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阿古真理『ウォーカブルでいこう!』
[第10回] 文化の活用で再生する町

[連載]

[第10回] 文化の活用で再生する町

寂れゆく商店街

 私は一九九五(平成七)年に実家を出て以来、大阪や東京の商店街が駅前にある町に住んできました。わが家へ来る人たちは、商店街を歩きながら「いい町ですね!」と言ってくれます。しかし、実際に生活している私からすれば、ある通りは雑貨店と飲食店ばかりで、別の町は病院とドラッグストアだらけ。生活必需品を揃えられず不便な地域もあったのに、商店が並ぶ印象だけで「いい町」に見えたのは、シャッター商店街や、商店自体がほとんどない駅前が増えたからではないでしょうか。高度経済成長期の姿を知る商店街の店主や利用者に聞くと、通りの向かい側の店に行くのも難しいほど人でごった返していた、と口を揃えます。
 駅前商店街は、全国的に私鉄などの駅ができた一九二〇~一九三〇年代に生まれたところが多いです。昭和後半にスーパーが進出して店の一部が入れ替わり、平成になると、ロードサイドに増えた大型店に客を奪われ、後継者不足などの事情もあってシャッターを下ろす店が増えていきます。
 利用者のライフスタイルも変化しました。フルタイムで働く女性が増えた結果、商店街の営業時間内に帰ってこられず、週末にスーパーへ行く、あるいは宅配サービスでまとめ買いするようになります。駅前では夕食を提供するほうが売れる、と生活必需品の店が総菜店や飲食店に入れ替わっていったのでしょう。マイカー利用者が増えた地方では、ロードサイドに生活必需品を扱う店が増える一方、あまり電車を使わないので駅前に行く必要がなくなっていきました。
 地方都市や郊外にロードサイド店が増えた背景には、政策の転換があります。一九八〇年代、日本は貿易赤字に苦しむアメリカから、内需を拡大するよう圧力を受けていました。求められたのは、流通業の規制緩和と大規模な公共投資です。
『商店街はなぜ滅びるのか』(新雅史、光文社新書、二〇一二年)によると、通産省(現経済産業省)は大規模な小売りチェーンが地方に進出しやすくなる規制緩和を行い、個人商店の経営が圧迫されました。コンビニチェーンに参加し、生き残りを図った店もあります。しかし、多彩なジャンルの商品を扱うコンビニの商店街進出は、専門性が高い個人商店の経営体力を奪いました。
 また、建設省(現国土交通省)は、都市間を結ぶ郊外の国道バイパス網を充実させ、周辺の土地を整備しました。工場や住宅街ができ町が拡大する前提だったのですが、バブルが崩壊。工場のアジア移転が進んだ時期と重なり、そうした土地にできたのはショッピングモールなどの商業施設でした。平成は、個人商店から大資本へと商業の転換が進んだ時代と言えるでしょう。
 二一世紀になると、公共施設などの生活インフラが整っていない農地エリアに、次々と住宅ができる市が増えた、と指摘するのが『老いる家 崩れる街』(野澤千絵、講談社現代新書、二〇一六年)です。二〇〇〇(平成一二)年の都市計画法改正で、自治体の許可があれば市街化調整区域に農家以外も住宅を建てられる規制緩和が行われます。人口を増やしたい自治体に対し、割安で売りやすい土地が欲しい不動産業者、農地を売るなどして収入を得たい一部の農家などが宅地開発を求めました。しかし住宅地の拡散は市街地の不動産開発の意欲を下げ、自治体の公共施設や道路などの整備や維持への支出も増えてしまったのです。
『平成都市計画史』(饗庭伸、花伝社、二〇二一年)によると、国は二〇〇六年に中心市街地活性化法、都市計画法、大規模小売店舗立地法の「まちづくり三法」を改正して大型店の立地を規制し、出店先について都道府県が調整できるようにして都市構造自体を再編できる仕組みを整えました。そして自治体は、中心部に人が集まって住む「コンパクトシティ」を目指します。令和になってウォーカブル・シティを実現しようとする自治体が増えたのは、広がり過ぎた町の集約が必要になったからでもあります。

