[連載]
第五章 青森

写真/浅沼和明
こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる
((中略)きしやは銀河系の
巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)
一〇〇年前の一九二三年八月一日。
宮沢賢治は花巻から青森へと向かう夜行列車の情景を、詩集『春と修羅』に収められた「青森
暗闇の中で光を反射させる列車内の窓を水族館の水槽にたとえ、線路脇の果樹園で実り始めているリンゴを水素に見立てて明るいレンズ状の銀河系の中を汽車が疾走していくイメージは、どこか『銀河鉄道の夜』の描写にもつながる。
あいつはこんなさびしい停車場を
たつたひとりで通つていつたらうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを
たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
賢治はその間、ずっと亡くなった妹トシのことを考えている。妹の魂がどこに行ったのか、いまどこにいるのか、暗い心で探し続けている。
とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通つて行き
それからさきどこへ行つたかわからない
二〇二三年八月二日、盛岡市内でさんさ踊りの取材を終えた私は、今度は東北新幹線に乗り換えて賢治の
その二五二行にも及ぶ長い詩には、賢治が一〇〇年前に青森で感じていた悲しみや痛みがまるで真空パックされたように封じ込められている。
彼は妹が亡くなる場面を回想し、嘆き、そして願っている。
わたくしたちが死んだといつて泣いたあと
とし子はまだまだこの世かいのからだを感じ
ねつやいたみをはなれたほのかなねむりのなかで
ここでみるやうなゆめをみてゐたかもしれない
そしてわたくしはそれらのしづかな夢幻が
つぎのせかいへつゞくため
明るいいゝ匂のするものだつたことを
どんなにねがふかわからない
すると突然、どこからか「声」が紛れ込んでくる。
(おいおい あの顔いろは少し青かつたよ)
賢治はその誰ともつかない「声」と会話し始める。
だまつてゐろ
おれのいもうとの死顔が
まつ青だらうが黒からうが
きさまにどう斯う云はれるか
あいつはどこへ堕ちようと
もう無上道に属してゐる
「声」は重ねて賢治につぶやく。
(もひとつきかせてあげよう
ね じつさいね
あのときの眼は白かつたよ
すぐ瞑りかねてゐたよ)
賢治は振り払うように否定する。
まだいつてゐるのか
もうぢきよるはあけるのに
すべてあるがごとくにあり
かゞやくごとくにかがやくもの
おまへの武器やあらゆるものは
おまへにくらくおそろしく
まことはたのしくあかるいのだ
賢治は誰と話しているのか。死に神なのか、悪魔なのか。「青森挽歌」において最も難解な部分だったが、トシの死に顔が少し青かった、目が白かった、と夜闇に紛れてささやく「声」に、賢治は「黙っていろ」「まだ言っているのか」とはね返している。
一方で、彼は妹が死後、進むべき道に──つまり宗教上の天国のような場所に──進めていないのではないかと懸念している。臨終の際、顔が少し青かったり、目が白かったりしたという傍証が彼を一層不安にさせる。「声」はあるいは、死に神や悪魔ではなく、賢治の内なる声そのものなのかもしれなかった。
賢治がなぜこの青森を抜ける夜行列車の中で「みえないもの」との会話を続けたのか、そのとき私にはほんの少しだけわかる気がした。岩手で暮らしている人間にとって、青森はどこか異界とつながる場所なのである。そこには
北東北で活動する伝統的なイタコは現在三、四人しかいないと言われているが、私はそのうち三人に会ったことがある。
「最後の盲目イタコ」と呼ばれる当時九二歳の中村タケには、彼女の自宅のある青森県八戸市で口寄せをしてもらった。三歳ではしかにかかり、二八歳のときに完全に光を失ったタケは、訪問時には耳ももうかなり遠くなっていた。
「ごめんなさいね、もう一度言ってください」
私が何度、口寄せを希望する人物の名前や生年月日を伝えても、タケは私の口元に耳を近づけ、
八戸市の郷土史家・
