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三浦英之「銀河鉄道の夏」④ 第四章 盛岡

[連載]

第四章 盛岡


写真/浅沼和明

 盛岡は京都や新潟と並ぶ日本でも指折りに美しい街の一つである。
 JR盛岡駅を降りて北上川をまたぐ開運橋を渡ると、空の半分を支配する勢いで岩手山がドドンと目の前に迫ってくる。

ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな

 近代短歌の革新児と呼ばれる盛岡出身の石川啄木が、三一音という限られた短歌の中で「ふるさとの山」という七音を二度も重ねて使うほど、岩手山の存在は盛岡市民にとって圧倒的であり、絶対的でもある。
 一〇〇年前の一九二三年七月三一日。研究者の調査によると、宮沢賢治は花巻駅午後九時五九分発の夜行列車に乗って直接青森駅に向かっているので盛岡には立ち寄ってはいない。
 でもそのときの私にはどうしても、途中の盛岡駅で下車しなければいけない事情があった。
 翌日の八月一日が「盛岡さんさ踊り」の開幕日だったからである。
 その昔、盛岡城下に鬼が現れ、困り果てた里人たちが三ツ石神社に鬼退治を祈願し、願いを聞き入れた神様が鬼を捕らえて二度と悪さをしないよう、鬼に三ツ石と呼ばれる大岩に手形を押させた—それが「岩手」の由来であり、喜んだ里人たちが三ツ石の周りを「さんさ、さんさ」と踊ったことがさんさ踊りの起源とされる。幸福を呼び込む「サッコラ、チョイワヤッセ~」という軽快な掛け声と共に、浴衣姿の老若男女が短い夏の宵闇に舞うさんさ踊りは盛岡市民が待ち焦がれる北東北を代表する夏祭りであり、盛岡で働く地方記者としては絶対に外せないイベントの一つだった。
 私は東北本線を盛岡で途中下車すると、その日は盛岡八幡宮の近くにある自分のアパートに泊まり、翌朝、官庁街の一画にある所属新聞社の支局へと徒歩で向かった。町屋作りの古い街並みが続く鉈屋町なたやちょうを抜け、秋になると鮭が上ってくる中津川を横切ると、路地裏にはもう、夕方のさんさ踊りに向けた練習の太鼓や笛の音が漏れている。
 そんな少し上気したような北国の街の表情が、私にはどこか『銀河鉄道の夜』のワンシーンを思い起こさせるようで嬉しかった。一〇〇年前の樺太からふと旅行をもとに書かれたとされる『銀河鉄道の夜』もまた、祭りの日の夜の出来事だったからである。
 主人公の少年・ジョバンニの母親は病気を患い、彼は学校に通う傍ら活版所で活字を拾うアルバイトをして貧しい生活を支えている。帰宅後、彼は病床の母親から「今晩は銀河のお祭りだねえ」と告げられ、「うん。ぼく牛乳をとりながら見てくるよ」と言って街へと繰り出す。
 賢治は『銀河鉄道の夜』の舞台については生前何も語っていないが、そこに描かれている街の情景は確かに、賢治が学生時代を過ごした冷涼な北東北の盛岡とよく似ている。

 空気はみきって、まるで水のように通りや店の中を流れましたし、街燈はみなまっ青なもみやならの枝で包まれ、電気会社の前の六本のプラタヌスの木などは、中に沢山たくさんの豆電燈がついて、ほんとうにそこらは人魚の都のように見えるのでした。
(『銀河鉄道の夜』第四次稿)


 賢治は青春期をこの盛岡で過ごした。一九〇九年に盛岡中学校(現・盛岡第一高校)に入学し、日本初の高等農林学校として創設された盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)で学んだ一三歳から二四歳までの約一〇年間は、彼の執筆活動の揺るぎない血肉となっている。
 岩手県出身者以外にはあまり知られていない事実だが、啄木と賢治は実は同じ中学校の出身者である。彼らが学んだ盛岡中学校は一八八〇年に岩手県内で最初に設置されたエリート校であり、美しい白塗りの木造建築に加え、正面玄関の上にバルコン(バルコニー)が備えられていたことから、当時は「白堊城はくあじょう」と呼ばれていた。
 啄木と賢治は年齢で一〇歳、学年では一一年離れていたため、実際の接触はなかったとみられているが、賢治と生前深い親交のあった直木賞作家・森荘已池そういちの甥で、石川啄木記念館の館長を務めた森義真よしまさによると、賢治は生涯にわたって啄木の影響を受け続けていた。
 啄木が歌集『一握の砂』を刊行したのは一九一〇年一二月。賢治はおそらくその歌集を読んで、短歌を作り始めている。