アートを活力源にする前橋市

 一〇年前に刊行された『老いる家 崩れる街』で、市街化調整区域での宅地開発の許可件数が特に多い、と挙げられた自治体の一つが前橋市。現在、利便性を向上させるため、バス路線を再編するなどの対策に取り組んでいます。中心商店街の活性化については、民間も大きな役割を果たして注目されてきました。
 二〇二四(令和六)年一二月、前橋を歩いてきました。前橋市は群馬県の県庁所在地で、東京二三区内のわが家からは電車を乗り継いで三時間前後。中心市街地へは県内を走る上毛電鉄の起点、中央前橋駅からは歩いてすぐですが、JR前橋駅からは約一五分かかり、私はバスで行きました。
 中心市街地の北を流れる広瀬川沿いに、二〇一八(平成三〇)年に設置された岡本太郎作品の「太陽の鐘」が、少し歩くと対岸に前橋ゆかりの詩人、萩原朔太郎の旧居が移築されており、続いて昔使われていたらしい水車の展示、と次々に見どころが現れます。このように、前橋市ではアートなどの文化を町おこしに活用している点が興味深いです。
 アートによる町おこしは、二一世紀の潮流。現代美術家の作品を町なかに展示するアートイベントが各地で開かれるようになり、瀬戸内国際芸術祭の会場の一つになった男木島おぎじまなど、移住者が増える地域も出てきました。イベント時に、アーティストが滞在し作品を制作するアーティスト・イン・レジデンスもよく行われます。
 前橋市では、二〇〇六年に閉店した百貨店を美術館にする計画が持ち上がり、二〇一三年にアーツ前橋が開業しました。翌年には、年間を通してアーティストが滞在できる竪町たつまちスタジオが開設。市街地の真ん中に空きビルがあると町の空洞化につながる、と問題になった時期が、県庁所在地で唯一ない美術館を設立しよう、という機運が盛り上がった時期とちょうど重なりました。社会に対する批評を含む現代美術の展示は、百貨店の面影を残しつつリノベーションした空間にマッチします。同美術館の開館目的の一つは、アートと日常生活が出合う体験で地元を再発見する機会を提供することで、開館前の二〇一一年から、滞在制作や市民が参加できるイベントに力を入れてきました。
 二〇二三年には、アーツ前橋から徒歩三分の昔映画館があった広場に、複合施設「まえばしガレリア」が誕生しました。樹木をイメージした四階建ての白いビルは、植物が壁面を覆うように緑化していきます。歩道に向けて開いた中庭を囲む建物には住居とレストラン、現代アートのギャラリーが入りました。国内外で活躍するアーティストの作品を扱うタカ・イシイギャラリーの石井孝之代表は、『美術手帖』二〇二三年五月七日配信記事で、出店理由の一つに、アーツ前橋と白井屋しろいやホテルが徒歩圏内にある魅力を挙げています。

