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石山蓮華「ショッピングモールの女」
[第3回] レイクタウンとアイム ヒア(前編)

[連載]

[第3回] レイクタウンとアイム ヒア(前編)

 大相模おおさがみ調節池ちょうせつちという人造の湖をシンボルとした巨大なショッピングモール「イオンレイクタウン」が完成したのは2008年、私が高校一年生の頃だった。
 レイクタウンは、国道4号バイパス東埼玉道路を境に、西側にある専門店中心のkaze棟と、東側のイオンをキーテナントとするmori棟という二つの建物、さらに約2年半後にオープンしたアウトレットモールからなる国内最大級のショッピングモールだ。人工湖は敷地の北西側、JR武蔵野線の越谷レイクタウン駅は南西側にある。
 完成当初はレイクタウンの周りにあまり建物はなく、開けた印象だったが、現在はレイクタウンをぐるりと囲むように大きなマンションが何棟も建ち、街として成長しているのがわかる。
 レイクタウンの近くに、高校時代からの友人Mが住んでいる。彼女と初めて出かけたのはレイクタウンができる少し前で、私たちはJRと東武線の2路線が使える南越谷でとんかつを食べた。味がどうだったかとか、なぜとんかつ屋に行ったのかなどは覚えていないけれど、二人でとんかつ定食を食べ、プリクラを撮り「友達になってくれますか?」とおそるおそる聞き、言質を取った上で、晴れて友達になったのは覚えている。今思えばある程度の関係がそこにあったから遊びに行ったのだろうけれど、中学での人間関係に大きくつまずいてから間もない頃だったので「うちらは友達、ヨシ!」と指差し確認をしないと、誰が友達で誰がそうでないか、私は誰と口を利いてもらえるのか確信が持てなかったのだ。
 学校での人間関係は、日々、煙を手で摑むような感覚だった。腕を伸ばした時点では指先に触れるところにあったものが、自分が動いたことで空気が流れて、手のひらを差し出したときにはそこにもうなにもない。焦って素早く動いてみたり、そっと手をお椀の形にしてみたりしても、自分にはルールが見えていないようで、後に残るのは煙のにおいと徒労感だった。
 同じ中学出身の人がいなそうな学校へ行こうと思って選んだ高校は、辺りに畑や雑木林などがあり、のんびりとした空気が流れていた。そんなところにも当たり前にスクールカーストはあり、トップに君臨するのは強豪のサッカー部やチア部など、花形の運動部に所属する生徒たちだった。クラスの女子は自然といくつかのグループに分かれて行動していた。私は入学当初、クラスで一番声が大きく、元気なグループに招かれいそいそと参入したが、ある日を境に無視されるようになり、さっそく浮いた。これみよがしな悪意を差し向けてくる彼女たちに、なんでもいいから最悪なことが起こるよう念じるのが習慣になった。しかし面と向かって言い返せるほどの強さはなかった。

 先日、Mと二人でレイクタウンへ行った。
 モールという巨大な市場では、お金と品物を引き換えるという資本主義の基本的なルールに則っていれば、客であるところの私が周囲から浮いていようが、ダサかろうが性格が悪かろうが一旦は関係なく、スムーズでポジティブなコミュニケーションが成立する。
 モールには色々な人がいて、あらゆるテナントが並んでいる。Mは新しいテナントができると散歩がてら様子を見に行くのだという。ある日、金のチェーンネックレスが太さ違いでずらりと並ぶ店を見て、彼女は「誰が買うんだろう」と思ったらしい。また別の日にその店が、厚手の真っ白なパーカーにピタピタのスキニーパンツとカラフルなスニーカーをはき、高い位置で刈り上げたツーブロックの髪型をした、いわゆるやりらふぃーファッションの若者で賑わっているのを見て「この人たちのための店なのか」と合点がいったそうだ。
 イオンレイクタウンには700を超える店舗があり、私が一生入らないだろう店というのもここには必ずあると思える。モールは大きな通りでありながら、建物そのものが大きな棚のようでもある。自分の趣味に合うものもそうでないものも、選択肢の中に揃っているというのがいい。誰と来ても必ず一つは一緒に行けるテナントがあり、友人と来ても親と来ても、どこかしら見るべきものや連れ立って行ける場所がある。誰も取りこぼさない選択肢というのは、もしかしたらレイクタウンという埼玉のユートピアでなら見つかるのではないか。欲しいものだけを見るならネットショッピングは便利だし、合理的でとても好きだが、自分にとって用のないものが物理的に存在し、それぞれの個人がその趣味や必要性によってまったく別のルートを歩いているのを実体として感じられるところも、社会と地続きという感じがして好きである。

