[連載]
②隠蔽

日付が変わる少し前、精神科の入院患者が同室の患者から致命傷を負わされ、翌朝に死亡した。警察に知らされたのは宵の口。しかもそれは、内部通報によるもので、病院側からの公式の連絡ではなかった。なぜ「空白の時間」は生まれたのか──。
パワハラ院長
小柄で、やや猫背の男が、被告人席に座っていた。白いマスクで口元を覆い、黒いスーツに身を包んでいる。眼鏡の奥の視線を満員の傍聴席にたびたび向けては、落ち着きなくさまよわせる。
開廷後、証言台に向かうときには、緊張が全身を固めていた。歩き方は、手と足が同時に出て、途中でつまずいてしまいそうだった。
「パワハラ院長」──。院内でそんな陰口をたたかれていた人物とは思えないほど、その姿は小さく見えた。
二〇二五年九月二五日、青森地方裁判所。初公判(藏本
法廷で読み上げられたのは、患者が死に至るほどの暴行を受けたというのに、適切な医療措置を取らず、その死因を偽装する方向へと判断が流れていった経緯だった。
隆は起訴内容に対し、消え入りそうな声で「間違いありません」と認めた。
後日、懲役一年六カ月、執行猶予三年という判決が出た。双方控訴せず、確定した。
事件当時、みちのく記念病院の運営母体の医療法人
「今後、杏林会やみちのく記念病院に関わっていく可能性はありますか」
それは、「まさか関わることなどしないよな」と確認するための修辞疑問のように、私には聞こえた。なにしろ法廷で
以下、主に公判で明かされた供述と証拠に基づき、「空白の時間」に何が起きていたのかを明らかにしていく。なお、哲の初公判は現時点では開かれていない。
患者の命より病院の体面
当該事件が発生したのは、二〇二三年三月一二日の深夜だった。
精神科の入院患者である佐々木人志(当時六〇)が、同室の患者である高橋
その騒ぎを聞きつけ、看護師が二階にある当該病室に駆け付けたのは、午後一一時四五分ごろ。高橋の顔面も、彼が寝ていたベッドも、血で染まっていた。
看護師は午後一一時五五分ごろ、院外にいた主治医の哲に電話をかけ、暴行事件が起きたことを伝えた。その際に哲の指示を受け、隆が管理する一階の内科病棟に高橋を移動させた。この理由について、みちのく記念病院の関係者(以下、病院関係者)が説明する。
「二階病棟には昼夜問わず、応急処置をできる看護師がいない。点滴などの処置が必要となれば、どの患者も内科病棟に移動させる習わしだった」
病院関係者によると、一階の看護師は高橋に圧迫止血と点滴を施した。だが、止血することはかなわなかった。
哲は日付が変わった午前〇時三〇分ごろ、隆に電話をかけ、事件の経緯などを報告した。
隆は、弟の報告を受けながら、外科的な処置を専門とする別の病院へ高橋を搬送すべきだと思った。しかし、そうはしなかった。
裁判で隆は、かかる外科搬送が医学的に正しいと理解していたことを認めた。そのうえで、「騒ぎになるのを恐れた」「病院の悪い評判を広げたくなかった」と供述した。つまりこの時点で、被害者の救命よりも病院の体面を優先したことになる。
隆は、すぐ看護師に電話をかけ、高橋の家族には連絡しないように命じた。
詰まるところ、被害者の対応を看護師に委ねたまま、病院に姿を見せることも、ほかの医師を派遣することもしなかった。
医師が現場に出なかった点は、公判でも厳しく問われた。裁判官から「医師として適切な判断だったのか」と追及されると、隆は沈黙の後、「適切ではありませんでした」と認めた。
結局、高橋は外科的な処置を受けられなかった。そして朝方に亡くなる。死因は、頭蓋内損傷と失血だった。
ここで止まったのは医療行為だけではない。通報、搬送、死因の認定─本来は外部に開かれるべき手続きが、院内で次々に閉じられていく。組織的な隠蔽が動き出していった。
理解した「死因偽装の提案」
高橋が亡くなって少し経った午前九時過ぎ──。石山兄弟は病院の診療室で、何やら密談していた。テーブルの椅子に座る隆。その向かい側に立つ哲は、高橋の血液検査のデータを見つめながら、こう告げたという。
「ワイセが上がっているから、〝この線〟でいいのではないのか」
隆は「この線」の意味を察した。それは、死因が外傷であることを隠し、肺炎によるものだと偽ることの提案である、ということを。
「ワイセ」とはドイツ語由来の呼称で、白血球数を指す医療業界の隠語だ。それが上がっていることは、肺炎や敗血症など感染症の兆候と解釈しうる。
隆は法廷で、死因を肺炎とするのには無理があると、認識していた旨を述べている。にもかかわらず、その無理を押し通そうとした。殺人事件が表沙汰になることを防ぐためだった。
