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阿古真理『ウォーカブルでいこう!』
[第5回]水辺の先進都市 広島

[連載]

[第5回]水辺の先進都市 広島

広島市を流れる六本の川

 前回、東京と大阪の水辺活性化の取り組みをご紹介しましたが、川沿いなどの水辺を活用する試みは、全国に広がっています。その先進的な町の一つが広島市です。私は母が広島県の出身だったので、子どもの頃は毎年夏、家族で母の実家へ向かう際、あわせて広島市内に住む伯母の家にも滞在しました。伯母が住んでいた段原だんばらは市の中心部にある丘、比治山ひじやまの東側の地区で、丘が壁になって原爆の被害が少なかったため、戦前の町並みが残っていました。市内の移動は主に路面電車を使いますが、自転車と同じぐらいのスピードなので、散歩する気分で車窓の風景を楽しめます。何度も川を渡るため、「広島市は川の町」という印象が強く残りました。
 ある年の八月六日の夜、「とうろう流し」に連れて行ってもらいました。原爆ドームのそばの川辺で、中にろうそくを灯したカラフルな紙が貼られた灯籠とうろうを流します。灯籠が暗い水面に映え、妖しげに、切なく輝いていたのをよく覚えています。あの頃夢中で読んだ、幼い兄妹と不思議な椅子の交流を通して広島の原爆投下の悲劇を描いた児童文学『ふたりのイーダ』(松谷みよ子、講談社、一九六九年)に、「七つの川が死人で埋まったと」と被爆時を描写するくだりがあります。しかし私が通った一九七〇年代、広島市中心部を流れる川は六本でした。川が七本から六本に減ったことがやがて、広島市をウォーカブルな川辺の町へと変えていきました。

リバーサイドカフェが出現した!

 二〇一九(令和元)年春、久しぶりにこの町を訪ねた折、グーグルマップで見つけた京橋川の河川敷にある紅茶専門店で休みました。大きな窓のすぐ向こうが京橋川で、ゆったりした気分になれます。周りを見渡すと、いつからそうなったのか、河岸緑地にテラスなどを広げた飲食店が集まっていたことから、二〇〇二(平成一四)年に取材した市民団体の「カフェテラス倶楽部」の話を思い出しました。
 二〇〇〇年代初頭、公園や川辺、ギャラリーなどでゲリラ的に開く「1日カフェ」の活動が、各地の都市でくり広げられていました。「公共空間をもっと自由に使いたい」と発足した「カフェテラス倶楽部」も担い手の一つ。一般社団法人空の下おもてなし工房代表理事の山﨑学さんが、その活動を『都市を編集する川―広島・太田川のまちづくり―』(中村良夫企画・構想、北村眞一・岡田一天・田中尚人著、溪水社、二〇一九年)のコラムで紹介しています。
 同書によると、京橋川河岸緑地のカフェは、カフェテラス倶楽部と広島県建築士会広島支部まちづくり委員会が共同で行う社会実験として、ホテルフレックス前の河岸緑地で一九九九年一一月から月に一度開いたのが最初です。二〇〇〇年九月には、地元町内会が中心となった実行委員会の委託を受け、ホテルフレックスとホテルJALシティ広島(現ザ ロイヤルパークホテル 広島リバーサイド)が年に約二カ月のカフェ営業を開始。二〇〇四年三月に河川法の河川敷地占用許可準則の特例措置で、一定の条件を満たした民間事業者の営業ができることになり、同年七月から両ホテルがそれぞれ常設のカフェを河岸緑地に開きます。当時のホテルフレックス社長はカフェテラス倶楽部立ち上げ時からの会員で、常設カフェの営業を熱望していたそうです。翌年一〇月には広島市の主導で京橋川「水辺のオープンカフェ」の社会実験が始まり、水辺のカフェ文化が定着していきました。

