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新連載/本文を読む

人間六度
「男子校宇宙人 Homo social aliens」①

[新連載]

大脇時央トキオが通う私立東海中学は
中高一貫の男子校だ。
そこで繰り広げられる狂乱とは──!?


イラストレーション●うひじ

一 星の降る夜

「君たちは宇宙人です」
 ホームルームが始まるが早いかマエセンがそう告げた。
 その一言で教室に満ちていたざわめきをおさめた彼女は、四十名の男子中学生たちの視線を一手に集めた。
 今年で二十五歳になるマエセン──前田まえだめぐるは僕の一年時の担任で、二年に入った今も持ち上がりで2Cを受け持つことになったショートカットの女性教師だ。担当科目は現国と古文で、水泳部の顧問も務めている。なおマエセンというあだ名は上の代からの伝統らしい。
 そんなマエセンはタブレット学籍簿を肩に乗せ、深いため息を一つ吐く。
「動物園の動物と言った方がいいかもしれない。もしくは、妖怪。とにかく私は君たちのことをあまり人間だとは思っていなかったけれど、今後もその認識を持ち続けていこうと改めて思いました」
 最前列に座る石川いしかわが挙手し、わざわざ立ち上がった。
「先生、ヒドくないっすか? なんで、そんなこと言うんすか」
 マエセンは再び深いため息を吐くとタブレットを教卓に置き、教室の真ん中へとやってくる。そしてカセットコンロの上で湯気を上げる鍋を指さし、答えた。
「普通の中学校では、朝礼の時間に鍋をしない」
「寄せ鍋です」
いてません」
「あご出汁だしです」
「石川、職員室」
 マエセンが顎で廊下を指すと、石川は竹を割ったような返事とともにおたまを紙皿に置き、教室をあとにした。潔い背中だった。
 マエセンはカセットコンロの火を止めると、水蒸気で見通しの悪くなった教室を見回し、呆れ顔を作ってドスの利いた声で訊ねた。
「おい宇宙人ども、首謀者は?」
吉田よしだです」と土屋つちやが言い、「長谷川はせがわです」と吉田が言い、「土屋です」と長谷川が言った。土鍋を囲んでいた三人がそれぞれ左隣の人間を指差したので、リサイクルマークみたいになっていた。
 マエセンが木琴を鳴らすみたいに、リズムよく三人の頭を引っぱたいていく。
「アホ三人、職員室」
 マエセンが三人を職員室に連行すると、教室はすぐに騒がしさを取り戻した。
 誰かが言った。「もったいないから食おうぜ」するとまた別の誰かが「七味持ってない?」と言う。「黒七味ならある」「シメどうする?」「走って小ネギ買ってくるわ」等々。
 そんな盛り上がりを尻目に僕はというと、鍋に突撃するタイミングを見計らっていた。
 石川は2Cのオモロ番長だ。その彼が発起人となった鍋ドッキリは、今や大勢の生徒を巻き込んだ一大ムーブメントと化している。
「今行かなくてどうする?」という焦りと「実にくだらん」という冷笑に葛藤し、中腰のまま膝をプルプルさせていると、隣の席の小柄な男子が有線イヤホンを垂らした頭を左右に振った。
「今はやめとけば?」
 その男子──八木やぎくんは、悪戯いたずらっぽい表情で僕の眼前にスマホを突きつけてくる。
高村たかむら位置情報bot』と名付けられたSNSグループにちょうど三十秒前に投稿されたのは、体育教師の高村が竹刀しないを持って生徒指導室を出る様子だった。
 僕は席に戻り、湯気を上げる鍋を遠目で眺めた。
 朝ごはんは食べなくてもいい派なので、おなかは減っていなかった。
「厚揚げいけ、ちょくでいけ」
 ある生徒が別の生徒の口に煮えた厚揚げをぶち込んだ。その生徒は悲鳴を上げてすっ転がった。笑いが起きた。別の生徒が口を差し出すと、湯気の上がる鶏肉を突っ込まれた。やはりそいつもすっ転がった。そのうちに竹刀を持った高村が乗り込んできて机を蹴り飛ばし、銃撃みたいな怒号を飛ばす。ノリノリだった連中は掌を返したように罪のなすりつけ合いを始めた。高村の竹刀が振り下ろされる。それでも紙皿だけは置かない猛者たち。生徒がまた一人引き摺られていった。
 チャイムが鳴った。
「バカだよな、あいつら」
 そう告げる八木くんの女の子みたいな横顔は、どこか羨ましそうだった。
 この中学に入ってはや一年。朝礼で鍋をやるくらいのバカには、もはや誰も驚かない。
 私立東海中学。中高一貫の男子校にして、愛知は車道くるまみちの魔境。
 ありふれた狂乱を少し離れた位置から眺めている僕は、石川や吉田や長谷川や土屋みたいな宇宙人トクベツになれない。どこにでもいるただの中学二年生だった。


