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三浦英之「銀河鉄道の夏」② 第二章 花巻

[連載]

第二章 花巻


写真/浅沼和明

 岩手県花巻はなまき市のJR花巻駅に降り立つと、頭上には宮沢賢治が生前大好きだった泡立つサイダーのような夏空が広がっていた。
 気温二九度。日差しこそ強いものの、北上山地を抜けてくる緑の風は心地よく、わずかに田園地帯の青い稲穂のにおいを含んでいる。
 夏休み期間だからなのだろう、駅構内は多くの親子連れや観光客でにぎわっていた。人混みの中を歩いていくと、この地が育んだ二人の偉人の看板がしきりと視界に飛び込んでくる。
 宮沢賢治と大谷翔平。
 米大リーグで投打の二刀流で活躍する大谷は花巻から南に約三〇キロ離れた奥州おうしゅう市(旧・水沢市)の出身だったが、高校時代を花巻東高校で過ごしたこともあり、花巻市民はいまも「地元の偉人」として声援を送っている。その年の春に行われた「ワールド・ベースボール・クラシック」では彼が投打の活躍で日本を優勝に導いたこともあり、街では「大谷フィーバー」が冷めることなく続いていた。
 二〇二三年七月三一日。
『銀河鉄道の夜』のもとになったとされる賢治の一〇〇年前の樺太からふと旅行をたどる旅の第一歩として、私はJR花巻駅前にある小さなカフェに立ち寄った。
 賢治のゆかりの品や肖像などを保護する「林風舎りんぷうしゃ」。賢治の死後に多くの作品を世に送り出した実弟・宮沢清六せいろくの孫にあたる宮沢和樹が代表を務めており、彼から直接話を聞かせてもらえることになっていた。
 店内に入ると、入り口正面の棚の上に賢治の最も有名な詩「雨ニモマケズ」が記された小さな複製手帳が売られていた。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル

 あまりに有名なその詩は賢治が作品として残したものではなく、彼が死の約二年前に病床で手帳に書き記し、死後、愛用のトランクから見つかったものだとされている。

東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

「祖父(清六)は常々、この『行ッテ』が大事なのだ、と私に話してくれました」
 宮沢和樹は二階のカフェに置かれたテーブルで私が購入した複製手帳の詩を見つめながら、祖父・清六との思い出を振り返ってくれた。
「自分が実際に動くことが大事なのだ、そしてそれは、病床にいて自分では動くことのできない、賢治さんの願いではなかったか、と」
 岩手、特に花巻で暮らす人々は、賢治について語る際、愛着を込めて「賢治さん」と呼ぶ。太宰治や三島由紀夫など日本には名だたる文豪が多数存在するが、名字ではなく下の名前で呼ばれる書き手は、賢治や漱石、同郷の啄木をのぞけば、それほど多くない。賢治はそこに「さん」がつく。
 和樹の祖父である清六は賢治と年が八つ離れているものの、妹トシと並んで賢治の最大の理解者の一人だったとされている。賢治は多くの作品を世に残したものの、生前刊行できた単行本は詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』の二冊だけであり、彼の作品のほとんどは死後、清六の手を通して発表されている。
「ご祖父である清六さんは、どのような性格だったのでしょうか?」
 私が清六の印象について尋ねると、和樹はフッと小さく声に出して笑い、数秒間、カフェオレの甘い湯気の中に言葉を探した。
「賢治さんの作品は、童話にしてはやや難解すぎるところがあるんです」と彼は笑った。「だから最初はどの出版社に持っていっても、まったく相手にされなかったようです。祖父はそれでも、尊敬する兄の作品を世に送り出すことを、どこか自分の使命のように考えていました」