太田川と共に歩んできた

 広島に町ができたのは、一五八九(天正一七)年に中国山地を源とする太田川が分岐したデルタ(三角州)に毛利輝元が築城を始めてからです。デルタは、太田川上流域の土がもともと崩れやすいうえ、中世には上流域で「たたら製鉄」が行われていたことで生まれました。製鉄の原料となる砂鉄を、土砂を川の水ですすぐ「鉄穴かんな流し」でより分けるため、その都度河口に大量の土砂が流れ込みます。町がたびたび水害に見舞われるため、これ以上土砂を堆積させないよう、一六二八(寛永五)年に鉄穴流しは禁じられました。
 しかしその後も水害は起こり続けます。一九三四(昭和九)年、地元からの熱い要望を受け、国が市街地を流れる七本の川のうち西側の二本を統合し、洪水を制御する太田川放水路の工事を始めました。第二次世界大戦中の中断を経て、完成したのは三四年後のことでした。現在は西から太田川放水路、天満てんま川、本川ほんかわ(旧太田川)、元安川、京橋川、猿猴えんこう川の六本が広島市街地を流れています。
 一般社団法人建設コンサルタンツ協会のレポート「インフラ整備70年 戦後の代表的な100プロジェクト~Vol.6~」は、もし放水路を造らなければ、それぞれの川に高い堤防を造る必要があったとしています。中でも本川では最大約二・九メートルの堤防のかさ上げが必要になっていたとし、「放水路なしに水に親しむまちづくりは考えられなかった」と説明しています。広島市が全国に先駆け、ウォーカブルな水辺の町に発展したポイントは四つ考えられますが、太田川放水路の誕生は、その一つ目と言えます。
 江戸時代から舟運が盛んだった広島市の川には、物資を荷揚げする階段つきの桟橋「雁木がんぎ」があちこちに設けられています。河口近くは潮の干満で水面が上下するものの、階段があればいつでも荷卸しできるからです。上流の山林から材木をいかだに組んで下流まで運ぶ、小舟で運搬する生活物資を受け取るなど、雁木は人々の生活に密着していました。
 河口ではシジミが獲れたほか、元禄・享保年間(一六八八~一七三六年)頃から牡蠣かきや海苔の養殖が行われています。映画化されて大ヒットしたマンガ『この世界の片隅に(上)』(こうの史代、双葉社、二〇〇八年)でも、冒頭に主人公のすずが海辺の町、江波えばから川舟に乗せてもらって中島本町へ海苔を届ける場面が出てきます。すずは海苔養殖をする家の娘で小学生、一九三四(昭和九)年のエピソードです。一九四五年八月六日、原爆が投下されることになる爆心地に近い中島本町は当時、軍都だった広島市を代表する繁華街で、戦後は平和記念公園がつくられました。
 広島市が掲げた復興都市計画には、一〇〇メートルも幅がある平和大通り・中央公園・中島公園(現平和記念公園)の建設、そして河岸緑地の整備が含まれていました。財源不足によりいったん計画から消えた河岸緑地の整備は、市長らがGHQや国会に訴えて一九四九(昭和二四)年に国会を通過し、住民投票で成立しました。これが二つ目のポイントです。戦災前には民家や飲食店でにぎわっていた川辺を、復興に際して憩いの場に変えたインパクトは大きく、広島市が水辺に親しむ町へ発展する基礎になりました。
 三つ目のポイントは、陸上交通がメインになった戦後、忘れられていった雁木の再活用です。一九八六(昭和六一)年、水辺の景色を楽しめる場として、雁木の階段の下段部に張り出しを設けた最初の河岸テラスが、平和記念公園前の元安川に造られました。一九九六(平成八)年までに、河岸テラスは元安川に四カ所追加され、天満川にも一カ所できました。
 四つ目のポイントは、上記三つの試みのうえに成り立ったと言えますが、川辺にあまり転落防止柵を設けなかったことです。柵は人を守る一方、川に近づくことを阻む側面もあります。
 先述の『都市を編集する川』によると、護岸の傷みが激しかった本川の基町もとまち沿いを、一九七九(昭和五四)年から一九八三年にかけて工事した際、大事にしたのは市民にとって平和都市の象徴である本川のイメージを守ることでした。
 基町の近くには大本営を置いた広島城があり、軍都時代は軍関連施設が建ち並んでいました。原爆でこの地域は壊滅的な被害を受け、戦後になって木造平屋の市営住宅が建てられたものの、需要にとうてい追いつかず、本川河川敷に不法住宅が密集し、たびたび火災が発生。広島市が再開発で高層市営アパート群を建設したのち、護岸修理が行われました。
 修理に先立つ調査で、基町の水辺には近づきにくいイメージを持たれていることがわかりました。そこで樹木を植える、階段を設ける、芝生の斜面を緩やかにカーブさせるといった、居心地をよくする工夫を行います。そして、転落防止柵を設ける代わりに高さ六〇センチほどの低木を植えました。河岸テラスが五つある元安川にも、ほとんど柵はありません。