 揺るがぬ事実を一つあげるなら、小学生の頃僕こと大脇おおわき時央ときおは特別だったということだ。誰も手を挙げない問題に率先して答え、中学の教科書を先取りして読み、四年生から通い始めた塾の週間テストでは上位者張り出しの常連だった。丸ごと受験に費やした六年生は塾で過ごす時間こそ長かったけれど、寂しさを感じたことはなかった。
 なぜなら、特別だったから。
 だから中学に上がった最初のテストで真ん中の順位をとった時、大きな誤解に気づかされた僕は、僕と同じ目をした人間が教室にひしめいていることに気づき、つぶさに理解したのだ。
「井の中のかわず大海たいかいを知らず」
 そして斜め後ろの席だった八木くん──八木鵬翔ほうしょうもまた、僕と同じ目をしていた。


 球形ジャングルジムのあちこちに落ち着ける場所を見つけ、僕らは携帯ゲーム機の画面をにらみつけていた。ある者は親指を連打してハンマーを叩きつけ、ある者はレバーを駆使してフィールドを縦横無尽に駆ける。思い思いの武器を持ち寄って立ち向かうのは巨大な龍だ。
「ちょ待って、やばい! 根性発動した。マジやばい!」
 底部の鉄板に足を伸ばして座る八木くんが叫ぶと、すかさずジャングルジムの天辺てっぺんから頭を出した西尾にしおたまきが「いける。まだ舞える。粉塵、粉塵!」と、レバーをガチャガチャし始める。
 粉塵というのは体力回復用のアイテムで、けばとりあえず急場をしのげるのだ。
「ちょっと僕一旦キャンプ戻るわ。装備変えてくる」
 画面の中のキャラクターが緑の煙に包まれて初期地点に舞い戻った。ボックスをあさって装備を回復特化のものに変更する。その間にも他の三人の体力ゲージは、かなり低い位置を移ろっている。まだ五月だというのに額には汗がにじむ。
「今戻るよ」
「いや、ちょっと待て今はマズイ──!」
 環がそう制した時にはすでに遅く。場面移動の直後、僕のキャラクターは味方プレイヤーともども、龍の口から吐き出された炎に焼かれていた。
 突きつけられる真っ赤なミッション失敗の文字に、近くのベンチで正座してゲーム機を握り込んでいたマシューが「キチィ〜!」と声を上げた。
 マシューは無精髭を生やした老け顔の男だ。母親と一緒に歩いているとよく夫と間違われるという話を持ちネタにしている。そんなマシューはジャングルジムまでやってくると、神妙な面持ちで言った。
「さて、戦犯を決めよう。言わせてもらうが小生ではないぞ。なぜなら尻尾を切った」
 マシューの一人称は夏目なつめ漱石そうせきの『吾輩は猫である』を読んで以降ずっとなぜか“小生”である。
「僕でもない。死んでないから」と僕。
「俺も違うよ。双剣はメイン火力だし」と八木くん。
「もちろんオレでもない。なぜなら、二おつからが本当の戦いだ」と環。
 マシューの掛け声により、指差しが行われた。
 マシューを指した環以外の全員が、頭上の環を指していた。
「タマキン、ダッシュ」
 マシューの判決に環が飛び降りると、衝撃が僕の膝下まで伝わって来た。ジャングルジムの天辺から地面までは少なくとも三メートルはあった。
「んだよちきしょう! あとタマキンって呼ぶな!」
 難なく着地した環は捨て台詞とともに、近くのセブン-イレブンへと駆けていく。
 さて、これが部活動だと言ったら皆は困惑するだろうか?
 しかし何を隠そうこれこそ、僕たち四人だけの部活動《ネ帰》のごく一般的な活動風景なのである。
 ネクスト帰宅部──通称《ネ帰》の発足は一年の二学期までさかのぼる。東海中学に進学した者は例外なく、何らかの部活動に入らねばならない。八木くんとともに何となく吹奏楽部に入ったもののろくに活動しなかった僕は、当時同じクラスだった環とマシューを誘い、この部を立ち上げた。
 ちなみに活動名の“ネクスト”部分は、姉からのお下がりでもらった単語帳『Next Stage』から取った。音感がカッコよかったから。