不来方こずかたのお城の草に寝ころびて
そらに吸はれし
十五の心

 盛岡城址に寝転んで未来を夢想する啄木のあまりにも有名な歌に対し、賢治も一九一四年、それを模倣したような歌を同じ盛岡城址で詠んでいる。
 啄木は三行書きの新しい短歌のスタイルを確立したことで知られるが、賢治もやはり三行のスタイルでそれを書いている。

城址の
あれ草に臥てこゝろむなし
のこぎりの音風にまじり来

 賢治の活動はその後、詩や童話などのジャンルに発展し、文学の枠を超えて音楽や天文、宗教などへと広がっていくため、文学的な出発の時期を除けば、彼が啄木から影響を受けた期間はそれほど長くないとされているが、一方で、賢治が死の前日に遺した文字が詩や童話などではなく、他でもない短歌であったことが、私には印象的だった。

方十里 稗貫のみかも
稲熟れて み祭三日
そらはれわたる

 病床に伏し、死の直前に垣間見た故郷・花巻はなまき鳥谷崎とやがさき神社の例大祭。その三日間がさわやかな秋晴れで、その年の作付けが豊作だったことを喜ぶ歌であり、やはり三行で記されている。
 賢治の胸には最期まで、同郷の歌人・啄木がいたのではなかったか。

 賢治や啄木が青春を歌い、私が移り住んだ盛岡は、街の至る所に個人経営の喫茶店や書店、小規模な映画館が軒を連ねる「文化の街」だった。二〇一〇年代の国の家計調査では、一世帯あたりの本の購入金額が全国一位を記録した「読書の街」であり、市街地の中心部に映画館通りがある「映画の街」であり、市民劇団が林立し、「観る人よりも演じる人の方が多い」と言われる「演劇の街」でもある。
 人口規模が三〇万人弱とそれほど大きくなく、首都圏から程よく距離があるため、外資や大手チェーンが出店しにくい。なかでも「盛岡市民なら誰もがひいきの喫茶店を複数持っている」と言われるほど、個人経営の喫茶店の存在感が強く、文学的で多様な素養を持ち合わせた人々がそれらの喫茶店に昼夜集い、映画や本や演劇について熱く語り合う、その連帯が「スターバックスが潰れる街」を作り上げている。
 そんな盛岡市に賢治ファンの間で「走り続ける研究者」と呼ばれる人がいる。
 タクシー運転手の牧野立雄たつお。名古屋出身で、学生時代に読んだ賢治の童話『ポラーノの広場』に出てくる一文に魅せられて、二八歳のときに盛岡にやってきた。

 あのイーハトーヴォのすきとおった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森でかざられたモリーオ市、郊外こうがいのぎらぎらひかる草の波
(『ポラーノの広場』)