 広いモールを歩きながら、無印良品で敏感肌用の汗拭きシートを買ったり、ワークマン女子でUVカットパーカーの最後の一着を買ったりしていると、ああ、私は今すっかりこの世界に馴染みきっていると、ここでしか得られない自信がみなぎってくる。
 働いて得たお金を手に、あらゆるテナントから自分の生活を豊かにするものを選び取り、客と店員として「お支払いは」「クレジットでお願いします」「暗証番号をどうぞ」「ありがとうございます」「ありがとうございました。またお越しくださいませ」という決まりきったやり取りをにこやかにできていると、私って本当にちゃんと生きられているじゃないかと、内臓のひだがめくれるような、ふつふつとした嬉しさと驚きがわき起こる。あくまでも資本主義の枠の中で、消費者や労働者といった役割に沿って、あくせく働いて物を買って税金を取られてという渦の中を一生かけてぐるぐるしているだけなんだけれど、そのぐるぐるの中で店員さんに向かって「ありがとうございます」と笑顔で言えること、働いたお金で物を買えることが心底嬉しい。30代半ばのいい大人がこんなことを言っているのはどこか稚拙なのかもしれないが、モールにいるときは、この人生で珍しく、完全にちゃんとした大人でいられていること、自分が真人間になれている手ごたえが実感できて嬉しいのだ。

 高校生の頃、周囲は季節ごとに誰かを無視したり、無視されたりを波のように繰り返していた。その中で、私は友達を作ったり、喧嘩けんかしたり、呪ったりしながら、周りと自分はやっぱりどこか違っているようだとわかってきた。それは並外れてユーモアがあって面白いとか、見目が美しい、演技が上手いなど、特筆すべき才能という方向での違いではなく、なんかちょっとずれているくらいのものだったので、仕事のオーディションでは落ちてばかりいた。仕事も人間関係もパッとしないのなら、成績の良さや生活態度によって、学業で優等生になり、パッとしたかった。しかし、欠席と忘れ物が多く、国語以外の科目は冴えない成績の(数学は赤点)私にはどだい叶わず八方塞がりに思えた。
 朝、学校に行ってきますと乗った武蔵野線の車内で「今日は学校休もう」と思った日には、途中で京浜東北線に乗り換え、浦和駅前にあるPARCO8階の図書館で自習し、カラオケのフリータイムが始まる午後を待って受付し、フリータイムが終わるまで一人で歌い続けた。あるとき、美術予備校に通う友人から「持ち込みOKのカラオケ屋に食パン一斤を持ちこむと、ドリンクバーのソフトクリームとパンでハニートーストのようなものを作って食べられる」と聞き、パンにソフトクリームをのせて食べたことがある。美術予備校に通う高校生たちは、いつも画材として食パンを持ち歩いていた。一口目はたしかに感動的だったが、甘くて冷たくて、スーパーで一番安い食パンはちょっとぼそぼそしていて、一人で丸々一斤食べられるほどには美味しくなかった。でも、高校生だったので食べ切った。そうやってサボった分の授業はできるだけ自習でなんとか帳尻を合わせ、どうにかこうにか、ぬるくやっていた。
 先述の友人のMは優等生だった。毎日ちゃんと学校へ通い、アルバイトもちゃんとやって、嵐の誰かやAKB48の誰かを応援しており、流行はやりに敏感で、笑顔を絶やさず、クラスの中にも外にも友達がいた。
 深夜に及ぶテスト勉強では、真冬に窓を開け、部屋に雪が吹きこんでくるのも気に留めず、極寒の中で正座し、寝ないように勉強していたという努力の女である。その並々ならぬ努力については、大人になってから「実はあのときね」と笑い話として聞いたのだった。教室のなかで真人間として過ごしている人には、私が真面目に取り組めなかった勉強や人付き合いや趣味などに、きちんと集中して向き合っている時間があるのだった。

