[連載]
[第9回] 都心商店街のリノベーション

大阪の長屋を再生させた人たち
二〇〇〇年前後、関西や東京で古い建物を転用して生かす「リノベーション」を試みる商店街が注目されました。商店街は歩行者が主役。散歩を楽しむ、買いものする、飲食店に入るなど、ウォーカブルというテーマにぴったりの舞台です。そこで今回は、来街者を集める商店街に再生した大阪・東京の例に焦点を当て、歩いて楽しい町について考えてみたいと思います。
「リノベーション」(以下、リノベ)とは、老朽化した建物を改修する際、より使いやすく快適にアップデートさせること。一〇年ほど前からブームになり定着した背景には、経済の低迷により中古住宅の需要が増えたことや、スクラップ&ビルドの開発が続くことに疑問を抱く人、歴史を積み重ねたものに意義や愛着を覚える人が増えたことがあるように思います。
この言葉を広めたのは、設計施工・不動産業・コンサルティングなどを行う大阪市のアートアンドクラフトです。創業者で建築家の中谷ノボルさんは一九九〇年代初め、新築マンションでの新婚生活に違和感を覚え、長屋に転居します。長屋とは、複数の住戸が壁で仕切られて連なる集合住宅で、現代風に言えばテラスハウス。中谷さんは『大阪新・長屋暮らしのすすめ』(橋爪紳也編、創元社、二〇〇四年)に寄せたエッセイで、手作業でリノベした自宅の、長い年月に耐えてきた木の床の感触や漆喰壁の質感で五感が研ぎ澄まされ、町とつながった感覚を持てる距離感にハマったと書いています。一九九九(平成一一)年に引き受けた
空堀は大阪メトロの谷町六丁目駅周辺で、繁華街の難波や天王寺に近い住宅街です。秀吉が築城した大坂城の外堀で、水を張らなかったことからその名がつきました。一九八九(平成元)年に空堀商店街へ設計事務所を移転させた建築家の
からほり倶楽部のエポックになった仕事が、二〇〇二年開業の複合施設「
他にも大阪では、梅田近くの中崎町や天王寺に隣接する昭和町、東大阪市などに残る長屋で、不動産業者や大学の建築研究会などがリノベを試み、町を活気づけています。
リアル昭和の長屋暮らし
長屋は平安時代から続く都市の庶民向け集合住宅で、人口が増えるにつれ、日当たりや風通しが悪く安普請の裏長屋も増えていきます。大阪市では、近代になり産業発展で急増する人口の受け皿として大量に建設されたため、サラリーマンなどの中流層も含め、市民のほとんどが長屋住まいになりました。建築に関わる法整備が進み、日本建築協会の競技設計や欧米の潮流に刺激され、建物の質も上がっていきます。そうした事情があるため、近代大阪の長屋は二階建てが中心で、一戸の床面積が六〇~九〇平方メートルと一般的な長屋より広めで、採光・通風にも配慮しています。独立した門を設けて塀で囲う邸宅風、植木や生垣を
私の夫は一九六五(昭和四〇)年、大阪市南部の田辺で生まれ、小学校を卒業するまで三軒長屋で暮らしました。夫と義父から聞いた、昭和の長屋暮らしに迫ってみましょう。
一九三二(昭和七)年生まれの義父が、父親と二人の姉に連れられ宮崎県から大阪市へ出たのは六歳のとき。その後父親は失踪し、姉二人と幼い義父は二年後、田辺に新築された長屋に落ち着きます。玄関はコンロ置き場と流しがある三畳の台所とセットで、奥に六畳二間の和室とトイレ、二階にも二間の和室。猫の額ほどの庭が、玄関横とトイレの隣にありました。「秋になると前庭に七輪を持ち出してサンマを焼くので、どの家がサンマを夕食にするのかすぐわかった。隣の家の夫婦ゲンカも丸聞こえ」の一方、料理を隣近所に差し入れする、足りない調味料を分けてもらう日常で、「和気あいあいと暮らした」と義父は振り返ります。