「生きていくということは、どの時代にあっても、そんなに簡単なものではありません」
郷土史家の江刺家がタケの口寄せの後に言った。
「進むべき道を見失い、自分の心の中が見えない。多くの方がそうおっしゃって、いまもタケさんに会いに来られます。タケさんは目が見えないからこそ、人の心の中がよく見えるのかもしれません」
*
JR青森駅に到着すると、真夏の光が
それもそのはずで、私が青森を訪れた八月二日はこの街が一年で最も賑わう「青森ねぶた祭」の開催初日だったからである。北東北を代表する三つの夏祭りは、盛岡の「さんさ踊り」が八月の一日、青森の「ねぶた祭」が二日、秋田の「
青森市中心部はもうねぶた一色に染まっていた。
台座上で歌舞伎役者のようにみえを切る巨大な
思えば、青森市出身の版画家・
「人間の持っている喜びとか、悲しみとか、驚き。そういうものの極致から出たものこそ、本当の重要なもの。ねぶた正面がおどろに向いた時よりも、むしろ、ねぶたが帰っていく後ろ姿のなんとも言えない寂滅の世界。ああいうことが私の仕事の根源になっているのではないか」
躍動感のある山車灯籠の表情はどれも、棟方の画風に通底している。そしてそんな棟方も生前、賢治とわずかながらにつながりがあったことが、そのときの私には嬉しかった。
一九〇三年、青森市の刃物鍛冶屋の一五人きょうだいの三男として生まれた棟方は尋常小学校を卒業後、給仕などとして働いた。一八歳で雑誌に掲載されたゴッホの「ひまわり」を見て油彩画家を志すものの、帝展での落選が続き、油絵の在り方に疑問を感じて木版画の制作を始めるようになる。そして一九三二年、雑誌『児童文学』に当時はまったく無名だった賢治の『グスコーブドリの伝記』が掲載された際、その挿絵を担当したのが洋画から版画に転向したばかりの棟方だったのだ。
しかし残念なことに、棟方はそのときの賢治との関わりについてはほとんど記憶を有していない。一九七四年には賢治の挿画を担当したことについて「コノクライ不思議ナコトハアリマセン。コノ挿絵ヲ描イタ記憶ガ薄スギルノデス」と書き記している。
棟方はその後、版画で独自の表現世界を切り拓き、海外からも高い評価を受けるが、一九六〇年ごろには眼病が悪化し、左目がほとんど見えなくなってしまう。それでも旺盛な制作意欲は衰えず、一九七五年に亡くなるまで「ほとんど記憶にない」と語っていた賢治の童話や詩をモチーフにした作品を発表し続けることになる。
その代表作が、賢治が手帳に書き残した「雨ニモマケズ」を版画にした「雨ニモ負ケズ板画柵」(棟方は版画を板画と呼んだ)の作品群である。
ただ、棟方が制作した「雨ニモマケズ」の作品群にはどれも、肝心な部分の字や文が欠落してしまっているという致命的な「誤り」が見られる。賢治が詩で記した「ソシテワスレズ」という一文を彫り忘れてしまっている作品さえある。
「この詩を彫ると、どこかを間違えるか、忘れるか、字が一ツ欠けたりするので、不思議です。なんべん彫ってもそうなるので困ってしまいました」
後に棟方はそう釈明しているが、思わずフッと吹きだしてしまいそうな、いかにも棟方らしいエピソードである。
そんな棟方の版画世界を思わせるいくつものねぶたの山車灯籠を見上げながら沿道の人混みの中を歩いていると、集団でホットドッグを食べながら談笑している米兵やその家族らと何度も擦れ違った。ねぶた祭の会場に米兵がひときわ多く見られるのは、青森市の近くに米軍の三沢基地があるからなのだろう。祭りを存分に楽しんではいるものの、完全には緊張感をほどいてはおらず、視線の先にどこか警戒感を漂わせている。
ねぶた祭に熱狂する日本人とそれを見つめる在日米兵のまなざし。そんな両者が醸し出す微妙な温度差や違和感に、私はかつて自分が体験した故郷の夏祭りの記憶を重ね合わせていた。
*
神奈川県相模原市相武台の米軍基地周辺で暮らす「キャンプ・キッズ」と呼ばれる子どもたちにとって、一年で最も楽しみなイベントはアメリカの独立記念日である七月四日前後に開かれる「米国独立記念祭」だった。その日だけは普段厳重に警備されているキャンプの入り口ゲートが特別に開かれ、住民たちがキャンプ内に入ることを許されるのである(当時、キャンプ座間は住民に「座間キャンプ」、米国独立記念祭は「キャンプ開放日」と呼ばれていた)。
