[今月のエッセイ]
罹患と免疫
もしも自分たちがあの頃別れていたら、っていう世界線で書きなよ。
『デクリネゾン』は元配偶者の、この珍妙な提案によって書き始めた小説だった。最初の離婚危機の時に別れていたら、どうなっていたか。なんでそんな提案をしたのか私にはよく分からなかったし、なんとなく気色悪くも感じて、「え、なんで?」的な反応を最初はした気がする。離婚したいと私が主張していたから、書けばガス抜きになるとでも思ったのかもしれないし、離婚間近の夫婦のうち一人が小説家なのだから普通に必然だと思ったのかもしれない。書き上げた後も、単行本になった後も、文庫になろうとしている今もよく分からない。そしてこれは元配偶者が私の小説にした最後のアドバイスになった。
そんな珍妙な提案に乗ったのは、今あるものに縛られていなかったら、自分はどんな世界にいたのか、その景色を見てみたくもあったからだ。思い立ったら立ったで連載開始直後にコロナが始まって、悩んだ挙句コロナの設定もほとんど現実の移り変わりと同様に盛り込んでいくことにした。この予想だにしなかったというか予想などしようもなかった変遷は、この小説のテーマでもある偶然性を象徴する要素の一つにもなった気がしている。
離婚していた世界線と、ご飯とコロナ。という三本軸で転がり始めたこの小説では、とにかく人がよく話す。小説から飛沫が飛んでくるのではと思うくらいだ。対立することもあれば、どうしたらいいだろうと話し合うことも。一緒に暮らす暮らさない、何食べるどこにいく、あの映画はあの作家がどうのこうの、この肉が
この小説を書くことは、彫刻刀で木を削り続けることに似ていた。主人公の思考、登場人物たち、人間関係、過去と現在と未来への希望と絶望、コロナ禍、料理やその湯気までも、彼らのテーブルの上や、ベッドの上に漂う雰囲気までも、書き続けることによって浮き彫りにし続けたような、そんな行為だった気がする。
この本に出てくる人々、特に主人公の
彼女は多くの人から嫌われる人だ。でも空気を読み世間に迎合し常識的に生きることができない彼女には、そういう生き方ができない言葉にはし難い理由がある。その不安定さ、先の読めなさは出自も目的もこれからの挙動も誰にも分からないウイルスのようなものに近いと言えるだろう。でも、本来人なんてそんなもんなのかもしれないと、私は漠然とそう思う。言葉にできる諸々は、現代を司るこのルールの中でプリフィクス的に定められているものでしかなくて、個々の生き物がそんな整合性の取れた出自とか目的とか手段とか希望を持てるわけがない。そう考えた方が、腑に落ちるのだ。
原子は曲がる。小説内に出てくる仮説にも、私はこの腑に落ちる感覚を抱いた。この言葉にし難い偶然性を盛り込んだからこそ、彫刻刀で彫り続けている手探り感があったのかもしれない。
複数人で長時間お酒を飲み美味しいご飯を食べ夢中になって話をしたあと、人と混ざり合った部分と混ざり合いたくないと思った部分と混ざり合いたいけど混ざり合えないと思ったところとが熱を持って自らの存在を主張しているような、ベッドに入ったあとも誰かの言葉が蘇ったり頭に渦巻いたりしてほんのりと温かくなったりすっと冷たくなったりして覚醒してしまうような、そういう誰かとの食事によって静かに体内で化学変化が起こる様子を、文庫のゲラを読み返しながらいつの間にか想像していた。ご飯を食べながらお喋りをして誰かの飛沫を浴びたり、誰かの飛沫を浴びた何かを口にして、何かに罹患したり、何かへの免疫を得たりする、この本がそういう誰かとの食事のような場になればいいなと、
金原ひとみ
かねはら・ひとみ●作家。
1983年東京都生まれ。2003年『蛇にピアス』で第27回すばる文学賞を受賞しデビュー。04年、同作で第130回芥川賞受賞。著書に『マザーズ』(Bunkamuraドゥマゴ文学賞)『アタラクシア』(渡辺淳一文学賞)『アンソーシャル ディスタンス』(谷崎潤一郎賞)『ミーツ・ザ・ワールド』(柴田錬三郎賞)『YABUNONAKAーヤブノナカー』(毎日出版文化賞)等多数。