診療室ではそれ以上の長い議論はなかった。
隆は、看護師に電話をかけ、次の指示をした。高橋の家族には、徘徊中に顔面をぶつけた事故と説明すること。葬儀会社に連絡し、火葬の手配を急ぐこと。
さらに、こう付け加えた。
「〝大川先生〟に診てもらうように」
死因を偽装する手続きが、この瞬間に始まった。
機能しない宿直体制
隆は看護師に指示して、自分ではなく、別の医師に死亡診断書を書かせることを選んだ。その医師こそが「大川先生」こと、大川
一九七二年一月三一日発刊の『京都大学結核胸部疾患研究所紀要』五巻一号によると、大川は青森の津軽地方出身。石山兄弟の母校である
京都大学助教授を経て、石山兄弟との同窓の縁からか、八〇歳を過ぎてからみちのく記念病院に勤め始める。
しかし常勤医としての活動は長続きしなかった。認知症を発症したからだ。そのため二〇二二年一一月には八戸赤十字病院に入院し、一二月にはみちのく記念病院に転院していたという。
法廷での隆の証言や病院関係者によれば、大川は尿を漏らしたり、自分の汚物をなすり付けたりした。さらには人間関係でも問題を起こしていたという。
「おじいさん扱いされると、怒って人に当たってしまう」
大川は入院患者だったにもかかわらず、院内では「みとり医」と呼ばれた。宿直医として、日ごろから死亡の確認と死亡診断書の作成を担っていたというのだ。
法廷で隆は、大川の認知症について、「認められてしまう程度に進んでいる」という理解を持っていたと答えた。さらに検察官から、高橋の実際の死因が肺炎ではないと、当時から分かっていたのではないかと問われ、「はい」と答えた。
つまり隆は、大川の判断能力に問題があることと、死因が肺炎ではないことの双方を認めたことになる。検察官から「あなたが言えば、(大川は)その通りに書くと思っていたのではないか」と問われ、「はい」と答えた。
相談されなかった医師
ここで検察官は、「認知症の医師に死亡診断書を書かせてよいのか」という核心的な問いを投げかけた。
「まだらぼけでした」
隆はそう言い開きした。すなわち大川は認知症の症状に波があり、「良いときもあれば悪いときもある」とし、一定の判断能力が残っていたと主張した。
ここで法廷の誰もが、こんな疑問を思い浮かべたはずだ。仮に判断能力が残っていたのであれば、看護師から促されても実際の死因と異なる内容をそのまま書くとは限らないのではないか、と。
検察官もこう追及していった。
──あなたとしては、大川先生は言われた通りに書くと思ってたんですね?
「絶対ということはないのですが、そういう方向性はあるという感じです」
──絶対ではなかったとしたら、大川先生が通報してしまうかもしれませんね。その可能性も考えたんですか?
「当時は可能性まで考えていませんでした」
つまり隆は、大川に一定の判断能力が残っていると強弁しながらも、結果的には指示通りに死因を書く可能性が高い、と見込んでいたことになる。
この矛盾をより際立たせたのが、暴行直後、看護師が大川に相談しなかったという事実である。この点について検察官から「認知症の医師だから、誰も今回の事件で相談しなかったのではないか」と追及されると、隆は直接の回答を避け「思いが至っておりませんでした」と述べた。やはり院内では、大川は正常な判断ができない医師として扱われていたのである。
「肺炎」になったトリック
それにもかかわらず、「肺炎」とする死亡診断書は作成された。
ここにトリックがある。
法廷での看護師の証言によれば、事件当時、大川は自力で診断書を書くことができなかった。そこで看護師が筆記具を握り、その手の上に大川の手を置き、死亡診断書に文字を綴ったという。
つまり大川の判断能力の有無は、実際の作成の過程においてさして意味を持っていなかった。形式的に医師の署名があれば、それで十分だったのである。
病院関係者によると、みちのく記念病院では同様の不正が横行していた。
青森県警の捜査により、大川が作成したとされる死亡診断書は二〇〇枚以上見つかった。その七割近くの死因は「肺炎」と記されていた。
「大川先生の名義で、第三者が死亡診断書を作成することは繰り返されていました。そのために『みとり医専用の死亡診断書セット』が用意されていたんです」
こう証言する病院関係者は、その不正の仕組みの一端を次のように説明した。
同院の死亡診断書は二枚つづりで、一枚目は遺族用、二枚目は病院保存用である。二枚の間にカーボン紙を挟んで記入すると、同時に複写される構造だ。