 以来僕たちは放課後公園に集まり、画面の中で龍を狩っていた。
 環が両腕に大量のビニール袋を抱えて戻ってくると、ジャングルジムの中で菓子パーティが始まった。
 一時間くらいしゃべり、最初に輪を抜けたのはマシューだった。
「じゃあ、明日リベンジな」
 僕の何気なく放った一言に、マシューは頭上に合掌を作り、
「すまない。小生は明日、試合だ」
 と言って、ベンチに立てかけてあった竹刀袋を背負ってそそくさと帰路についた。
 ああ見えてマシューは中学剣道部のエースである。
「俺もサタプロの実行委員と生徒会があるから、ちょ〜っと厳しいかな」
 サタプロというのはサタデー・プログラムの略で、各方面から様々な有名人を呼んできて講演をしてもらう弊学特有の生徒主導イベントだ。
 環は複数のコミュニティから頼りにされる、いわゆるカリスマ体質。だからこそ、どうして今もなお《ネ帰》なんかに顔を出しているのか、僕には不思議だった。
「今年は誰を呼ぶの?」
「ロゼッタストーンの錦戸にしきどさん」
「うわっ、M–1ファイナリストじゃん。来てくれるの……?」
「まあ、そこは俺のコレ・・の見せ所ってことで」
 環は袖をまくると、たくましい右腕をパンパンと叩いた。それから鉄棒で逆上がりを軽く十回ぐらい決めてから帰っていった。なんというか環は、僕とは積んでいるエンジンからして違う気がする。
 夕暮れの公園に残された僕は、鉄板に寝そべってスマホを掲げる八木くんごと、ジャングルジムを回し始めた。
「ぶっちゃけさ」
「うん」
 両手の人差し指と小指でスマホを挟むように持った八木くんが、親指を画面に高速で打ち付けていた。かすかに聞こえてくるのは、聞き馴染みのあるボカロ楽曲だ。
「鍋、別にそんなオモロくなかったよね?」
 八木くんが画面から目を外さずに訊ねてきた。
 僕が肯定すると「だよね?」と問い返してくる。
「あれ最終的には七味だらけで食えたもんじゃなかったらしいよ」
「いやぁ──」僕はさらに両腕に力を込めて、ジャングルジムの回転を増加させる。「何でも辛くすればいいと思ってるの、マジでオモんないわ」
「わかりみがある」
 タタタタタタタタ。スマホの音源より画面を叩く音の方が大きかった。
 流石さすがに息が切れてきて、そろそろジャングルジムに飛び乗ろうとした時だった。
「なあトキオ。今からやべえこと言っていい?」
 八木くんがスマホをポケットに突っ込み、もったいつけて次のように言った。
「彼女できたわ」
 僕は全身を硬直させ、急ブレーキをかけた。その拍子に遠心力の餌食となった八木くんが「うわっ」と声をあげ、ジャングルジムからすっぽ抜けて飛んでいった。
「ガチ?」
 砂まみれになった八木くんを見下ろしながら訊ねた。
「痛ってーな! いや噓だけど」
「噓かよ!」
 こちらが差し伸べた手をパシリと払うと、八木くんは僕の膝へ軽い蹴りを放った。八木くんは見た目こそ可愛い系だが《ネ帰》の中では一番荒っぽい。
 気づくと夕陽が僕らの足元に長い影を作っていた。
 回り続ける球体ジャングルジムのギィギィという鳴き声が虚しく響く。
「なあ、僕たち──」言いかけて飲み込んだ。八木くんの視線は夕焼けを向いている。「僕たちこのままでいいのかな」続くはずだった言葉を胸の深くに仕舞った。
 公園を出たところで、八木くんが言った。
「なあトキオ。前言ってた件どうなってる?」
 さて何のことだったかと首を捻ったが、八木くんの下世話な表情で思い出した。
「ああ、姉ちゃんに会わせるってやつね?」
 八木くんが首を縦に振る。
 チワワみたいな瞳が夕焼けに負けないくらい輝く。
「オッケーオッケー、訊いとくって」
 八木くんがこちらを問うようにじっと見てから、お前だけが頼りなんだよ、とおもむろにつぶやく。僕は八木くんの背中に手を回し、肩を組んで夕焼けに染まる道を歩いた。
 もちろん姉を紹介する気はなかった。