起業家の挑戦から始まった

 白井屋ホテルの建物は、前橋が絹産業で栄えた三〇〇年以上前から二〇〇八(平成二〇)年まで営業していた白井屋旅館でした。「EXPO2025大阪・関西万博」の大屋根リングを設計した建築家、藤本壮介さんがリノベし、二〇二〇(令和二)年にホテルとして開業しています。館内のあちこちに有名アーティストの作品を展示し、一部の客室をアーティストがデザインしたアートホテルに蘇らせたのは、眼鏡チェーン「JINS」の代表・田中ひとしさんです。なぜ田中さんは、専門外だったホテルの経営を始めたのでしょうか。
『AERA』(朝日新聞出版)二〇二四年八月五日号「現代の肖像」によると、田中さんは一九六三(昭和三八)年、前橋市の生まれ。二五歳で雑貨会社を設立、その後韓国で格安メガネと出合い、企画から販売まで手掛けるJINS一号店を二〇〇一年に福岡・天神で開業しています。
 白井屋旅館がマンションに建て替わる噂が立っていた二〇一〇年代初頭、田中さんの元に買収話が持ち込まれます。一〇社近いコンサルタント企業に事業提案したもののすべて断られ、自分で買い取る決断をしたのは、モナコで開催された起業家を表彰する大会に出席した際、欧米の起業家が社会貢献を当然とする姿勢に感銘を受けていたからでした。田中さんは、細やかな配慮が行き届く設計で兄の家を建てた藤本さんに依頼し、世界に類を見ないホテルを構想します。
 Uターンする若者が増えていた地元に、可能性を見出した田中さん。私財を投じて前橋中心部の空き物件を次々取得し、アートと食をテーマにリノベを推進するほか、田中仁財団を設立して起業家の発掘や育成事業も始めました。また、二〇一七年には地元の企業家に声をかけて民間主導の町づくりを支援する「太陽の会」を設立。私が広瀬川で見た「太陽の鐘」の誘致や、白井屋ホテル北側に面する馬場川ばばつがわ通り遊歩道の整備は、太陽の会が行いました。白井屋ホテルの馬場川通り側は、利根川の土手をイメージした壁面に草が生え、洞穴のような入口からブルーボトルコーヒーなどの飲食店に入ることができますし、吹き抜けの通路から幹線道路へも抜けられます。
『スーモジャーナル』二〇二五年一一月一〇日配信記事によると、前橋市も中心商店街の活性化に尽力しています。前橋市職員の担当者が開業したい人と空き物件のオーナーを取り結び、二〇二五年七月までの四年間で、ホッピースタンド、民泊施設、ギャラリー、コーヒースタンド、クラフトジン蒸留所など四七店もが新たに誕生しました。