ところが「みとり医専用の死亡診断書セット」では、この構造が悪用されていた。丸を付けるだけで済む項目にはあらかじめ記入が施され、保存用の二枚目の署名欄には付箋が貼られていた。筆跡が複写されないようにするためである。
患者が亡くなると、大川が書けない状態であれば第三者が署名し、さらに死因や罹患期間などの内容欄も記入した。死亡診断書は、医師の医学的判断を証明する法的文書である。
一枚目だけはすぐさま遺族に渡された。監査対象となる保存用の二枚目には、大川の体調が戻った後で改めて署名させる運用がなされていたという。
この証言を踏まえれば、高橋の死因が「肺炎」と記載されたことに、大川個人の医学的判断がどれほど関与していたのかは、きわめて疑わしくなる。
認知症の「みとり医」
病院関係者によると、みちのく記念病院には、大川以外にも少なくとも二人の高齢医師が「みとり医」として関わっていた。
このうち八〇代の男性医師は、勤務開始後に認知症が疑われる状態となったものの、二〇二三年から二〇二五年までその役割を担ったという。遺体を直接確認しないまま死亡診断書を作成した疑いがあるとして、今回の事件後に県は医師法違反の疑いで県警に告発している。
もう一人は、遅くとも二〇一五年から二〇二一年まで「みとり医」だったとされる男性医師である。認知症を発症した後もその役割を続けていたという。「後年は聴診器も使えなくなり、医師として働ける状態ではなかった」と病院関係者は証言する。二〇二一年五月、九〇代半ばで同院内で亡くなった。
医療法第十六条は、病院の管理者に医師の宿直を義務付けている。ただし、隣接地での待機など、急変時にも速やかに診療できる体制が厚生労働省令の要件を満たす場合には例外が認められる。
みちのく記念病院では、医師が病院近くに居住していることなどを前提に、宿直は行われていなかった。もっとも、例外であっても緊急時に医師が速やかに対応できる体制が確保されていなければならない。しかし実際には、患者が死亡した際の対応は「みとり医」に委ねられていた。
病院関係者によると、大川以外の「みとり医」が死亡診断書を作成する際にも、看護師が〝補助〟することがあったという。
みちのく記念病院の入院患者は八戸市在住者が多く、死亡診断書の多くは八戸市役所に提出されてきた。受理した担当部局は、なぜ筆跡の違いや肺炎が多いという記載内容の不自然さに気づかなかったのだろうか。
宿直体制が実質的に機能していなかったとすれば、それは一連の事件を招いた背景の一つともいえる。
仮に宿直体制が適切であれば、高橋の診察や外部搬送、さらには警察への通報の判断が、より速やかに行われた可能性もある。
隆は法廷で、認知症の医師に宿直を任せてきた理由について、「新たな医師を採用したい思いはありましたが、それがなかなか、ままならないまま……」と述べた。医師不足をにじませる弁明だった。
しかし結果として、十分に機能しない体制は長く続いた。形式は整えられながら、実質が伴わなかった。その空白のなかで、死因をめぐる判断が下されていった。
募った違和感の正体
それにしても当該事件で虚偽の死亡診断書を作成することについて、隆はなぜ自らせず、わざわざ大川に委ねたのか。検察側はこの点も追及した。
──どうして、自分で死亡診断書を作らなかったんですか?
「自分はこの被害者の治療歴や病歴を知らなかったし、突然起こったことですので、自分では難しいなと思いました」
──それは大川医師も同じですよね?
「……(沈黙)」
──「はい」なら「はい」と言ってください。
「はい」
──それなのに大川医師に書かせようと考えたのはなぜですか?
「本当に申し訳なく思っております」
──簡単に言えば、自分の手を汚したくなかったということですか?
「はい」
「病院を守りたかった」──。法廷でそう繰り返した隆。
そのために、瀕死の患者を救おうとしないどころか、その死の隠蔽に看護師や認知症の医師を巻き込んだ。
裁判を傍聴するうちに、私のなかで募っていったのは、なによりも違和感だった。それは、証言台で絶え入るような声で答弁をしている男が、病院の経営者にして医師でもあるという事実にほかならない。
表紙写真●筆者提供
窪田新之助
くぼた・しんのすけ●ノンフィクション作家。
2004年JAグループの日本農業新聞に入社。国内外で農政や農業生産の現場を取材し、2012年よりフリーに。著書に『データ農業が日本を救う』『農協の闇』、共著に『誰が農業を殺すのか』『人口減少時代の農業と食』など。『対馬の海に沈む』で第22回開高健ノンフィクション賞を受賞した。