祭りの会場となるキャンプ内の中央広場では日本では見ることのできないたくさんのアメリカ式の屋台が並び、キャンプ内の野球場では巨人と横浜の二軍の交流試合が行われたり、夜には派手な花火が打ち上げられたりする。キャンプ・キッズたちは数日前にキャンプ内で催されるアトラクションのチラシを入手すると、まるでディズニーランドをまわる小学校の遠足のように、キャンプ内のイベントで使うお小遣いの配分を議論しながら、当日、開け放たれたキャンプ入り口のゲートへと急ぎ足で向かった。
そこにはフェンスのこちら側では決して体験できない夢のような「アメリカ」が広がっていた。子どもの口には入りきらない極太のソーセージを挟んだ巨大なホットドッグや、バケツのような容器に山盛りにされ、甘いキャラメルソースがたっぷりとかけられたポップコーンや、胸の上部をあらわにした白人女性が笑うビールのポスターや、黒光りする機関銃を積んだまま広場に展示されている軍用ヘリコプターや。現在でこそ普通になった三五〇ミリリットル缶のコカ・コーラを初めて見たのも、キャンプ内の屋台でだった(当時の日本ではまだプルトップ式の二五〇ミリリットル缶しか販売されていなかった)。
青い春を感じ始めたのも、キャンプの中での出来事だった。
祭りの広場にはアメリカ式の複数のアトラクションが立ち並び、そのうちの一つに野球のボールを使った「的当て」のゲームがあった。一〇〇円を払うと購入者には軟式野球のボールが三つ手渡される。約一〇メートル先には五〇センチ四方の的があり、その横には透明なプラスチック板で造られた、高さ約二メートル・横幅約一メートル五〇センチの巨大な水槽が設置されている。水槽は三分の二ほどが水で満たされており、水面の上には小さなイスが置かれ、そこには白いワンピースを着た、私と同じ小学生くらいの金髪の女の子が足を水面につけるような感じで腰掛けている。的にボールが当たると、水槽内のイスの支えが外れ、少女がドボンと水の中に落ちる仕組みになっていた。
「的当て」はキャンプ開放日における人気のアトラクションだった。キャンプ外からやってきた子どもだけでなく、白人の大人までもが列に並び、私の仲の良い友人は持ってきた小遣いのほぼすべてをボール代に費やすほどの熱中ぶりだった。
ボールが的に当たる度に、少女は水しぶきを上げて水面に落ち、白いワンピースが水中でヒラヒラと揺れる。少女はしばらくすると水槽内に置かれているハシゴを使って水面上のイスに再び座り、両手で金髪をかき上げて笑顔で参加者にグッドのサインを出す。少女はワンピースの下にしっかりと水着を着用していたが、私は見てはいけないものを見ているようで、それでいてボールが的に当たる度に、少女から視線をそらすことができなかった。
そんな楽しみでしょうがなかったキャンプ開放日が、小学校高学年になると私の中で徐々に苦痛へと変わっていった。見たことのない異国の食べ物や性的で過激なアトラクションに飽きたのではない。私はキャンプ開放日に、大人たちの現実を直視させられるのが、おそらく嫌だったのだと思う。
キャンプ内では当然、周辺地域で暮らす多くの日本人の大人たちがスタッフとして働いていた。彼らに指示を出す上司や支配人はすべて米軍の白人や黒人たちであり、普段は私たちの模範として学校で教えたり、テレビでドラマを演じていたりする日本人の大人たちが皆、彼らの指示に従って働いている。
教科書で教えられる国家の姿と、目の前に広がる現実との差異。日本という独立国家で暮らしながらなぜ、主権者である日本人の大人たちが外国人であるアメリカ人の指示を受けて働いているのか。この地域に
それは、私の中に自我が徐々に芽生え始めた萌芽の時期でもあったのかもしれない。
小学六年生のとき、私は友人とある「事件」を起こした。
地域の児童館はキャンプ座間のフェンスに寄り添うように建てられており、キャンプ内で暮らす米兵の子どもたちと、フェンスのこちら側の児童館で遊ぶ子どもたちとの間では度々諍いが起きていた。大抵は「ヤンキー・ゴー・ホーム」「ファック・ユー」などと悪態をつきあって終わるのだが、その日はフェンスの向こう側から太った白人の三人組の小学生が拳大の泥玉を投げつけてきて、そのうちの一つが児童館の庭でフラフープをしていた小学校低学年の女児の顔面に当たった。女児がわーんと泣き出すと、三人組は腹を抱えるようにしてあざ笑い、小走りでフェンスの奥へと帰っていった。