 もう一人、賢治を世に送り出した著名な芸術家がいる。
 詩人や彫刻家として知られる高村光太郎である。
 すでに芸術家として成功を収めていた高村は、当時まったくの無名だった賢治の作品を読み、「自分の作品よりも後世に残るものになるかもしれない」と高く評価していた。
 二人は生前、たった一度きりだが接触もしている。一九二六年の冬、花巻農学校を退職した賢治がタイプライターやチェロを学ぶために上京した際、高村の家を約束なしに訪ねると、仕事をしていた高村は「明日の午後明るいうちに来てください」と追い返してしまう。「また来ます」と賢治はその場を後にしたものの、再訪はしなかったため、二人が顔を合わせたのは知られている限り、その一度きりになってしまった。
 しかし、賢治の死後にこそ、二人の関係は深まっていく。賢治が亡くなった翌年、東京・新宿で賢治の追悼会が催され、高村もその場に出席した。その際、清六が持参した賢治の原稿が入ったトランクの中から「雨ニモマケズ」が記された黒い手帳が見つかると、残された原稿や手帳を見て心動かされた高村は賢治全集を出すことに賛同し、その全集の題字を自らの手で書いている。
 賢治の没後三年目にあたる一九三六年の秋、花巻に賢治の初めての詩碑「雨ニモマケズ」が建てられることになった際、碑文の字を書いたのも高村である。ただ、誰がどこで間違えたのか、詩碑には除幕の段階で計四カ所の漏れや誤記が含まれており、高村は戦後の一九四六年、その訂正を行うため、自ら足場に登って詩碑に筆で挿入や訂正を行い、石工がその場で追刻をしている。
 高村はその際、「誤字脱字の追刻をした碑など類がないから、かえって面白いでしょう」と言ったと伝えられているが、現在も賢治の命日には多くのファンが献花に集まるその詩碑は、二人の芸術家の友情を示す、世界的にも珍しい「直しの跡が見られる詩碑」となっている。
 無論、高村の「功績」は詩碑にではなく、戦争末期の「助言」にこそある。
 日本が敗戦する三カ月前の一九四五年五月、空襲で東京のアトリエを焼失した高村は、宮沢家に誘われる形で花巻の清六の家に身を寄せている。
 その際、東京で空襲を経験していた高村は賢治の弟の清六に「花巻でも空襲があるかもしれないから、防空壕を作って大切なものを避難させなさい」と話し、清六はその助言を受けて賢治の未発表の原稿や資料をあらかじめ防空壕と土蔵の二つの場所に分けて避難させていた。そのことが後の八月一〇日に花巻空襲で賢治の実家が全焼した際、彼の作品が奇跡的に戦火から守られたことへとつながったのである。高村の存在と助言がなければ、唯一無二の賢治作品の多くはおそらく、後世には残されていない。
 高村自身も賢治から大きな影響を受けていたのだろう。彼は戦後も花巻に留まり、約七年間、山奥にある杉皮葺き屋根の極めて質素な七・五坪の小屋で独り暮らしを続けた。小屋はいまも高村光太郎記念館に隣接して保存展示されており、足を運ぶと、こんな貧弱な小屋で本当に北東北の冬を越せるのだろうか、と思わず目を疑いたくなる。高村はそんな零下二〇度の、吹雪の夜には寝ている顔に雪がかかるような環境下で、亡き妻・智恵子の幻を追いながら善と美に生きようとした。
 まるで亡くなった賢治が夢見た、ひたむきな生き方を真似するかのように─。
 清六や高村だけではない。賢治と関わった多くの人が─まるでブラックホールに引き寄せられる銀河の星々のように─彼の生き方に魅せられ、その後の人生を変えていく。
 それほどまでに強い引力をもった賢治とは、はたしていかなる人物だったのか。

 賢治は一八九六年八月二七日、現在の岩手県花巻市豊沢町にあたる稗貫ひえぬき郡花巻川口町に生まれた。父・政次郎は質・古着商を営み、母・イチの実家も岩手県有数の資産家であったことから、賢治は裕福な「資産家の長男」として育てられ、当時の小学校を優秀な成績で卒業している。
 幼少期、彼の心を惹きつけたのは鉱石だった。周囲から「石っこ賢さん」と呼ばれるほど、野山を歩いては落ちている石をハンマーで砕き、中にどんな鉱物が入っているかを調べることに夢中になった。鉱物採集は中学に入ってからも続き、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に進学後は土壌学を専門とする教授のもとで本格的な地質調査にものりだしており、専門家の間では「岩手県南部の山で賢治のハンマーが入らなかった山はない」とさえ言われている。
『銀河鉄道の夜』の中にも鉱物を用いた独特な表現が随所にちりばめられている。

銀河ステーション、銀河ステーションと云ふ声がしたと思ふといきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万のほたる烏賊いかの火を一ぺんに化石させて、そら中に沈めたといふ工合ぐあひ、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざとれないふりをして、かくして置いた金剛石を、たれかがいきなりひっくりかへして、ばらいたといふ風に、眼の前がさあっと明るくなって

 厳格な北東北の自然の中で多感な少年期を過ごした賢治は、裕福な家庭に生まれ育ったことへの嫌悪感から盛岡中学時代は成績が低迷したものの、盛岡高等農林学校に首席で入学してからは再び優秀な成績で学業を続けた。しかし、卒業後は進路や信仰をめぐって父親と対立し、一九二一年一月に家族に無断で上京すると、昼間は出版社でアルバイトをしながら、夜は日蓮宗在家信仰団体である「国柱会」で奉仕活動を行うようになる。
 文学と宗教に向き合う日々の中で、彼を東京から故郷・花巻へと引き戻したもの─それは最愛の妹の発病だった。
 若き日の賢治にとって、妹のトシは唯一無二の存在だった。宮沢家は浄土真宗の信仰心が厚く、兄妹はその影響を強く受けて育っている。二歳年下のトシは学業優秀で、入学した花巻高等女学校では卒業まで級長を務め、在籍中の四年間は全教科平均点による席次はすべて一番。東京の日本女子大学校に進学して都会の自由な空気の中で学んだものの、四年生のときに体調を崩して入院すると、一九一九年三月には花巻に帰郷してそのまま療養生活に入ってしまう。一九二〇年秋には小康を得て、花巻高等女学校の教諭心得となったものの、翌年の初夏には再び床に伏すようになり、一九二二年一一月、二四歳の若さで亡くなってしまう。
 トシの病気をきっかけに東京から帰郷し、稗貫農学校(後の花巻農学校)の教師になっていた賢治はそのとき、最愛の妹の死をどう受け止めたのか─。