 学習塾や障害者団体の仕事をしながら在野で研究を続け、五九歳からはタクシー運転手として賢治が青春時代を過ごした盛岡市内を日々タクシーで走り回っている。
 岩手県外からやってきた賢治ファンを乗せて案内するのは、賢治が下宿していたしもはし近くの「ちゃんがちゃがうまこ」の石碑や、岩手医科大学附属内丸メディカルセンター内にある挫折した恋の痛みを刻んだ詩碑、明治四三年に竣工した旧第九十銀行を改修し、賢治や啄木の青春時代を紹介している「もりおか啄木・賢治青春館」など。なかでも賢治ファンの聖地とされる「いーはとーぶアベニュー材木町」は、牧野が必ず立ち寄る場所だ。楽器店前にある背広を着た賢治像は花巻農学校の教師時代に生徒から慕われていた頃の姿とされ、ネコが嫌いだったとされる賢治は右手の中にひっそりとネズミを隠している。
 その賢治像の通りを挟んで反対側にあるのが、賢治が生前唯一刊行した童話集『注文の多い料理店』の出版を手掛けた「光原社」である。いまは賢治の世界観を大切にしながら、漆器や陶磁器、民芸品などを販売する店になっている。
 光原社という社名は、創業者の及川四郎が『注文の多い料理店』を出版する際、賢治が五つばかり持参した候補の中から選んでつけたものである。
 及川が盛岡高等農林学校の学生だったとき、一つ上の学年に賢治がいた。及川は卒業後、友人の近森善一と東北農業薬剤研究所を作って農薬の製造や農業テキストの出版を始めるが、近森がテキストの売り込みに花巻農学校で教師になっていた賢治のもとを訪ねると、逆に童話の原稿を見せられて出版の相談を持ちかけられてしまう。近森が持ち帰って及川に相談すると、及川は意外にも「出そうじゃないか」と応じ、手掛けたこともない童話集の出版へ乗り出していく。
「結論から言うと、『注文の多い料理店』はまったく売れませんでした」
 及川の孫で光原社の代表を務める川島富三雄が、私の取材に『注文の多い料理店』の出版の経緯について教えてくれた。
「童話集の出版を決めたものの、祖父の四郎にしたって資金のあてがあるわけではありません。装丁も斬新なものにしたため予定の金額よりも随分と多くかかってしまい、農業テキストの販売で食いつないでいた祖父は多額の借金をして『注文の多い料理店』を刊行したようです。それでもまったく売れなかったため、結局は賢治さんが父親に借金をして二〇〇冊ほど買い上げてくれたと─」
 一方、私はそのときの光原社での取材において、ある文学史的な「スクープ」をものにしている。
「実はですね……」と川島はインタビューの終盤、少し思い詰めた表情で私に言った。
「私は幼い頃、材木町の家で祖父の四郎と暮らしていたのですが、小学校の授業で『よだかの星』を学んだ際、祖父に『賢治さんがどういう字を書く人なのか知りたいので、原稿を見せてくれないか』と頼んだことがあったのです。すると、祖父からは『実は原稿を活字にして東京で印刷した後、直筆原稿を盛岡に持ち帰る際に上野駅で置き引きに遭ってしまい、いまは残っていないんだ』と打ち明けられたことがあるのです」
 賢治の多くの原稿は何重にも書き直しがなされているため、それ自体が推敲の過程を知るための極めて貴重な文学的資料になっている。彼が生前刊行できたのは『春と修羅』と『注文の多い料理店』の二冊だけであり、死後、弟の清六などの手によって発表された作品については当然その草稿が残されているものの、『注文の多い料理店』については草稿が現存していないため、どこへ消えたのかが長年の謎になっていた。
「『注文の多い料理店』の草稿は、東京から盛岡に持ち帰る際に盗まれてしまったということですか……」
 突然飛び出した「スクープ」に私が動揺を隠せず川島に聞くと、彼は「ええ、祖父の話が正しければ」とちょっと神妙な表情になって言った。
「これは我が一族が他人には語ったことのない、『注文の多い料理店』に関する秘密です」
 長年、光原社の歴代経営者の胸中に秘められてきた「秘密」。川島は短い沈黙の後、「そういえば」と祖父の及川に関する別の思い出話を披露してくれた。
「祖父の四郎はよく、私が学問や人生に行き詰まったとき、『井の中のかわず、大海を知らず、という言葉を知っているか』と口癖のように言っていました。そして、こう続けるのです。『でも上を見てみろ。そこには星が見えるんだ。それを忘れてはいけないよ』と。祖父は明言しませんでしたが、私はこの言葉は賢治との会話の中で生まれたのではないかと思っています。夢があって、どこかロマンチックで……」 

