[新連載]
①彼岸へ赴く母

妊娠に気づいた時、Aさんはひどく取り乱した。
それは彼女にとって、人生の終わりに等しいほどの絶望だった。相手となる男性が誰なのか、いっさい見当もつかなかったから。頼るべき両親や親戚もおらず、相談できる知人すらいなかったから。
勤め先の屋敷でも、ひたすら身重であることを隠しながら働き続けた。しかし臨月はどうしようもなく近づいてくる。追いつめられたAさんは、使用人の少女にだけ事実を打ち明けた。
「二人で誰もいない山奥へ行きましょう」
ついに産気づきそうになった夜、Aさんは少女とともに屋敷を抜け出した。
「どこか木の下にでも産んでしまうの。そのまま私は死ぬかもしれないけど、誰にも知られなければそれでいい」
闇に沈んだ京都の街を、人目を避けながら歩いていく。山があるほうを目指し、東へ東へと進んでいく。だが鴨川を越えたところで空の端が白みはじめてしまう。
どうしよう、どこへ向かえばいいのだろう。重い体をひきずりながら、二人は
木々の間を抜け、やがて崖に突き当たったところで思わぬものと出くわす。そこに、打ち捨てられた別荘のような廃屋がひっそりと佇んでいたのだ。
母屋から外に延びた板敷の、まだ朽ちずに残っている箇所へ座り込むと、Aさんは息を整えた。ここでお腹の子を出してしまおう。もし自分が生き延びたなら、そのまま捨てて帰ろう。そうすればまた、元の生活へ戻ることができる。
そこで建物の奥から物音が響いた。振り向けば、白髪交じりの老女が引き戸を開けている。とっさに身構えるAさんに、老女は優しく微笑んで。
「あら思いがけないお客さん、いったいどなたでしょう」
ずっとこらえていた涙が溢れた。事情を聞いた老女は、それならここを使いなさいと二人を屋内に招き入れた。
擦り切れた畳の上で、Aさんは男の子を産んだ。
「他に誰もいない田舎ですから、産後の物忌みなんて気にしないで。七日ほど休んでいきなさいな」
こちらの思惑も知らず、老女は弾んだ声で、少女に産湯を沸かすよう指示した。この場は調子を合わせておくべきだろう。湯浴みをさせた赤ん坊が傍らに寝かされると、Aさんはその小さな口へ胸を差し出し、母乳を与えた。
子を置き去りにするにも、まず産後の体力を回復させなくてはならない。Aさんは翌日もその次の日も、人里離れた山奥のボロ家に滞在した。赤ん坊と並んで昼寝をしていると、なんだかこの世界に自分たち二人しかいないような、そんな気分になったりもした。
と、人の気配を感じて薄目を
「ああ、おいしそう。たった一口」
全身が凍りついた。笑みをたたえる老女の顔が、とてつもなく怖ろしいものに見えた。
──鬼だ。
鬼が、私たちを食べようとしている。逃げなくてはならない。今すぐ、ここから、この子を連れて。
Aさんは老女が寝静まるのを待ち、赤ん坊を少女に背負わせると、三人でこっそりと家を出た。あとは必死に山を駆けおり、鴨川に辿り着いたところで人家に助けを求めた。
こうしてAさんたちは、勤め先の屋敷へと帰っていったのである。
その後、山奥の老女についても、あの廃屋のような家についても、噂ひとつ聞いていない。いったい自分たちはどこへ迷い込んだのか、今となっては不思議に思う。
赤ん坊は養ってくれる人を探し、そこへ貰われていった。おそらく無事に成長したのだろうが、Aさんと彼が再会することは二度となかった。
ずいぶん昔、そんな出来事があったのですよ……。
年を経て老いたAさんが、誰かに語った話なのだという。
なんだか奇妙な物語だ。
色々とひっかかるところが多いだろうが、まずお察しのとおり、これは現代人の実体験談ではない。『今昔物語集』巻27第15話「
『今昔物語集』は平安時代の仏教説話集。本当にあった(とされる)出来事を通して仏教を広めることが目的なので、この話も創作されたオリジナルストーリーとは考え難い。作者側はいちおう実話として捉えているはずだ。ただ正確に言えば、これは巷に実話として流れていた噂、今でいう都市伝説を取材したものだろう。
実話怪談と都市伝説は、微妙ながら決定的に異なる点がある。体験者が確実に存在しているか否かだ。たとえ同じ実話形式であっても(極論、話の内容が同一でも)、体験者の体験談を取材したものか、体験者が特定できない噂を取材したものかで、実話怪談/都市伝説とジャンルが分かれてしまう。つまり体験者の実在の保証こそが、実話怪談の要点なのだ。その観点から「産女」は都市伝説とするべきだろうが、今回は敢えて実話怪談として扱うことにする。