 玄関に整列した見慣れない女ものの靴で、僕は状況を大まかに察した。上がりかまちに腰を下ろして靴を脱いでいると、案の定雷鳴みたいな笑い声が階段を駆け降りてきた。
 二階の自室に荷物を置きに行くと、廊下でばったりと栗色の髪の女性にでくわす。
「あっ! もしかしてこの子って」
 姉の部屋の扉が薄く開かれ、「ああ、うん。そいつ・・・が弟」と姉の声。部屋にはどうやら他にもう一人いるようで、机の上に無造作に広げられたナゲットが見えた。
「っす」
 とりあえず挨拶だけすると、栗色の髪の女性は珍しい動物でも見るような目で「まじ? 全然ヤバくないじゃん。めっちゃ可愛いんですけど〜!」と言った。
 姉のみさきは、今年から名古屋市立大学の人文社会学部国際文化学科に通い始めた女子大生だ。幸いなことに喧嘩が少ないのは、姉が五歳も離れた弟のことをなんとも・・・・思っていないからだ。
 無論僕にとっても姉はなんともない存在だが、クラスメイトにとっては違う。
「お前、姉ちゃんいんの? まじ? 家族ガチャ強者かよ、爆発しろ」
 クラスメイトに姉のことを話すと大抵相手は目をキラキラさせるか、さもなくば嫉妬の言葉を吐いた。──砂漠のど真ん中でオアシスを見つけたみたいに。
 実際、男子校は砂漠なのだ。花の一輪も咲かない砂漠。授業中に鍋をやってもいいのは、砂漠だから。何かにつけて脱いで笑いを取るのも、砂漠だから。
 そう。
 僕らの学校生活には──《花》がない。八木くんのように甘いルックスがあっても、西尾環のようなカリスマがあっても、異性との接点がそもそもゼロなので、浮いた話は一切生まれない。
 花がないからどこまでもバカになれるし、ならなくちゃいけない・・・・・・・・・・
 リビングに降りると母がカレーを温めていた。それは昨日のカレーであり、一昨日のカレーでもあった。『トイレットペーパーは使い切った人が買いに行く』に並ぶ、我が家の二大悪習。母は冷蔵庫内にルーの片割れが残ることを、間違いなく他の母親の三倍は嫌っている。
「さっきすごい音聞こえんかった?」
 冷蔵庫から出したサラダの小鉢にカリカリベーコンを散らしながら母が訊ねてくる。
「姉ちゃんの笑い声でしょ」
 答えたはなから天井がドンドンと鳴り、麦茶の水面に波紋ができている。リビングの真上を姉の部屋にしたのは大脇家最大の失策だ。
「違う違う」母は怪訝けげんな顔をしてかぶりを振った。「多分、あんたが帰ってきてるとき」
 僕はスプーンでクタクタになったジャガイモを割りながら答える。
「イヤホンして帰ってたから」
「ふーん」
 そっちから訊いたくせに、母はとっくに興味を失っていた。
 やがて父が帰宅し、テレビ前のソファにどしんと腰を下ろす。「カレーは?」と母。「後で」と父。僕は残りを搔き込むと、皿をシンクまで移動させた。再び頭上でドタドタと音が鳴った。岬は中学二年の時にはすでに彼氏を作っていた。しかも二人。それでもって、その二人を頻繁に会わせて擬似BLみたいなことをして遊んでいたらしい。岬は僕のことを「ヤバい弟」と紹介しているようだが、BL狂いの姉だけには言われたくなかった。
 冷蔵庫を開け、リプトンミルクティーを切らしていることに気づく。
「冷蔵庫、早く閉めなさいよ。開け閉めで入った湿気がカビの温床になるって、この前テレビで、」
「あのさ、家出してくるわ」
 母の説教をさえぎり、僕は言った。
 沈黙の中に、父の手がタブレットに触れる音だけが取り残された。
「何時に戻るの?」
 母はもうすぐ二十時を回ろうとしている時計を一瞥すると、何事もなかったようにカレーを口に運ぶことを再開した。
「戻らないから家出なんだろ」
 僕は自分の洗い物だけを済ませると、色々なものがかかりすぎたせいで不気味な樹木のように見えるポールハンガーから、上着と肩掛けポーチをひったくった。
「あんた、面白いこと言うわね」
 母は、カレーのちょっとついた口の端を吊り上げ、ニヤリと笑う。
 鈍色にびいろの夜空は星ひとつなく、家出には向かない月曜日だった。


