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井戸川射子『印象・スケッチ』を江國香織さんが読む

[本を読む]

好意を持つという行為

 ここには二つの中編小説が収められている。どちらにも、好意を持つという行為、およびその行為の推移が描かれている。とてもセンシュアル。共通の言語を持たない二人の人間の、主に肉体を使ってのコミュニケーションや、海藻と魚の「間に水を挟まない接触」への渇望、小さな山と大きな山とのあいだの交情─。井戸川射子が恋情や愛着、性愛や疑念や嫉妬や諦念を書くとこうなるのか、と、そのスケールの大きさにも、登場人物(人間以外も含め)の肉体性のビビッドさにも驚く。無謀なまでに感情が言語化され、その言語化がユーモアを生んでいるところにも。「こちらも地下茎で繫がっているので、どこまでが自分かと問われても困るが」とか、「自分は何度も抱き上げられたが、それが相手の筋力トレーニングに使われていただけのような、そういう違和感も残る」とか。
 心は移ろうものだから、どんな恋情も時々刻々と色を変える。だからこの一冊は恋愛にまつわる箴言しんげん・名言の宝庫でもあるのだが、恋情のたどる変化を観察し分析しあぶりだす作者の視線と手つきは解剖でもしているみたいに冷静かつドライで、読んでいると、なんだか身軽な、さっぱりした気持ちになる。それはたぶん、全編を通じて登場人物たちが固有の名前を持たないこととも関係があるのだろう。好意も性愛もその喪失も地球上でずっとくり返されてきたことで、誰もがみなワンオブゼムであるということと。
「愛情を使い果たすっていうのは損するのかな」という初々しい問いや、「好意はとても燃えやすい衣服のように危険だ」という端的な事実、「会話は自分の注ぎ口ある器から、相手の口の広い器に水を移し替える時のように、慎重にやればこぼすことなく残らず何でも伝えられるだろう」という身につまされる錯覚、といった普遍が、この本には地下水脈のように豊かに瑞々しく張り巡らされている。

江國香織

えくに・かおり●作家

『印象・スケッチ』

井戸川射子 著

発売中・単行本

定価1,870円(税込)

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