「水の都」化プロジェクトが始動

 元安川の河岸テラスは、観光客が集まる原爆ドームと対岸の平和記念公園の周囲に集中しています。『都市を編集する川』によれば、戦後に原爆ドームと呼ばれるようになった建物は、「川に顔を向けた近代街づくりの第一号」と言われているそうです。建物は一九一五(大正四)年、広島県物産陳列館として生まれ、原爆投下時は広島県産業奨励館でした。その建物を残したことが、この町の方向性を決定づけたのかもしれません。今は、原爆ドームと向かい合う平和記念公園の北側に設置された元安川親水テラスで毎年八月六日の夜、慰霊のとうろう流しが行われています。
 一九九〇年代には、日本人の間に公共にかかわる意識が育ち始めます。ボランティアは特殊な人々の活動と思われがちだったのに、一九九五(平成七)年の阪神淡路大震災では数多くのボランティアが被災地に集まり、三年後のNPO法誕生につながりました。
 また、一九九七年には河川法が改正され、目的に「河川環境の整備と保全」も加わりました。きっかけの一つが、長良川河口ぜき問題です。長良川河口堰は、治水と利水の二つの目的で一九六八(昭和四三)年に基本計画が決定し、一九九五(平成七)年に完成しました。洪水を防ぐべく川を掘り下げるのですが、川底が深くなると今度は海水が遡上そじょうしやすくなるため、河口に堰を建設し防ぎます。重工業の発展で水需要も大きく拡大すると予想されていたのですが、産業構造の変化や企業の節水の取り組みで、利水の見込みは外れました。当初、反対運動は河口の環境が変わることを懸念した地元漁業関係者と一部の市民らが展開していましたが、一九八〇年代末頃には全国に広がりました。
 自称「日本一水辺が好きな建築家」であり、ミズベリング・プロジェクトのディレクターで水辺総研代表の岩本唯史ただしさんは、水辺活用への大きな一歩となった河川法の改正について、「国交省には現場で利害調整をするため、地元の人たちとひざを突き合わせて対話する伝統があります。長良川河口堰問題でも、地元と対話してきた職員がいましたが、その中から『法改正が必要』と動いた方々がいた、と伝え聞いています」と説明します。
 時代の変化を受けて、広島市は二〇〇三(平成一五)年、官民連携で水辺を活用する「水の都ひろしま」構想を策定します。このことが、先に紹介したオープンカフェの常設化につながりました。
 構想には、二〇〇二年に小泉純一郎政権が創設した構造改革特区制度も貢献しています。改革の目的は、時代に合わなくなった国の規制を取り除き、創意工夫に富んだ経済活動を促し雇用を創出すること。水辺については河川敷地占用許可準則を緩和したことで、民間事業者が河川敷で営利活動ができるようになりました。この際、水辺を活用したのは広島市のほか、前回ご紹介した大阪市、そしてオープンカフェや遊歩道などを整備した名古屋市堀川の例があります。
 これらの成果を受けて二〇一一(平成二三)年に河川敷地占用許可準則は改正され、二年後に河川協力団体制度ができて、官民一体の「ミズベリング・プロジェクト」が活動を開始しました。同プロジェクトは、全国の水辺の取り組みを取材した記事をウェブサイトで連載する、年に一度、「ミズベリング・インスパイア・フォーラム」を開催するなど、水辺を活用する各地の取り組みを伝え、応援しています。

