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窪田新之助「みちのく限界病棟」
③殺人を招いた身体拘束

[連載]

③殺人を招いた身体拘束

 みちのく記念病院(青森県八戸はちのへ市)の患者間で起きた殺人事件は、偶然では説明できない構造のなかで生じていた。
 終わりのない身体拘束が、一方では加害者を追い詰め、他方では被害者を逃げられない状態に置いていた。その二つが同じ病室で重なったとき、命が奪われた。
 なぜ、人を縛る状態は続いていたのか。

職員の告発

〈「モグリ」による違法な身体拘束が常態化していた〉
 この告発論文が掲載されたのは、二〇二六年三月から書店に並び始めた雑誌『身体拘束と人権』(一般社団法人日本身体拘束研究所)の2025通巻3号である。
 寄稿したのは、「みちのく記念病院」の匿名の職員。
 同院では二〇二三年三月一二日の深夜、精神科の入院患者が、ベッドに身体を縛られていた同室の患者を殺害する事件が発生した。院長だった石山たかし(六二)が「病院を守るため」として、事件の隠蔽に動いた。その罪で二〇二五年に懲役一年六カ月、執行猶予三年が言い渡された。
 職員は院内での観察に加え、カルテ、看護記録、裁判記録などをもとに、殺人の着想から犯行に至るまでの経過に、違法性が疑われる身体拘束が関わっていたと結論づけている。
 精神保健福祉法及び厚生労働省告示によると拘束は本来、ごく例外的にしか認められない。開始と解除の経緯は記録され、医師が継続して必要性を判断することが前提とされている。
 ところがみちのく記念病院では、一連の手続きを経ない身体拘束が常態化していた。対象は精神病床にとどまらず、一般病床の療養病床にも及んでいたという。
 職員は、事件前の約二年半分のカルテを調べ、次の三点を確かめた。

①拘束の開始時に、その必要性を判断する責任を持つ精神保健指定医が患者を診察していたか
②患者に身体拘束の必要性を書面で告げていたか
③拘束中に医師が継続して患者を診察していたか

 いずれについても、カルテに記録は残っていなかった。
 さらに職員は三年間、毎週特定の曜日に精神科病床七〇床を対象に、拘束されていた患者数を記録していた。最も少ない日で一〇人、多い日には二〇人にのぼった。
 しかもすべての場合で、精神保健指定医の診察はなかった。看護師が独自の判断で拘束していた。
 これでは、個々の身体拘束が本当に必要だったのか、適正になされていたのかを、あとから検証することすらできない。
 なかには、ひもで指二本をベッドに結び付ける拘束もあった。職員はこれを四度目撃している。いずれも別の患者に対してだった。
 専用の拘束具ではなく、ひもで身体の一部を縛る方法は、医療の手順として想定されていない。さらに、指だけを縛るこの拘束は、締め付けが強すぎると、末梢循環不全などの合併症を引き起こしかねないため危険だという。論文はこう糾弾している。
〈『人の尊厳』を踏みつける、異常きわまりない方法で身体拘束が行われていたと言わざるを得ない〉
 こうしたずさんな体制のなかで、身体拘束は例外ではなくなっていた。患者の安全より、管理のしやすさばかりが優先される。ベッドに縛られたまま、誰も来ない時間が続く。そうした状態が、病棟のなかで続いていたのだ。


みちのく記念病院の職員の告発論文が載った『身体拘束と人権』の2025通巻3号

患者の安全より病棟の運営

 身体拘束の運用がゆがむのは、みちのく記念病院に限った話ではない。
『身体拘束と人権』の編集委員長で、杏林大学教授の長谷川利夫(精神医療)は私の取材に、「日本は身体拘束を前提に医療が組み立てられている感がある」と語った。
 ベッドに取り付けた帯で胴体や手首、足首を縛る。両手両足と腹部を留める「五点拘束」が一般的で、患者は四肢を開いた姿勢のまま仰向けにベッドに縛り付けられる。
 長谷川は取材に対し、拘束具があらかじめベッド脇に装着され、患者が横になると同時にベッドに縛る運用が存在すると説明した。必要性の判断の前に拘束の段取りができている、というのである。
 本来、身体拘束は手厚い観察を必要とする状態だが、現場では逆に、拘束された患者ほど放置されやすい。
 職員は拘束した患者のもとを離れ、長時間そのまま放置する。人手が限られるなかで、動きを止められた患者は、見守りの対象から外れていく。
 拘束は保護の手段ではなく、病棟を運営する前提へと変わってしまう。その時点で、一時的な処置ではない。
 みちのく記念病院で起きていたのも、まさにこうした目的をはき違えた運用だった。

