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石山蓮華「ショッピングモールの女」
[第1回] モールと涙

[新連載]

[第1回] モールと涙

 ショッピングモールは人生の交差点だ。モールという全天候型の大通りでは、隣り合った人のことをなにも知らないまま、特に話すこともないまま、同じ空間を共有し、いつもなんとなく明るい雰囲気が作られている。いつ行っても目抜き通りらしい最新の空気と、商店街のような日常の空気が同時にある。
 電線、ショッピングモール、世の中にあるものはなんでも、自分自身を映す鏡になり得る。電線愛好家として、なぜ電線を好きなのか、私にとっての電線の魅力とはなんなのかというテーマで数年前に本を書いた。「電線が好き」と言うとたいてい「なぜ?」と問われる。趣味について「好きだから好き」以上の理由はなくともいいのだけれど、せっかくなので、人に説明できるくらいには整理したかった。なにかへの感想は、感想を書いた、あるいは話したその人そのものを映し出す鏡でもある。
 ある程度の時間をかけて書いてみて、好きなものを通して見える自分自身であれば、それが不格好であっても受け入れられるのを知った。自分のみっともなさは書く前と書いた後で同じでも、電線にフォーカスを当てることで、自分の背中も電線のある景色を作る要素のひとつとして溶け込んでしまえる。自分をまっすぐ好きになれなくとも、電線鑑賞の副産物としての自分であれば、うーん、まあいいかと思える。もしも、この不器用でみっともない自分でなければ電線の良さに気づけなかったとしたら、こうあることもいいのかもしれない。端的に言えば「好きなものを好きな自分が好き」だ。こう宣言すると、自分を愛するために、あるいは他者から愛される自分を装うために、好きなもの(私の場合は電線)を道具として利用しているようにも思える。
 ただ「好きなものを好きな自分が好き」というゴールが同じであったとしても、出発点が電線(好きなもの)であれば、ゴールへ辿たどり着くまでの道の歩き方も変わるはずだ。
 電線に限らず、本でも演劇でも、その作品のどこが面白いのか、どこに驚くか、恐ろしいと思うか、そうした感想と語り手のパーソナリティは切り離せない。たんに楽しい、あるいは悲しいと感じたことの理由や、それをきっかけに思い出した昔のことなどを並べていると、目を逸らしたかった自分とばったり出くわすこともある。