「くそ、完全にめられてる……!」
 ぶつぶつと母親への文句を呟きながら夜道を歩けば、梅雨はまだだというのにジメジメした夜風が全身を包み込んで気持ち悪い。
 遠音とおねで消防車のサイレンが聞こえた。元中村町もとなかむらちょうはお年寄りの多い地域だ。今日も今日とてお年寄りが、餅を喉に詰まらせ運ばれていく。
 僕は公園でのことを考えた。
 僕たちこのままでいいのかな──あの時、八木くんに言えなかったことだ。そして八木くんに言えなかったということはきっと、これからも誰にも話せないことなのだ。
 近くの神社が見えてきて、なんとなく敷地内に入ってみる。お年寄りの街にふさわしい老朽化した社の隣には、これまたお年を召した大樹がそそり立っている。
「ああ、空から……」
 どんなに情けないことを言っても、一人きりの夜道は許してくれる気がした。
 僕は星空に向かって告げていた。
「美少女でも降ってこないかなあ」
 そんな僕の投げやりな視線に重なる視線があった。「えっ」思わず声が漏れ、二度見していた。老樹の……地上十メートルくらいか? とにかくかなり高い位置だ。枝に布のようなものが絡んでいて、そこに人間が宙吊りになっていたのだ。
 青とも銀ともつかない妙な髪色の『女の子』だった。逆さ吊りになっているのではっきりとはわからないが、髪は多分肩ぐらいまではあるのだろう。服装も……ダイビングスーツと宇宙服を足して二で割ったようで、何かのコスプレ衣装みたいに見える。
 僕が見上げていると、女の子は一度別の方へと視線をずらし、再びこちらを見下ろしてから、ギョッとした顔を作った。
「もしかして、見えてる……?」
 高い声が、閑散とした神社に響いた。
 僕はあたりを見回し、自分以外に誰もいないことを確認すると「見えてます、けど」と恐る恐る答える。
 途端に女の子の表情が、ぐしゃぐしゃに崩れた。
「うわ─っ、よかった! よかったよお!」
 ぼとぼとと大粒の涙が降った。それらの一部は風にあおられ、木の幹から五メートルくらいの位置にいる僕の額まで届いた。
 女の子はブンブンと首を振って涙を振り払うと、
「あのね、ソデ・・の調整を間違えちゃって、誰もボクのことを見つけられなくなっちゃったんだよ。ここを通りかかった人は二百九十一人で、そのうち木の幹まで来てくれたのは九十二人、見上げたのが四十一人……でも声が通じたのはキミが、初めてなんだよ」
 早口で捲し立てると、再び嗚咽おえつを漏らし始める女の子。
 聞き間違えでなければ一人称が「ボク」だったようだが……正直状況と服装の方が込み入りすぎていて、一人称までツッコむ余裕がなかった。
 確かにこの辺りの人通りは多くはないが、木から宙吊りになった女の子を三百人近い人間が見過ごすとはとても思えない。
 ただ泣きっぷりから、ただの噓とも思えなかった。
 パラシュートのような布から伸びた糸が体に絡んでいて、それが彼女の体を支えているとも言えるし、そのせいで降りられなくなっているとも言える。
「もとはといえば大気圏への侵入角調整を間違えちゃったのが悪いんだけど……とにかくもう、ずっとこんな感じで……。うう」
「とりあえず、警察呼ぶよ」
「うん、ありがとうほんとに。君のことは一生忘れ──待って!」
 声が雷みたいにとどろいた。
 ちょうどスマホを耳にあてがったところだった僕は、反射的に通話終了のボタンを押していた。
「警察はダメ! 絶対ダメ!」
 唯一自由に動く右手をブンブンと振り、女の子がとにかく必死に拒絶を示す。
「じゃあ消防署は? クレーン車みたいなやつだったら、簡単に降りられると思うけど」
「ショウボウ……それって行政機関?」
「多分、そう」
「行政機関絶対ダメ!」
 尋常ではない拒否反応だった。僕は純粋な疑問から「なんで?」と訊ねる。
 すると女の子は呆れとも困り顔ともつかない絶妙な表情を作り、
「それは、ボクが宇宙人だからに決まってるでしょ」
 と、言った。
 それから女の子は慌てて右手で口を覆うと、「あっ、いや。もちろん良い宇宙人だよ」と付け加える。女の子の瞳にそれまでと別種の必死さが宿る。
 僕は眉根を寄せた。
 でもその時、半開きの口にベタつく風が吹き込んで、ああこれで冷蔵庫がカビるのかとか考えて、僕は諦めて現実を受け入れた。