拘束が動機をつくった

 みちのく記念病院では、身体拘束のゆがんだ運用が、患者を追い詰めた。
 青森地方裁判所の判決文と公判の傍聴記録によると、殺人犯となった佐々木人志(当時五七)は入院中、院内で問題行動を繰り返していた。
 病院関係者によると、問題行動とはほかの患者の金品を盗むことである。そのたびに、看護師から両手をベッドの左右の柵に縛り付けられていた。
 ただ論文によると、盗むことは拘束から逃げ出す手段でもあった。警察に通報されれば、病院を追い出されるからである。だが、通報されなかった。
 判決では、拘束の強化が犯行の引き金になったと認定された。
 実際、裁判記録などによれば、拘束は一時的な措置にとどまらず、断続的に繰り返されていたという。さらに事件前日には、「次に盗めば両手を上げて拘束する」と看護師から告げられていたという。
 こうした経緯からみれば、同病院での拘束は患者の状態に応じた処置というよりも、行動に応じて強められていく懲罰に近かった。

 事件当時の様子について確かめるため、私はみちのく記念病院の看護師の自宅を直撃した。突然の訪問にもかかわらず、玄関先のインターホン越しで応対してくれた。応答は短く、ためらいがちだったが、口をついて出た言葉は率直だった。
「そもそも縛っちゃいけないんです。T(佐々木を担当していた看護師の名前)はそれをやり続け、佐々木にストレスをかけることになっていった。それで、あんな事件になってしまったんです」
「だから事件後、Tはみんなに責められて。あなたのせいで、大変なことになったんだよって。それでTは精神を病んで出勤できなくなり、辞めていきました」

 ただし、懲罰的な身体拘束が院内で広く行われていたかどうかは、裁判では確認されていない。
 佐々木は、その扱いを強く嫌がっていた。裁判では「拘束が嫌で、殺人をすれば病院を出られると考えた」と述べている。
 異様な供述である。だが、この言葉を単なる飛躍として退けてしまえば、事件の構造は見えなくなる。
 この供述は、身体拘束のあり方そのものを問い返している。
 身体の自由を奪う以上、医師は患者の状態の変化を見極め、解除の可否を絶えず検討し続けなければならない。
「身体拘束は一番濃密なケアを必要とする状態のはずです。しかし現場では、それが置き去りにされることが少なくありません」
 長谷川はそう語る。その指摘は、精神病棟に勤めた自身の経験と継続的な調査に裏打ちされている。

 みちのく記念病院で行われていたのは、まさに医師の継続的な観察や解除の判断から切り離された拘束だった。
 論文によれば、拘束はナースステーションから見通せず、監視カメラも設置されていない病室で行われることが多く、拘束中も看護師による観察は二、三時間に一度にとどまる場合が頻繁にあった。
 こうした運用のなかで、拘束は保護の手段ではなく、患者から行動の自由と外に出る選択肢を奪う経験として刻み込まれていく。
 出口の見えない状態のなかで、「殺人をすればここから出られる」という発想が佐々木に生まれた。
 判決によれば、巡回の看護師が病室を離れた間に犯行がなされており、その間、看護の目は及んでいなかった。加害者側では動機が高まり、被害者側では抵抗する力が奪われていた。
 そのなかで佐々木は、隣のベッドにいて身体が不自由そうな高橋生悦せいえつ(当時七三)を、抵抗しにくい相手として選んだとされる。
 結果、高橋は歯ブラシで左まぶたを何度も突き刺され、命を落とした。
 自宅を直撃したみちのく記念病院の看護師は、こう語っていた。
「被害者を縛って、加害者を縛らなかった。それが一番の原因じゃないかと、みんな言っていました」
 もちろん、問題は単純に誰を縛るかということではない。拘束が本来の目的から逸脱し、管理の手段ばかりに使われているところにあった。
 職員は論文で、被害者の置かれた状況についてこう記している。
〈両手を身体拘束されていたため、逃げることも抵抗することもできなかった。ナースコールを操作して助けを呼ぶこともできずに歯ブラシで殺されてしまった〉
 そのうえで、こんな問いかけで結んでいる。
〈「身体拘束しないため看護師は何をすればよいか」について、看護師自身に考えてもらいたい〉
 あわせて、身体拘束の適切な運用を確保するため、ナースステーションから見通せる観察室、または監視カメラを備えた病床に限定する法制度の改正を提案している。