規制緩和で変わった水辺

 川はひとたび洪水が起これば大きな被害が出ますし、水の事故もあります。被害防止に取り組む河川管理者を地方自治体、と定めた旧河川法が制定されたのは一八九六(明治二九)年。しかし、その後も水害はたびたび起きましたし、ダム建設といった総合的な河川の開発は、地方自治体だけでは行えません。一九六五(昭和四〇)年に新たに施行された河川法では、重要な河川は国が直轄して管理することが定められました。
 水辺を活用したい市民が増加したことを受けて、河川法が改正され、準則が改正されたものの、すぐに各地で水辺の利用が活発になったわけではありませんでした。まず国土交通省の若手職員たちが、河川空間の有効活用に向けて動き始めました。広報として、ソーシャルコンテンツプロデューサーで広報企画会社スコップの代表、山名清隆さんを迎えて始めたのが、先述のミズベリング・プロジェクトです。
 ミズベリング・プロジェクトのプロデューサーになった山名さんらが最初に行ったのは、関係者同士のコミュニケーションを促すことでした。ミズベリング・プロジェクトには、国土交通省の職員や都市計画、デザイン、情報などさまざまな分野の専門家が所属しています。メンバーは毎週会議を開き意見交換をしてきました。「自分の言葉で話し、創造する意欲をつくることが大事です。自分たちが一人の生活者であることをシェアしよう、と本題に入る前にこの一週間で面白かった話をお互いにする。職業上の役割分担の垣根を越え、フラットに会話を続けていくと、だんだん自由な発想が生まれてきます」と山名さんは説明します。
 日本では、公共の空間で活動することに制約を感じる傾向がとても大きいです。ミズベリングの活動も、そうした先入観を取り払うことから始める必要がありました。その一環として二〇一五(平成二七)年に始まったのが、七月七日午後七時七分、全国各地の水辺に人が集まり「水辺で乾杯」する活動です。二〇二五年には北海道から鹿児島県まで、二八二カ所で実施されました。山名さんは、こうした小さな活動が非常に大事だと言います。
「七月七日は梅雨どきで、実は雨が多い。主催者は下見をして、天気予報を見て、雨が降りそうなら実施するかどうか、他の地域の動きも確認しながら一生懸命考えます。自然環境や時間帯、アルコールを飲む行為を含めて、どうしたら皆が安心して楽しめるのか配慮する。迷いつつも主体的に決める経験が、市民感覚を育てていく。そうした活動が水辺を楽しむきっかけをつくるだけでなく、防災意識を育てることにもつながります」
 ミズベリングの活動は今、全国に広がっています。水辺でカフェを開く、マルシェやコンサートといったイベントを開くなどの他、ボードの上に立ってパドルで漕ぐサップや、カヌーなど川に入るアクティビティを行う人たちもいます。私は二〇代の頃、仲間と川辺や琵琶湖のほとりなどで、キャンプやバーベキューを楽しみました。子どもの頃は母の実家近くを流れる筒賀川で大人が見守る中、泳ぎました。水辺にいると、自然に抱かれる安心感と開放感の両方が味わえます。人を惹きつける水辺は、ウォーカブルな町づくりを進めるにあたり、重要なポイントになる可能性を秘めています。水辺を楽しんでいるうちに、よりアクティブに町を使いこなすアイデアが育っていくかもしれません。

イラストレーション=こんどう・しず

阿古真理

あこ・まり●作家・生活史研究家。
1968年兵庫県生まれ。神戸女学院大学文学部卒業。女性の生き方や家族、食、暮らしをテーマに執筆する。近著に『家事は大変って気づきましたか?』『大胆推理! ケンミン食のなぜ』『おいしい食の流行史』『ラクしておいしい令和のごはん革命』『日本の台所とキッチン一〇〇年物語』『日本の肉じゃが 世界の肉じゃが』等。

『何が食べたいの、日本人? 平成・令和食ブーム総ざらい』

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