段はめったに電話を掛けてくることのない相模原市の実家で暮らす母親からだった。
 嫌な胸騒ぎがした。心のざわめきを打ち消すようにディスプレー上の「通話」を押したが、同時に船内の放送が流れ始めたため、母親の声がよく聞こえない。
 私は再びデッキに飛び出し、潮風の中でスマートフォンを耳に押し当てたが、今度は強風で音が飛ばされてしまう。
「今、津軽海峡を渡るフェリーの上にいて、よく聞こえないんだよ」
 そう何度も説明する中で、かろうじて耳に届いた母親の声は「英之、英之」と私の名前を連呼していた。
「英之……」
「何?」
「先生が死んだよ」

♦引用文献
宮沢賢治『新編 銀河鉄道の夜』新潮文庫、一九八九年
宮沢賢治『宮沢賢治全集1』ちくま文庫、一九八六年
宮沢賢治『宮沢賢治全集7』ちくま文庫、一九八五年

三浦英之

みうら・ひでゆき●朝日新聞記者、ルポライター。1974年神奈川県生まれ。
『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で小学館ノンフィクション大賞、『帰れない村 福島県浪江町「DASH村」の10年』でLINEジャーナリズム賞、『太陽の子 日本がアフリカに置き去りにした秘密』で山本美香記念国際ジャーナリスト賞、新潮ドキュメント賞を受賞。最新刊は『日本で一番美しい県は岩手県である』。

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