 さて、この連載でテーマにするのは、ショッピングモールだ。私はモールが好きである。電線と同じくらい好きかどうかはわからないが、モールを思うとワクワクする。百貨店には行きたいときとそうでないときがあっても、モールになら、いつでも行きたい。私が小学二年の頃から住んでいた埼玉には、日本一広いショッピングモールのイオンレイクタウンがあり、これができる前からある北戸田のイオンモール(その前はジャスコだった)は今でも心の拠り所だ。
 休日、たくさんの人でごった返すモールをほっつき歩いて、なんでこんなに人が多いのだと心の中で毒づく。そのときに、なぜ自分も同じ場所にいるのに、他人とは違うと思えてしまうんだろうと疑問が浮かんでも、ウォーターサーバーの販売員をやんわり避けるときにはもう忘れている。色とりどりのパッケージが並び、広告の音や人の声があり、次々に気が逸れる。注意散漫であることと、好奇心旺盛な消費者でいることはシームレスであり、自分は元から注意散漫なのではなく、ここにいるからぼんやりしているのだという気さえしてくる。いつになく自分が社会に溶け込めているようで嬉しくなる。
 ラジオの生放送が終わった後、無目的に近所の小さなモールに寄り道する。カルディコーヒーファームで、紙コップに入った甘いコーヒーをもらい、所狭しとパッケージが並んだ小道を慎重に歩く。陳列の過密さだけでいえば、ドン・キホーテとカルディコーヒーファームは仲間だ。丁寧なドンキ、それはカルディ。欲しいものがなくとも、貼るカイロとか、紙パックに入ったオレンジジュースとか、一回分のシャンプー・コンディショナーセットのパウチとか、そういったあると嬉しいものを買い、リュックに入れて帰る。小さな買い物と引き換えに、日々の失敗や後悔、疲労などを棚に置いてくる。買い物を目的にしてモールへ行くこともあるが、私はモールという空間に身をひたすことそのものも好きだ。
 二十代の頃にテレビレポーターとして、芸能人やスポーツ選手などではない「街の人」にインタビューをするため、お台場の大きなショッピングモール、ダイバーシティ東京 プラザへ足を運ぶことがあった。
 朝の情報番組が届ける多様な街の声には実は偏りがある。歳をとりすぎても、若すぎてもいない、お金がものすごくありそうでも、なさそうでもない、洗剤のCMで見たようないい感じの家族連れが元気よく答えてくれる「普通の人のコメント」がVTRにおける現実の奥行きを作ってくれる。
 ディレクターが書いた台本通りの見知らぬ「家族連れ」に会いたいと思って、待ち合わせの約束もなくモールへ飛び出していく。で、実際にちゃんと、テレビで見たことのあるような、近所にきっといそうなファミリーと出会える。レポーターを辞めたときには、もうあんなふうに沢山の人と話すことは二度とないだろうと思っていたのに、今はラジオの仕事で毎日初対面の人と会って話している。ミュージシャンや俳優やアイドルといった芸能人としての肩書を持つ人たちだ。でも、その人たちだって、ショッピングモールにいたら「街の人」だ。
 私はこの連載で、ショッピングモールを鏡にしながら自分の話とショッピングモールの話、すなわち自分自身を商品として切り売りしたり、消費者としてものを買ったり、あるいは生活することについて考えたい。
 ショッピングモールはあらゆる素材、質感の集合体でできている。乾麺のパッケージのツルツル、無印良品の棚の木肌、化学繊維で編まれたカーディガンのふわふわ、韓国メーカーのリップグロスのテカテカ、ペットショップのショーケースに閉じ込められた仔犬の濡れた鼻。モールは人の気を引くためのものでできている。建物自体のでこぼこしたペンキの質感や、屋内と屋外で床の材質が違うことなど、そういったものの一つひとつを目で触った気分になるのが楽しい。自分の心と、ただの目玉である自分とを分けていると、どこかほっと落ち着く。
 子どもの頃、洗面台の大きな鏡の前に座り、手のひらで片目を覆って、それを外して、瞳孔が大きくなったり縮んだりするのを見るのが好きだった。泣いているときは瞳のどこから涙が湧き出てくるのか、白目の血管がどう血走っていくのかを見るのも面白かった。嬉しいことや悲しいことがあったとき、それが大きくとも小さくとも、感情を直視できないことがある。そういうときに、ものの表面をじっと観察していると落ち着く。自分が目玉だけになったかのように、視力と私を切り分ける。
 こと人間関係においては、明文化されないコミュニケーションのルール、ときどきに変化する正解と不正解など「普通」にやっていくための網目がきめ細かに存在している。その網目こそ、人と関わり合うことの面白みを作るのだろうと思う一方、「普通」になじむのに失敗して、自分が人間である現実から逃れられたらいいのにと思うことも度々ある。
 いつだったのだろう。親に怒られて泣きながら、鏡で自分を観察していた。なぜ𠮟られたのか、親の言葉を借りながら向き合い、その理由に納得したとしても、感情の波は収まらない。今、鏡の前にいる子が私という人間であり、それがどんな状態になっているのかをよく見る。そうすると、泣いている自分と、それを眺める自分がいることがわかる。悲しみや混乱はあくまで鏡の中の人間が持っているものであり、それを見ている実像の私は「虹彩こうさいには小さな凸凹がある」「涙だけでなく鼻水も出ている」「唇の皮が乾燥している」「身体がしゃくり上げている」「いつもの自分と違う発声でえずいている」という即物的な要素を一つずつ取り上げて並べる。物体としての自分の表面を見る。目から透明の水分がたえず湧き出てきて、球のように集まって肌の上に水跡を作っていく。首をかしげて、頭と目の継ぎ目になっている肉の部分を観察する。白目に指先でそっと触れてみると、内側からみっちりと詰まった硬さがあり、犬の舌に舐められたときと同じくらいささやかに指先が湿る。涙にはなじみ深い塩味があり、さっきより鼻が詰まって呼吸の音が荒くなる。