結婚後も義父は空襲を免れた家で暮らし、二人の息子を得ました。私の夫は子どもの頃、近所の駒川商店街で書店やスーパーを一人でぶらぶらして楽しんでいたので、引っ越し先のニュータウンでは行く場所がなく困った、と話します。夫は大阪へ行くついでに生家を見に立ち寄ったり、グーグルマップで確認することがあるのですが、築八六年の今も現役で使われているようです。
大阪の長屋に、多くの人が魅了されるのはなぜでしょう。人々の喜びや悲しみ、悔しさ、家族や近所の人たちのつき合い……。くり広げられた営みの名残が、効率優先の社会に生きる孤独な現代人を安心させるのかもしれません。
守られ続けて四〇年、谷中の商店街
大阪の空堀の話と似た展開が、東京・上野に近い
寺町の谷中は、東京大学や東京藝術大学が近いこともあり、幸田露伴や朝倉文夫などの文化人が住んだ町です。千駄木にも森鷗外の旧居跡に記念館があり、夏目漱石も住んでいました。根津には徳川家と縁が深い根津神社があります。いずれの町も、関東大震災や空襲を奇跡的に免れました。
一九八四(昭和五九)年に同書の著者、森まゆみさんは、育った谷中の趣がある古い住宅が壊され、駐車場や新建材の安アパートに替わる状況に危機感を覚え、せめて歴史を記録しよう、と仲間と雑誌を創刊しました(二〇〇九年に終刊)。ネットワークが広がった森さんはその後、東京駅などの伝統建築物の保存運動にもかかわります。
『谷根千』の始動は、メディアが個人商店や労働者が集まる都会の町を「下町」として注目した時期と重なり、三つの町に観光客が訪れるようになります。私が初めて行った一九九〇年代末頃には、谷中銀座商店街は観光客向けの店が目立っていました。しかし、谷中を管轄する台東区は、火事の延焼を防ぐため道路幅を拡張し建物の高さ制限なども決め、町並みを守ろうとしています。
住民主体の町を守る活動も盛んで、古い建物のリノベも続いています。象徴的な再生が、上野公園から谷中へ向かう入口にあるランドマーク的存在の木造二階建て、「カヤバ珈琲」の例です。一九一六(大正五)年に
同店の再生に尽力し管理者となったのが、NPO法人たいとう歴史都市研究会。現理事長の
私も上野の美術館へ行った後、あるいは谷根千へ遊びに行く際に、カヤバ珈琲へ寄ることがあります。古い建物に流れるゆったりした時間に癒やされるのか、セカセカしがちな私がのんびりくつろげるのです。
東京の問屋街活性化の仕掛け人
東京の東側には谷根千の他にも、
一九六八(昭和四三)年生まれの馬場さんは、大学の建築学科に在学中にパートナーが妊娠、学生結婚をして建築コンペで生活費を稼ぎます。卒業後は大手広告代理店に就職し、世界都市博覧会のプロデューサーになりますが、当時の青島幸男都知事の一声で中止に。すると、このプロジェクトの必要性に、もともと疑問を抱いていた自分に気づいた馬場さん。四年後の一九九九(平成一一)年に訪れたアメリカで、使い手がセルフビルドで古い建物をリノベし活用する現場に答えを見つけました。帰国後の二〇〇三年、日本橋裏手の空き倉庫・駐車場の二階建てビルをリノベし、事務所を移転させます。ペンキを塗ったビルの周りに人通りが増え、馬場さんの「町のリノベーション」が本格的に動き出しました。
同じ頃、留学先のドイツのワイマールで、若者が古い工場をアートイベントの会場に転用する現場に居合わせたのが、本連載の第5回と第6回に登場した水辺総研の岩本
CETの活用が呼び水となり、馬喰町の空きビルには二〇〇七年頃からアートギャラリーやオフィスが、二〇〇九年にカフェ「フクモリ」が誕生。商店が増えるにつれ住人も増加しました。繊維問屋街だったこの町に二〇一一年までファッションデザイン事務所を構えていた私の叔母は、「このあたりに気の利いた店はない」と言っていたのに、その後は若者が遊びに行く町に育っていきます。
進化を止めない東京のブルックリン