 夏休みや春休みなど、長期休みの前に生徒たちが体育館に集められ、床に座り、大きなスクリーンで映像を見るという催しがあった。交通安全や違法薬物への啓発を促す作品が多く、生徒たちは見るともなしに見るのだが、途中でかならず衝撃的な展開が入り、つい見入ってしまう。
 ある年の作品は大阪府教育委員会が企画・製作し(製作協力/㈶大阪府人権協会)、杉浦太陽すぎうらたいようが主演した『アイム ヒア 僕はここにいる』だった。忘れっぽく、慌てん坊な主人公の青年・竹内優希たけうちゆうきが、会社に入るもミスを連発し「役立たず」と解雇される。優希は子どもの頃から注意散漫で感情の起伏も激しく、周囲と馴染めずいじめに遭い、学校嫌いになっていた。医療機関を受診した結果、彼は発達障害であると診断される。それを職場に言えないまま、事態はより悪くなってゆき、退職する。一時はどん底まで落ちる優希が、周囲の手助けにより自分自身の特性について理解し、環境を変え、自分らしく明るい人生を歩んでいくというヒューマンドラマだった。
 ドラマの中の主人公は、よく物を忘れたりなくしたりする。そして感情の起伏が激しく、落ち込むときはどん底まで落ちる。さらにバイクが大好きで、話し始めると止まらない。私も電線やエヴァンゲリオンが好きで、好きなものについては話したいことがいくらでも出てきた。忘れ物をしない日はなく、風が吹いても悲しい日がよくあった。自転車を漕ぎながら「どうして私はこんなになにもないんだろう」「将来が見えない」と農道の真ん中で泣き出し、友人を困らせ、あげくケーキ屋で大きなシュークリームを買ってもらってなぐさめられたりしていた。なんて優しいんだろうと嬉し涙を流しながらシュークリームを食べ「食べながら泣くんかい」と突っ込まれたり(私の周りの埼玉県民は、ツッコミのときになぜか、エセ関西弁を使うことがある)、公民のテスト中、早めに解答が終わったときも、なにかしら悲しくなり、一番前の席で音も立てずに爆泣きしたりしていた。
 友人との終わらないおしゃべりとか、初めての彼氏とか、一人カラオケとか読書とか、腹の底から笑いが込み上げるほどに楽しいことも沢山あったのに、いつも頭の中には自己否定専門の合唱隊がおり、時と場所を選ばずに耳元で「お前は駄目だ」とあらゆる歌を全力で歌ってくる。10代の気力体力、集中力、時間、持てるリソースの全てをかけて思い詰め、元気いっぱいに暗いことを考え、なかば自家中毒になっていた。
『アイム ヒア』の主人公はかなり私っぽいが、薬で治るとかの話ではないらしい。どうにもならないままでも、楽しく生きていけるのならばいいのだけれど、まあ私はここまでではない。社会に馴染めない人は大変だなと、自分との間に線を引こうとしたが、背中に冷や汗が垂れてくるような居心地の悪さがあった。
 上映が終わり、生徒たちが三々五々に教室へ向かうとき、同じクラスの女子たちに「ねえ、あれ絶対蓮華だよね」「見ながら、うわ、蓮華だって思ったよ」と口々に言われた。人から見てもそうなんだと驚くと同時に、私って別にそこまで変な人間ではなくないですか、マイペースではあるかもしれないけれど普通の範疇にはいませんかと、あくまでも普通サイドから対応しようとした。優等生になりたくとも上手くできないのは実感していたので、私はそれならせめて、いい意味で個性的な人間になりたかった。しかし、その個性や趣味や振る舞いといった人との差異は、あくまで自分の意思によって選び取れる、コントロールできるものであってほしかった。
 体育館履きが入った巾着を手にぶらぶらさせながら、彼女たちは確信を持って「蓮華ってKYだよね」「まじ空気読めないよね」と笑った。私たちは渡り廊下を進み、階段を降り、教室に入った頃にはもう違う話をしていた。KYではないと反論しようにも、私のリアクションや言葉はどこかずれていて、まったく思わぬところで笑いが起きたり、火種を蒔いたりするのだった。

イラストレーション●近藤聡乃

石山蓮華

いしやま・れんげ●電線愛好家、文筆家、俳優。
TBS ラジオ「こねくと」でメインパーソナリティを務める。電線愛好家として「タモリ倶楽部」などのメディアに出演するほか、日本電線工業会公認「電線アンバサダー」としても活動。著書に『犬もどき読書日記』(晶文社)、『電線の恋人』(平凡社)がある。過去の出演作は映画『思い出のマーニー』(スタジオジブリ)、ドラマ『日常の絶景』(テレビ東京)など。

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