 涙でぐちゃぐちゃになった子どもと、それを見ている私に分けることで、感情と身体の距離を保ちなおせるような気がしたのだ。その試みに成功して気持ちが落ち着くこともあったが「なんでこんなことしてるんだ」とより腹が立ってきたり、むなしくなったりすることもあった。そんな娘の背中を見て、両親は「とんでもない鏡好き、自分大好きのナルシシストだ」と言った。私が親でもきっとそう言うだろう。
 大人になってからも度々泣いているが、その自分の姿を直視するのは恥ずかしいどころか、見てられない。痛々しくて無理だ。私は晴れて、恥を履修した。
 三十歳を過ぎてからラジオの生放送中に号泣してしまったとき、ある男性から「女の涙は暴力だ」と言われた。社会通念上は、大人が泣くとみっともない。ショッキングだ。会話がストップする。常識外れで面食らう。たしかにそうである。選挙期間中の女性政治家が涙ながらに演説する映像を見たときに、たしかに涙を政治の道具にしているのではないか、エモーショナルな演出でなにかをごまかそうとしているんじゃないかと思ったこともある。そんな私自身も、より強い人間を目指すべくできるだけ人前で泣かないようにしている。でも、度々、泣いている。
 できることなら、どんな人が泣いていても「ああ、泣いているな」とだけ思ってそっとしておいてくれる世界にしたい。生放送中に号泣したのはエンタメとして本当に良くなかったのを認めると同時に、女の涙は、ただの人間の涙であって、暴力ではないんじゃないかとも思っている。ジェンダーによって涙の意味が変わるのであれば、女の涙を暴力にするのは社会のほうではないか。ただ、生放送中に泣き出すパーソナリティの存在は誰にとっても異物であり、午後のワイドショーの明るさに全くもってそぐわない。泣いたことへの自己言及は、すればするほどかっこ悪い。
 嬉し涙や共感の涙といった、情に厚いという理由の、人の感情に寄り添うような号泣であれば「ああ、泣いているのね(ほっこり)」と捉えられることも珍しくない。私の場合は、独りよがりなマイナスの感情が涙になって露呈していることを「暴力」だと指摘されたのである。お前の弱さに起因する痛々しい有様をメディアにさらすなということだ。ごもっとも。
 人が泣いている最中、その原因について整理して語られることは少ない。言葉を感情が追い越すと涙が出るからだ。り上がる気持ちを言葉にするには、身体から湧き上がる感情と、身体そのものを引き剥がさないといけない。涙がこぼれる。これを書いていても、あのとき泣いてしまったことは新鮮に悔しい。
 けれど、どうして大人は人前で泣いてはいけないのだろうか。弱いままで生きられる人間がいては困ることって、なんなのだろう。弱い者の屁理屈だとしても「女の涙は暴力」という言葉に対する反論を腹の底で練り続けたい。
 ショッピングモールではよく子どもが泣いている。たいていは、なにか欲しいものが買ってもらえないことに対して怒ったり悲しんだりして、親からそれを叱られて、より強い泣きのモードに入っている。私は親から「物欲の塊」と呼ばれるほど買い物が好きな子どもだったが、なにかを買ってほしくて駄々をこねた記憶がほぼない。実際どうだった? と親に聞いてみたら「あなたはなにかを買ってとねだるとき、お金がないからダメですと言うと、静かに聞き入れていたよ」と言っていた。
 でも、一度だけ「駄々をこねてみよう」と思ってやってみたことがある。なにが欲しかったのかは覚えていない。たぶん女児向けのおもちゃだ。「買って」と言っても買ってもらえなかったので、気合いを入れ、気持ちを本来のラインより盛り上げて泣き、トイザらスの床に仰向けに転がった。ツルツルの床に熱い涙がこぼれ落ちていき、鼻がツンとした。「ああ、これが駄々をこねるってことだな」と、自分をどこか冷めた目で見ていた。買ってもらえたかどうかについても、なにも覚えていない。以前付き合っていた人は、駄々っ子だったそうだ。あるときに駄々をこねまくった挙句、おもちゃ屋でズボンを脱いでちんこを出したことがあると言っていた。物静かな人だったので、意外だなあと思った。私の涙にも、こんな暴力性を見出されていたということだろうか。
 泣いている子どものそばを通ると、意味なくもらい泣きしそうになる。これは完全に反射的なもので、街で急にでかい感情を持った存在に出くわすと、それだけでうるっと来てしまう。たとえば、神輿みこしを担いでいる祭りの一団を見かけたとき、モールの中心に組まれたステージで地域の中年女性グループによるフラダンスが披露されているとき、子どもや赤ちゃんが大声で泣いているとき。前者二つは「ハレ」の日であることが感動トリガーだと思うのだけれど、子どもの泣き声になぜうるっと来てしまうんだろうか。ハレの日ではないが、大人になると大きな感情をそのまま爆発させることはまずない。だからこそ、大人の私が急に泣くのはルール違反なので、白い目で見られる。自分の名前で検索すると、一番最初に泣き顔の画像がサジェストされる。私はどうすれば涙を止められるのか、まだわからない。
 モールでは人知れず、大人も泣いているはずだ。映画館で、バックヤードで、フードコートで。ただモールでは人が泣いているところに出くわしても、涙に至った文脈がわからないことがほとんどなので「ああ、泣いているな」と思われてそれだけだ。私は泣いている人のしんどさに寄り添いたい気持ちもあるが、そこまで情に厚くない。資本主義の豚としてどうもこうもなく、広い道をただ通り過ぎている。

イラストレーション●近藤聡乃

石山蓮華

いしやま・れんげ●電線愛好家、文筆家、俳優。
TBS ラジオ「こねくと」でメインパーソナリティを務める。電線愛好家として「タモリ倶楽部」などのメディアに出演するほか、日本電線工業会公認「電線アンバサダー」としても活動。著書に『犬もどき読書日記』(晶文社)、『電線の恋人』(平凡社)がある。過去の出演作は映画『思い出のマーニー』(スタジオジブリ)、ドラマ『日常の絶景』(テレビ東京)など。

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