その前に、いったん当連載の説明をしておこう。私・吉田は人々から実話怪談を集めることを生業としている。そしてこの連載では今後、私が取材した「妊娠・出産・育児」にまつわる実話怪談を紹介していこうと考えている。市井の人々が実際に語った不思議な体験談を通じて、妊娠・出産・育児の際に現代人が感じる、しかし言語化されていないアレコレが透かし見えるのではないか。それは個人が無意識に抱えた恐怖や不安、願望や欲求だったりもするだろう。今の日本社会に通底する空気感、無言の圧力だったりもするだろう。
実話怪談で語られる不思議な体験とは、絶対に客観化できない、どこまでも個人的な一回性の体験である。これは妊娠・出産・育児の体験とも少し似ている。自らの身体、周囲との関係、そして新しい生命と向き合わざるをえない、各自にとって唯一無二の出来事だからだ。そうした体験と実話怪談とは、非常に相性が良さそうだ。
ではどうして連載初回に、実話怪談かどうかわからない話を、しかも千年近く前の古典籍の話を紹介したのか?
それは「産女」が、本連載のコンセプトを伝えるサンプルとして最適だったからだ。
主人公の「女(=Aさん)」は貴族に宮仕えする侍女なので、身分階層が極端に低いわけではない。だが当時、父母・親類縁者がいない独身女性は、孤立状態にある社会的弱者だった。その上で父親が定かではない子を妊娠するのだから、現代に置き換えても相当に深刻な状況である。
そんな中、女は命の危険を冒してでも、山中で人知れず出産しようと決意する。そのまま
また意外なことに、原文ではパートナー不明の妊娠にも、赤子を捨てる計画にも、非難めいた記述はいっさいない。仏教的教訓を説く説話集にもかかわらず、むしろ女の境遇に同情的で、人格としては「心
これは当時の社会が、今ほど「母性」を重視しなかったからだ。女性にはもともと母性が備わっているはずだが、近年それが欠落しつつあり、様々な問題が生じている……といった「母性神話」「母性崩壊神話」は、実はすこぶる近現代的な言説である。私は自著『現代怪談考』(晶文社)にて、そうした社会的背景と「子殺しの母」という恐怖イメージとの結びつきを指摘した。本連載は、ある意味でその続編とも言える。一九七〇年代の「水子供養」「コインロッカー・ベイビー」を経て「胎内記憶」とも連なる、母性神話と怪談との関係。それがどのように我々の実体験談に反映されていくかについては、連載が進むうち触れることとなるだろう。
「産女」において、この女は「子殺しの母」とは見られていない。社会の枠から放逐されて周縁へと流浪する、寄る辺ない妊婦として描かれている。父の知らぬ子を宿し、過酷な旅の果て、最底辺の環境で出産をなす姿は、どこか聖母マリアを連想してしまう。となれば赤子との逃亡シーンは、ヘロデ王の幼児虐殺から逃げていく幼な子イエス、マリア、ヨセフの聖家族を思わせるではないか。
いや私はなにも、このエピソードが新約聖書の影響を受けているのではと主張したいわけではない。大陸から伝わった景教(東方教会・ネストリウス派)が平安・鎌倉の仏教説話に幾ばくかの影響を及ぼしたとの説もあるらしいが、そうした論旨は脇に置いておこう。「産女」と聖家族の物語とを対比したのは、むしろ両者の相違点を浮かび上がらせたいからだ。
「産女」の逃避行に付き添うのは「
「産女」にて「子殺しの母」のイメージを担っているものがいるとすれば、この媼だろう。彼女は過去に子を産んでいたかもしれないし、ずっと独り身だったかもしれない。いずれにせよ当時の価値観では、子孫が連なる家から切り離され、社会と隔絶して過ごす老女は、正当な「母」になれなかった存在と見なされる。うっかりその棲み家を訪ねた旅人を、金品や生き胆を奪うため惨殺するのではないか。または老女のほうが山から里へ下りてきて、子をさらっていくのではないか。中世から近年まで、こうした女は
山姥・鬼婆に仮託されたのは逸脱した母、子を産むのではなく自らのうちに取り込む(喰らう)怖ろしい母、負の側面としての母である。少なくとも女はそのような恐怖を、媼に対して抱いた。「