移住者が多い青梅

 東京都の多摩地域にあり、自然豊かな青梅おうめ市は、人気の移住先です。地価が安いうえ都心へも通勤圏。JR中央線快速直通の青梅線には二〇二五(令和七)年三月のダイヤ改正でグリーン車が本格導入され、座って通勤できるようになりました。青梅市は少子高齢化を食い止めようと、市内に住宅を買う移住者に最大一〇〇万円の支援金を払う、子育て世代を対象に移住体験イベントを開くなどしています。その成果か、二〇二三年度は家族で転入した二五~四九歳の男性のうち四六人、女性は八二人がUターンで、女性の流出に悩む自治体が多い中、青梅にUターンする女性は男性の二倍近くもいます。
 なぜ青梅が選ばれるのでしょうか。二〇二五年四月に青梅を訪れた私は、在住者五人に話を聞き、町を歩いてきました。集まってもらった会場は、元玩具店を改装し二〇一七(平成二九)年に開業したゲストハウス「青龍せいりゅうkibakoきばこ」。経営者の小幡正浩さんは六六歳の元公務員。宿泊施設をつくろうと各地を探し、この物件に出合って移住しました。「新しい人をなかなか受け入れない側面もありますが、祭りが盛んで、郷土愛が強い」と土地柄について話します。トレッキング目的の宿泊客が多く、半数以上を外国人が占めるそうです。
 江戸川区出身の大野裕子ゆうこさんは四二歳で、一〇代の息子三人がいます。一四年前に夫の実家がある奥多摩に近く交通が便利な青梅へ移住し、夫の希望で三年前に農業を始めました。鮮魚店や書店、青梅駅前のスーパーも閉店したため、買いものには車移動が不可欠。「別の町にある畑からの帰り道に、車でスーパーへ寄って買いものをしています。青梅へ来るまで私は、ペーパードライバーでした」と言います。実家のマンションでは、同じフロアにも知り合いができないまま育った大野さんが、青梅では「子どもたちの成長を、近所のおじいちゃんも見守ってくれる」と語ると、生まれも育ちも、栄養士として働く病院も青梅、という五二歳のSさんが、買いもの先で店員と会話するのは日常だと言います。Sさんは結婚した際、新居を探した不動産店で「青梅の人は青梅に引っ越す」と言われたそうです。
 福岡県出身で通訳や美術に携わる三六歳、ノートンあきさんも「移住者に優しい」と話し、夫でアメリカ・ミルウォーキー出身、四〇歳の日本画家のコール・ノートンさんは、「個人経営の店が多い点が魅力」と言います。コールさんは青梅の寺でも何度か個展を開いたそうで、晶さんが「文化に理解がある住職が多く、例えば宗建寺ではジャズライブを開く。アメリカから客が来ると、お寺へ連れていき住職と一緒にお茶を飲むので喜ばれます」と補足します。二人がアメリカから二〇一七年に移住したのは、コールさんの水墨画の師匠が住んでいたからです。ヤマユリやカタクリの花が咲き、ウグイスや蛍、ニホンカモシカも見かける環境で、アメリカから来る客は「楽園に住んでいる」と感動するそうです。
 江戸時代の宿場町で織物産地だった青梅も、アートと親和性が高い町。明治後期に生産組合設立も相まって本格化した木綿織物の寝具生産が日本一となり、高度経済成長期には集団就職の若者をたくさん迎えています。当時の駅前商店街は、人とすれ違うのも苦労するほどごった返し、映画館は三館もありました。しかし織物産業の衰退で一九六五年頃にすべて閉館。その後、近隣に大型スーパーが次々とできました。
 映画館が復活したのは二〇二一年です。経営者は青梅で育った菊池康弘さん。都心に出て俳優をしていましたが、二九歳になった二〇一一年に地元へ戻ると、青梅には飲食店も文化的な場も少ないと気づき、飲食業でアルバイトした経験を生かして焼き鳥店を始めます。シニアの常連客から「五〇年ぐらい前は、周辺の町から青梅まで映画を観に来た。また青梅で観たい」と聞いた菊池さんは、かつて映画館があったことに驚いたと言います。「じゃあ、僕がつくりますよ」と答えたところから、映画館復活への道のりが始まりました。
 町を盛り上げる次の目標ができた菊池さんは、当時、青梅市のタウンマネージャーをしていた國廣くにひろ純子さんに、いい場所がないかと相談します。國廣さんは、青梅織物工業協同組合が所有する旧都立繊維試験場の建物を提案。青梅の歴史を伝える一九三五(昭和一〇)年建造の建物群は、アートプログラム青梅のメンバーの働きかけがきっかけとなり、青梅織物工業協同組合と國廣さんが尽力し、国の登録有形文化財になっていました。國廣さんが同組合と菊池さんを引き合わせ、水色の壁が印象的な木造建築映画館「シネマネコ」として生まれ変わったのです。
 旧青梅街道沿いを歩いたところ、古い商店をリノベしたクラフトビールの店や家具店などが、蔵や町家が混じる町並みと共存していました。これらの新しい店の誕生にも、國廣さんが関わっています。街道沿いを走る青梅線の線路を挟んで山側に寺院が並び、参道の階段前ごとに踏切がある。近くに多摩川もあって坂が多い町の風景は、住宅街や新緑、花の見え方がダイナミックに変わり飽きませんでした。
 そんな青梅市から結婚して隣接する羽村はむら市へ移った人から、「軽い認知症のある母親も、道端で休んでいると近所の人が家に連れ帰ってくれる」と聞いたこともあります。こうした、緩やかに人と人がつながっている安心感が、青梅市にUターンする女性を増やしているのではないでしょうか。
 興味深いのは、アートや映画といった文化を町の活性化に結びつける前橋市と青梅市が、いずれも近代日本を支えた絹産業で繁栄した時代があることです。経済的豊かさは文化的豊かさへつながっていくのでしょうか。最終回の次回は、城下町の例からその深層に迫ってみたいと思います。

イラストレーション=こんどう・しず

阿古真理

あこ・まり●作家・生活史研究家。
1968年兵庫県生まれ。神戸女学院大学文学部卒業。女性の生き方や家族、食、暮らしをテーマに執筆する。近著に『家事は大変って気づきましたか?』『大胆推理! ケンミン食のなぜ』『おいしい食の流行史』『ラクしておいしい令和のごはん革命』『日本の台所とキッチン一〇〇年物語』『日本の肉じゃが 世界の肉じゃが』等。

『何が食べたいの、日本人? 平成・令和食ブーム総ざらい』

阿古真理 著

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定価880円(税込)

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