正義感の強かった私と友人はその日の夕方、白人の三人組に復讐することを決め、作戦を練った。味をしめた白人たちは明日も泥玉を投げに来るに違いない。ならば、あらかじめ児童館脇のツツジの花壇に身を隠し、泥玉を投げ始めるタイミングを待ってパチンコで三人組を狙い撃とう─そう決めたのである。
翌日の放課後、白人の三人組は案の定、児童館のフェンスの向こう側にやってきた。そして前日と同様、児童館の庭で遊んでいる日本人の子どもを狙って泥玉を投げつけようとしたとき、ツツジの花壇に潜んでいた我々は「いまだ!」と叫んで白人の腹や足を狙ってパチンコを連射したのだ(実際に弾として使用したのはパチンコ玉ではなく、ドングリだった)。三人組は驚いて、芝生の上を転がるようにしてフェンスの奥へと逃げていった。
次の日、なぜか私だけが校長室に呼び出された。部屋には校長の横に軍服を着た背の高い白人と、私の担任である女性教師が下を向いて立っていた。
「とんでもないことをしてくれましたね」と校長は表向き厳しい口調で私を𠮟った。「あなたは自分が何をしたのか、わかっていますか?」
私は事実関係を認めながらもどうしても謝る気にはなれず、唇を嚙みしめながらじっと下を向いていた。軍服を着た白人が日本語で何かを言ったが、うまく聞き取れなかった。担任の女性教師が軍服を着た白人と校長に謝罪した後、「三浦君も何か言いたいことがあるなら言いなさい」と言ったので、私は一言、どこかで聞きかじってきた単語をぽつりと言った。
「自衛権……」
校長はひどく驚いた顔をしていたが、私の言葉を聞いた背の高い白人がフッと笑い、女性教師がその機を逃さずに「まあ」と口を押さえて笑ってくれたので、私はなぜか救われたような気持ちになった。
その後、校長に「もう、いい」と言われて、私は校長室を後にした。教室に戻る途中、私は女性教師に「先に泥玉を投げてきたのはあいつらなんだ。女の子の目に泥が入って目が見えなくなるかもしれなかったんだ」と釈明をしたが、女性教師からは「気持ちはわかるけれど、暴力は絶対にダメ。もう少し大人になりなさい」ときつく𠮟られた。女性教師によると、私たちがパチンコで放ったドングリは一発も三人組には当たっておらず、校長からは米軍に「児童たちに当てるつもりはなく、ドングリを使った威嚇にすぎなかった」と説明してくれていたようだった。
私たちがキャンプ開放日に出かけて異国のアトラクションに心奪われているときも、白人少年とケンカして𠮟られているときも、女性教師はずっと私のそばにいて、成長を静かに見守ってくれていた。
人生とは不思議なものだ。あれほどアメリカが嫌いだった私はその九年後、アメリカ人になることを決意してアメリカに旅立つことになる。その出国の成田空港へと向かう団地のバス停で、最後に見送ってくれたのもやはり女性教師だった。
そしていま、彼女との「約束」を果たそうと、私は一〇〇年前の賢治の樺太旅行の足跡をたどっている。
彼女の言葉をふと思い出す。
「この『銀河鉄道の夜』のお話は、賢治さんが実際に行ったある旅行がもとになっているの。いつかあなたが大きくなったら、樺太までは無理かもしれないけれど、北海道の上の方ぐらいまで、先生を一緒に連れて行ってもらえませんか?」
青森の夏の夜を焦がすようなねぶた祭の熱狂に揺られながら、私の頰を一筋の冷気を含んだ風がかすめる。
北東北の短い夏は間もなく終わりの始まりを迎えようとしていた。
♦引用文献
宮沢賢治『宮沢賢治全集1』ちくま文庫、一九八六年
三浦英之
みうら・ひでゆき●朝日新聞記者、ルポライター。1974年神奈川県生まれ。
『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で小学館ノンフィクション大賞、『帰れない村 福島県浪江町「DASH村」の10年』でLINEジャーナリズム賞、『太陽の子 日本がアフリカに置き去りにした秘密』で山本美香記念国際ジャーナリスト賞、新潮ドキュメント賞を受賞。最新刊は『日本で一番美しい県は岩手県である』。