しかし女の直感が妥当だったかどうかは疑問である。原文でも媼は「
いや、そうではない。私はむしろこうした飛躍に、妊娠・出産・育児の怪談ならではのリアリティを感じてしまう。九カ月以上も身体を共にし、出産という難局を乗り越えた後も、母親はしばらく赤子から目を離せない。我が子を庇護すべく、あらゆるリスクや予兆を敏感に捉えてしまう。程度の差こそあれ、多くの母親(妊娠出産以外では父親も)に共通する心情だろうし、少なくとも通常と異なる精神状態で過ごす期間ではあるはずだ。そんな時、人はどのようなことを不思議と感じ、怪異に遭遇したと捉えるのか。従来の実話怪談とはまた異なる体験談が集まるのではないか。本連載の企画は、そのような意図から出発している。
女が急に媼を鬼と怖れるのは、怪談としても違和感がある。しかしだからこそ、分娩直後の感情の奔流がここに描かれていると言えよう。無理筋に見える恐怖は、すなわち出産を経た女の急激な心情変化を示しているのだ。
嬰児を遺棄するはずだった女は、危機に直面した際、子を連れて逃げることを選択した。これはなかなか感動的な展開だ。ただし、この期に及んでも赤子を背負う役目は女童に任せているし、帰還後すぐにその子を養子に出してしまう。「母性」について過度な期待を寄せていない、抑制のきいた決着である。現代人からすればずいぶんドライに感じられるが、これが当時のリアリティだったのだろう。
さらに末尾にて、この話全体が女が年老いてのちに語ったものだと提示される。実話形式である以上、体験者/語り手が誰であるかの伝達経路を示すのはほぼ必須の情報だ(この点は実話怪談も共通する)。ただそれだけでなく、産女だった若い女が、あの媼と同じ老女となっている状況が面白い。原文の記述からして、女はずっと自らの体験を隠していたが、年老いてようやくこれを人に語ったようだ。媼と同年代に置かれた時、過去の体験を自らの解釈で組み立てなおすことができた。「産む性」としての苦難と、それにまつわる怪異を、一連の物語として語ることができたのだ。
実話怪談において、体験者がリアルタイムでその体験を語る状況はほぼありえない。必ず体験当時から間を置いた、当時とはまた異なる立場で、その時の体験を語りなおすこととなる。実話怪談では体験自体よりも、その人が自らの過去の体験をいかに「語りなおす」のかが重要なのだ。不思議・怪異という絶対に客観化できない、他人がその体験自体を観測できない事象は、語りの中にしか存在しないのだから。
そろそろ私が「産女行南山科値鬼逃語」という物語を初回に選んだ理由がわかってもらえたかと思う。まず単純に、実話怪談というジャンルに馴染みのない読者にとっての「怪談」への導線として適している。それだけでなく、妊娠・出産・育児にまつわる怪談としての様々な面をカバーしているので、この主題にどのようなモチーフが内包されているかを俯瞰できる。また千年前と今との相違点・共通点を窺うことで、現代の妊娠・出産・育児の輪郭がより見えやすくなる。
次回から紹介していく実際の実話怪談では、さすがにこれほどオールマイティな話は出てこないだろう。自分の身体に命が宿ること、出産という危機、他者になっていく子ども……各場面において人々が不可思議と捉えた体験談を、テーマ別に考えていくこととなるはずだ。
怪談とは、こちら側の世界にあちら側の世界が浸食してくる物語だ。そして子どもはあちら側(彼岸)からこちら側(此岸)へとやってくる。人間の営みにおいて最も「生」と密着する妊娠・出産・育児は、「死」というあちら側の世界に最接近する体験でもあるのだと、私は思っている。
イラストレーション●市川友章
【参考文献】
『今昔物語集 第5(本朝篇 第5)』丸山二郎校訂 岩波文庫
『今昔物語集 本朝部 下』池上洵一編 岩波文庫
吉田悠軌
よしだ・ゆうき●1980年東京都出身。怪談、オカルト研究家。
怪談サークル「とうもろこしの会」会長。オカルトスポット探訪マガジン『怪処』編集長。実話怪談の取材および収集調査をライフワークとし、執筆活動やメディア出演を行う。著書に『日めくり怪談』『現代怪談考』『ジャパン・ホラーの現在地』(編著)『教養としての名作怪談 日本書紀から小泉八雲まで』『よみがえる「学校の怪談」』(編著)『裏山の怪談』等多数。