隠蔽の背後にあった運用

 事件のあと、病院は死因を肺炎とし、看護記録を書き換え、警察への通報もしなかった。病院関係者はその理由をこう推察する。
「病院が隠そうとしたのは、殺人事件だけでなく、違法性が疑われる身体拘束が横行しているという不都合な事実であったはずです」
 ひもで縛る。動けなくする。記録を残さない─。
 論文が〈『モグリ』による違法な身体拘束が常態化していた〉と主張するところである。
 ただしみちのく記念病院の職員のすべてが無自覚に、そうした運用を続けていたわけではない。ある看護師は取材に対し、「ダメなことだと分かっていても、上の指示に従って動くしかなかった」と打ち明けた。
 背景には、院長だった石山隆による職員へのパワハラがあったという。
「『アホ、死ね、バカ』とか『辞めろ、すぐ辞めろ』とか、そういう言葉を平気で言うんです。とにかくネチネチと追い込んでくる。力で職員をねじ伏せてくるので、みんな怖くて逆らえないんです」
 法的な要件や医療的な必要性を欠いた拘束が、現場では繰り返されていた。それは単なるずさんさによるものではなく、逆らえば排除されるという空気のなかで、職員が自らの職業倫理に基づく判断力を失っていった結果でもあった。患者は次第に管理の対象へと置き換えられ、そのなかで佐々木も追い詰められていった。

逃げ続けた果てに

 ところで佐々木とは、どのような人物なのか。
 病院内では孤立した存在として見られていた。盗みを繰り返し、周囲から警戒されていた。事件関係者は、その暮らしぶりをこう見ていた。
「ずっとボロアパートに一人で住んでいて、身寄りはないようでした。ろくに仕事もしたことがないんじゃないですか」
 ただ、その経歴をたどると、別の側面もみえてくる。
 裁判資料や事件関係者の証言などによると、佐々木は一九六五年、青森県八戸市の西に隣接する五戸町ごのへまちに生まれた。幼いころ、父の飲酒癖が原因で両親は離婚し、父に引き取られた。しかし父から暴力を受け、六歳のときに八戸へ逃げ出している。のちに児童相談所に保護され、児童養護施設で暮らした。
 中学卒業後に就職したが長続きしなかった。二〇代前半で結婚し、二人の子どもをもうけたものの、やがて離婚している。一九九二年には車上荒らしで服役し、二〇〇九年には窃盗で再び服役した。出所後は更生保護施設に入り、その後は生活保護を受給していた。
 行き場を失うたびに、別の場所に身を置く。

 二〇二一年九月、栄養状態の悪化により八戸市立市民病院に入院した。このときは意識が混乱し、場所や時間の認識も曖昧な状態にあったとされる。長年の飲酒の影響で脳の働きが低下し、手足の神経にも障害が出ていた。足は自由に動かせず、やがて寝たきりとなり、みちのく記念病院に入院した。
 二〇二二年一月にはリハビリのため、みちのく記念病院の運営母体である「杏林会きょうりんかい」が岩手県花巻市で経営していた「イーハトーブ病院」に転院した。同年七月には足のこわばりがやや和らぎ、車椅子で移動できるまでに回復している。
 イーハトーブは、岩手県出身の宮沢賢治の造語で「理想郷」を意味する。だが佐々木にとって、それは行き場を失い流れ着いた一時的な滞在先に過ぎなかった。
 いったんは身体機能の回復もみえた。だが、その先に待ち受けていたのは、社会生活への復帰ではなく、再びみちのく記念病院に入院することだった。
 そこで待っていたのが、身体拘束だった。
 しかも病院関係者によると、みちのく記念病院では一時的な外出も原則として認められていなかった。
「少なくとも二〇年前から外診が原則禁止され、歯科受診すら『ご法度』とされていました」
 外診は、他の医療機関の受診を指す。みちのく記念病院では、退院も外出もできないまま、懲罰性が疑われる身体拘束が繰り返された。
「懲罰的な身体拘束が、日常的に終わりの見えない形で繰り返される状況は、無期懲役よりも重いと感じても不思議ではない」
 長谷川はそう指摘する。
 ここで問うべきなのは、それが刑罰と比べて重いかどうかではない。人間性を失わせるような閉ざされた病棟で、繰り返される拘束が人の心をどうむしばんでいくかということである。
 その果てに、凄惨な事件は起きた。

表紙写真●筆者提供

窪田新之助

くぼた・しんのすけ●ノンフィクション作家。
2004年JAグループの日本農業新聞に入社。国内外で農政や農業生産の現場を取材し、2012年よりフリーに。著書に『データ農業が日本を救う』『農協の闇』、共著に『誰が農業を殺すのか』『人口減少時代の農業と食』など。『対馬の海に沈む』で第22回開高健ノンフィクション賞を受賞した。

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