私が変化に驚いた東側の町には、「東京のブルックリン」と呼ばれるようになった蔵前があります。この町も二〇〇〇年代まではカフェなどがほとんどなく、蔵前の出版社に出向いた際の打ち合わせ場所は、いつもデニーズでした。
江戸幕府の米蔵があったことから名がついた町には、近くの
論文「なぜ東京の新たな文化発信地に『蔵前』はなったのか」(吉田豊、二〇二四年)によると、飛躍の原動力は手仕事の町だったことです。蔵前を管轄する台東区は、職人が高齢化する危機感から廃校になった小学校を活用し、ファッション分野のクリエイターを支援する「台東デザイナーズビレッジ」を二〇〇四(平成一六)年に設立。七年後、この施設の卒業生や地元の職人らが参加する、学校の文化祭のようなイベント「モノマチ」が始まります。古参の人たちが、新たに商売を始める人や若者を応援する気風が育ち、二〇二〇(令和二)年には蔵前商店街という商店会まで生まれました。
蔵前が注目を集めたきっかけは、二〇一〇年にオリジナルのペンやノートをつくれる文具店「カキモリ」ができたこと。二年後には元おもちゃ会社の倉庫で、ホステル兼カフェバー「Nui.」が開業。都営浅草線の蔵前駅は羽田空港と成田空港への直通電車が停まる利便性もあり、外国人観光客が宿泊するようになります。そして二〇一六年、サンフランシスコ発祥の「ダンデライオン・チョコレート」が海外初出店。倉庫を改装し、製造販売すると人気店になりました。
二〇二五年一一月の小春日和の週末、私は蔵前の近くに住む若い編集者の友人を誘って蔵前散歩に行きました。外国人を含む大勢の来街者が散策し、ビル街に点在する店を楽しんでいます。まず、彼女がよく行く独立系書店の透明書店をのぞき、雑貨店などに行った後、カフェ利用者で混雑するダンデライオン・チョコレートの店で、ホットチョコレートをテイクアウトしました。出店して約一〇年も経つのに週末の行列が続くのはすごいです。谷中でも二〇一五年に三軒並んだ古民家をリノベした「上野桜木あたり」に誕生したパン屋に週末、行列ができます。人気店がメディアやSNSで紹介され人を集め続けるのは、町がリノベで更新を続けていることにも要因がありそうです。
マスキングテープ専門店では、買いものをしなかったのに蔵前マップをいただき、巾着袋を買った雑貨店ではおすすめのカフェを教えてもらいました。店の人たちが親切で気軽に話ができるのは、助け合いの気風が色濃い個人商店中心の町だからでしょう。私が蔵前へ遊びに行くのは二、三年に一度ですが、行くたびに店が増え、独自のセンスが光る雑貨店が多く驚きます。蔵前で買った草木染のスカーフも、革をアクセントに使った旅行カバンも友人に褒められました。代官山や青山といった東京を代表するおしゃれな町でも、銀座や新宿などでも、こんなに尖った魅力的な商品はなかなか見つからない。数百年に及ぶモノづくりの伝統を途切れさせなかったことも、独自の発想を生む要因ではないでしょうか。
今回ご紹介した町はいずれも、狭くて家賃が安い物件が集まり自己資金が少ない挑戦者を呼び込んできた点が共通しています。土地の権利関係が複雑で大規模再開発ができなかった結果、小さなリノベーションが連鎖的に広がり、町の特色を引き継ぐ形で活性化しました。大資本が町をのみ込み均質化しつつある時代だからこそ、現存の建物というハードや人というソフトの財産を生かし、固有の歴史を再生させる町に人が集まるのではないでしょうか。
イラストレーション=こんどう・しず
阿古真理
あこ・まり●作家・生活史研究家。
1968年兵庫県生まれ。神戸女学院大学文学部卒業。女性の生き方や家族、食、暮らしをテーマに執筆する。近著に『家事は大変って気づきましたか?』『大胆推理! ケンミン食のなぜ』『おいしい食の流行史』『ラクしておいしい令和のごはん革命』『日本の台所とキッチン一〇〇年物語』『日本の肉じゃが 世界の肉じゃが』等。