 花巻市の南隣にある北上市の日本現代詩歌文学館は全国でも珍しい、短歌や俳句、詩や川柳などの詩歌を専門とした総合文学館である。
 詩人や出版関係者などの設立運動によって一九九〇年に開館したその文学館では、賢治が生前刊行した唯一の詩集『春と修羅』の刊行から二〇二四年が一〇〇年になるのにあわせ、常設展「賢治に献ずる詩歌」が開かれていた。全国で活躍する詩歌人に『春と修羅』をテーマとした作品を直筆で寄せてもらって展示するだけでなく、最も好きな賢治作品についても尋ね、回答をキャプションで紹介している。
 その中で出品者の多くが好きな賢治作品として挙げていたのが、『春と修羅』に収められている「永訣の朝」だった。賢治が二六歳のとき、妹トシが結核のために二四歳で亡くなる、その別れの朝を描いた作品である。
『春と修羅』の詩の多くには日付が付記されており、トシが亡くなった一九二二年一一月二七日には「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」という三つの詩が刻まれている。
 賢治はその三編の詩の中で、妹の臨終の場面やその悲しみを書きなぐっている。

けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
めゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつそう陰惨いんさんな雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
※あめゆきとつてきてください

 私が岩手で暮らし始めて心から良かったと思うことの一つに、賢治の詩や童話に出てくる自然界の描写を実感覚として深く理解できるようになったことがある。まだ冬になりきれていない一一月の花巻の、「薄赤く陰惨な雲」から「びちょびちょ降ってくる」みぞれの感覚を、いまの私であれば、体に染み入るように理解することができる。

 丸括弧の中の記載は、妹トシの声である。賢治はいままさに命を終えようとしている病床の妹から「あめゆきを取ってきてほしい」と頼まれ、お椀を持ってみぞれが降る鉛色の空の下、鉄砲玉のように外へと飛び出す。


青い蓴菜じゅんさいのもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀たうわん
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛さうえんいろの暗い雲から
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ

 その行為のさなか、彼は妹が死後に自分を悲しませないように、こうして雪を取ってくるよう頼んだことに気づく。
 そして、そのあめゆきをお椀に取ろうとした瞬間、彼は雪のあまりの白さに心うたれて嘆く。

あああのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
まれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)

※またひとにうまれてくるときは
こんなにじぶんのことばかりで
くるしまないやうにうまれてきます

 こんなにも暗く恐ろしい空からなぜ、これほどまでに白く美しい雪が舞い降りてくるのか。こんなにも汚れた世界になぜ、妹のような清らかな存在が生まれてきたのか。二つの問いを重ね合わせるように賢治は悩む。そしてその雪がどこをとっても白いことを嘆く。
 丸括弧の中のトシの声は言う。「次に人に生まれてくるときは、自分のことばかりで苦しまないように生まれてくる」。「自分のことばかりで」という告白は、信仰に向き合いながらも「他者のために尽くせなかった」というトシの心からの後悔だ。
 そんな妹の悔しさの声を聞きながら、賢治は最後にこう綴る。

おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

 賢治は最後に願う。お椀の中にすくいあげた雪が、天上のアイスクリームになって、最愛の妹だけでなく、みんなの尊い糧になりますように、と。
 自らのすべての幸せをかけて、賢治は願う。

 これほどまでに美しく、切なく、優しい詩を、私は知らない。
 賢治が花巻から樺太へと向かったのは、トシが結核で亡くなった翌年の夏。
 身を滅ぼすような悲しみの中で、彼は極北へと旅立っていた。

♦引用文献
宮沢賢治『宮沢賢治全集3』、ちくま文庫、一九八六年
宮沢賢治『宮沢賢治全集7』、ちくま文庫、一九八五年
宮沢賢治『宮沢賢治全集1』、ちくま文庫、一九八六年

三浦英之

みうら・ひでゆき●朝日新聞記者、ルポライター。
1974年神奈川県生まれ。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で小学館ノンフィクション大賞、『帰れない村 福島県浪江町「DASH村」の10年』でLINEジャーナリズム賞、『太陽の子 日本がアフリカに置き去りにした秘密』で山本美香記念国際ジャーナリスト賞、新潮ドキュメント賞を受賞。最新刊は『日本で一番美しい県は岩手県である』。

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