「じゃあ……僕にどうしてほしいの」
 まさか登って助けに来てくれとは言わないよな? ビルなら四、五階ぐらいの高さだ。考えるだけでも足がすくむ。それとも、ジャングルジムの天辺から華麗に着地した環ならば、この場もなんとかしてしまうのだろうか?
 僕はかぶりを振って雑念を追い出した。
 女の子は、右手で何やらジャケットのポケットを漁ると、ぽいと何かをこちらに投げて渡した。それはボールペンのような細長い器具だった。
 側面にはボタンが二つと、ダイヤルが一つある。
「それで撃ってほしいんだ」
 目的語も主語も省かれた説明に、僕は首を傾げる。
「それは〈玉〉」
「たま……?」
 撃つ、というからにはどちらかが発射口ということなのか。どちらの先端を見ても穴は見当たらない。試しに空に掲げてみる。
「うん、〈玉〉三種の神器の一つ。ボタンが二つあるでしょ? そのボタンを──」
 ギューン!
 凄まじい音と衝撃が右肩を駆け抜けたかと思うと、ペン先から光の柱が上空まで伸び、雲を吹き飛ばしていた。
 指先がボタンを押し込んでしまったのだと遅れて気づいた僕は、慌てて力を緩めた。
 光の柱は消え、ほのかに発熱したペンが脱力したてのひらから滑り落ちた。
「うそ、だろ……」
 僕は、雲が一掃された空で馬鹿みたいに綺麗に輝く満月を、しばし呆然と眺めた。
「まずはツマミを右回しに限界まで絞ってから……って言うべきだった! 驚かせちゃってごめん。威力を最小にしてもう一度狙ってくれない?」
 地団駄を踏みかけ、それすら思いとどまった。それから慎重にペンを拾って、ボタンに触れないようにツマミを右に目一杯回した。
 首をもたげると、女の子が期待の眼差まなざしでこちらを見下ろしていた。
「冗談じゃないぞ! こんなヤバいもん二度も使えるわけないだろ!」
 僕は抗議の声を上げた。
 もしあのビームを自分の顔に誤射していたらと考えると、背筋が凍る。
「でも、お願いだよ。ボクにはキミしかいないんだ」
 宙吊りの女の子は頑なだった。おい、何を言ってんだ? こんな初対面の得体の知れない人間のために、天候を変えてしまうほどの力を振るえと? 失敗したら女の子ごと吹き飛ばしちゃうかもしれないのに……?
 怖かったし、怖いと思う自分が真っ当だと思った。
 だって僕は宇宙人じゃないし、特別な人間・・・・・でもない。
 でも頭の片隅にはまだ、プライドの欠片のようなものが残っていて、その存在を自覚する時、僕はいつも自分にこう問いかけるのだ。
 ──こういう時、西尾環ならどうする?
「う、動くなよ! 絶対だぞ!」
 女の子が小刻みに頷いた。その微振動すら鬱陶しかった。狙うべきなのはパラシュートの紐の絡んだ枝だ。出力最小にしたビームはどれくらいの太さなのか? 一度、頭上に試射してみる。レーザーポインタみたいな光の柱が空へと昇った。よし。
 僕はペンを構えた。