「走り続ける研究者」と呼ばれるタクシー運転手の牧野が客を最後に連れて行く場所は、賢治の詩碑が建つ、現在は「岩手公園」と呼ばれている盛岡城址である。
 石碑に刻まれている詩は「岩手公園」。教会で宣教の傍ら盛岡中学校で英語を教えていたタッピング一家や岩手城址から見た盛岡の夕暮れの情景が描かれており、賢治が晩年に記したものとされている。
 実は一九七〇年、この詩碑が岩手公園に建てられる際、ある揉め事が起きている。多くの賢治ファンからは詩碑の設置場所として「ぜひ盛岡城趾の本丸に」という要望が出されていたが、盛岡城址の二ノ丸にはすでに啄木の「不来方のお城の草に」の歌碑が建っている。そのため「啄木の碑が二ノ丸で、賢治の碑が本丸では、後輩の賢治はいたたまれない」という議論に発展し、最終的には賢治の詩碑は下の広場に設置されることで落ち着いた。啄木と賢治の関係性を重視する、実に岩手県民らしいエピソードである。
「ぜひ盛岡城址の本丸に上がって周囲を見渡してみてください」
 タクシー運転手の牧野に誘われて、私も盛岡城址の石段を一段ずつ登った。
「二ノ丸には有名な啄木の歌碑があり、近くに中津川、遠くに東北本線や東北新幹線が見えますよね。どうです、何かに気づきませんか?」
 夕暮れに沈んでいく盛岡の風景を眺めながら、牧野が野球少年のように目を輝かせて言う。
「これはあくまでも私の仮説なんですが、『銀河鉄道の夜』では友人らがカラスウリの明かりを持って川へ向かった後、主人公のジョバンニが丘の上で寝転んでいると『銀河ステーション』という声を聞いて、気がつくと銀河鉄道に乗っているでしょ? この城址から見渡してみると、あの物語の情景とあまりにそっくりなように思えるんです。賢治はあの『岩手公園』の詩だけではなく、病床で『銀河鉄道の夜』を推敲した際、この盛岡城址から見た、夕闇の中を走り抜けていく列車の明かりを思い浮かべたのではなかったかと。もちろん、賢治が生前何も語っていない以上、かの名作の舞台が盛岡だったかどうかについては、誰にもわからないのですが……」
 草のにおいを含んだ風のなかで、牧野は夢中になって自らの仮説を語り続けた。
 私自身、冬の終わりにこの盛岡城址に上がり、空を見上げるのが好きだった。盛岡では早春、北東北で越冬した白鳥たちの群れが大編隊を組み、空を覆うようにして北の空へと飛び立っていく。その情景がまさに『銀河鉄道の夜』に登場する「赤帽の信号手」が渡り鳥たちに号令をかけて銀河を渡すシーンとそっくりなのだ。

「鳥が飛んで行くな」。ジョバンニが窓の外で云いました。(中略)と思ったらあの赤帽の信号手がまた青い旗をふってさけんでいたのです。
「いまこそわたれわたり鳥、いまこそわたれわたり鳥。」その声もはっきり聞えました。それといっしょにまた幾万という鳥の群がそらをまっすぐにかけたのです。
(『銀河鉄道の夜』第四次稿)


 盛岡城址の上に立ち、私と牧野は全身がオレンジ色に染まっていった。
「『夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市』ですね」
 戯れにそうつぶやく私の横で、牧野は澄んだ表情で空を見ていた。

♦引用文献
宮沢賢治『新編 銀河鉄道の夜』新潮文庫、一九八九年
石川啄木『一握の砂・悲しき玩具』新潮文庫、一九五二年
宮沢賢治『宮沢賢治全集3』ちくま文庫、一九八六年
宮沢賢治『ポラーノの広場』新潮文庫、一九九五年

三浦英之

みうら・ひでゆき●朝日新聞記者、ルポライター。1974年神奈川県生まれ。
『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で小学館ノンフィクション大賞、『帰れない村 福島県浪江町「DASH村」の10年』でLINEジャーナリズム賞、『太陽の子 日本がアフリカに置き去りにした秘密』で山本美香記念国際ジャーナリスト賞、新潮ドキュメント賞を受賞。最新刊は『日本で一番美しい県は岩手県である』。

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