 そして一度深呼吸をし、人差し指でボタンを押した。
 ピュン。
 細長い光が枝とパラシュートの隙間に入り込むと、あっけなく紐がちぎれ、そして……女の子の体は自由落下を始めた。糸は彼女の体を捕らえつつ、支えてもいたのだ。
 糸を切ったら落ちる。当たり前のことだ。
 全身の毛が逆立つのを感じながら、走り出していた。だけど女の子の体はもう半分まで落ちている。僕はぎゅっと口を引き結び、地面に滑り込んだ。
 落ちるならせめて、僕の体の上に──。
 衝撃がなかなかやってこない。恐る恐る目を開けると、女の子は右腕に巻かれた時計のようなものを光らせながら、ラピュタのヒロインみたいにゆっくり落ちてきていた。
 空から降る彼女は、月夜に光り輝いて見えた。
 まるで僕の人生に初めて降った流れ星みたいに。
 僕の腹の上に優雅に着地した彼女は「ありがとう」と叫び、そして──僕の肩にグッと歯を突き立てた!
「……えっ! ちょっ、なんで!?」
 突き飛ばすみたいに彼女の体を押し返し、肩に残った歯形を確かめるようにさする。
 彼女がハッとした表情を作り、不安そうに自らの口元を手で覆う。
「もしかしてこの星では侮辱のサインだったりした……!?」
 僕が小刻みに首を横に振ると、彼女の顔に笑顔が戻る。
 それから僕の手からペンみたいな装置を受け取ると、
「本当にありがとう。それじゃあ、またね」
 そう言ってブンブンと手を振った。
 別れはあっけなかった。甘嚙みまでされたのに。
 無慈悲な速度で遠ざかっていく背中を、僕はただ見つめることしかできないのか?
 彼女が宇宙人でもなんでもいい。もし彼女が僕の人生に現れた流れ星ヒロインなら、ここで連絡先を訊かないでどうする?──僕たちこのままでいいのかな。胸の内に封じた問いに応えられるのは大脇時央、お前だけだろ?
「な、なあ!」
 彼女が立ち止まる。コスプレみたいな服が電灯で光っている。胸の音がうるさくて、手汗がひどい。
「また君と会える?」
 彼女が振り返る。
「もちろん」
 そして、弾むように告げる。
「だってキミはボクのコネクター・・・・・だから」


(つづく)

人間六度

にんげん・ろくど●作家。1995年愛知県生まれ、東海中学校・高等学校卒。
2021年『スター・シェイカー』で第9回ハヤカワSFコンテスト《大賞》、同年『きみは雪を見ることができない』で第28回電撃小説大賞《メディアワークス文庫賞》、26年『烙印の名はヒト』で第57回星雲賞《日本長編部門》を受賞。著書に『BAMBOO GIRL』『永遠のあなたと、死ぬ私の10の掟』『トンデモワンダーズ(上・下)』『オーバーライド』『推しはまだ生きているか』等多数。

『推しはまだ生きているか』

人間六度 著

単行本・発売中

定価2、200円(税込)

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