[今月のエッセイ]
頭の中に無数の部屋が
私の頭の中には無数の部屋がある。執筆中の小説の登場人物が住んでいる部屋だ。小説を書く時はその部屋を訪れ、何度も話を聞く。よく喋る人もいれば、寡黙な人もいる。ドアに鍵をかける人もいる。勝手に出ていく人もいる。基本的にみんなこっちの言うことは聞かない。
彼らの話を聞くのに疲れると、私はいつもSNSを開く。
SNSが好きだ。時折とんでもない悪意にぶつかることもあるが、それでもやっぱり。いろんな人が好き勝手に喋っている。読みながら「そうだよね」とうなずいたり、「なんでだよ」と笑ってしまったりする。
SNSの中では、X(旧Twitter)を最もよく見ている。いつも誰かがなにかの議論をしている。ある家事が手抜きか否かという議論がある。食器洗浄乾燥機は手抜きか否か、そうめんは手抜きか否か、おそうざいを買うのは手抜きか否か。
私の意見は「どれもすべて手抜きではない」だが、かりに手抜きであったとして一体なにが悪いのか。すくなくとも赤の他人に責められる理由はない。そうだろう諸君。諸君諸君! そう言いたくて、家事にまつわるエッセイを書きはじめた。西日本新聞の紙面にて、全五十回の連載だった。
時短テクニックやお得な裏ワザ等ではなく、四季折々の暮らしを楽しむ素敵なエッセイでもなく、ぬるくゆるく家事の話ができたらいいと思っていた。「めんどうだけどやらないともっとめんどうだし、やるしかないよねー」ぐらいのテンションで。
私は結婚して十数年、毎日ひとりで家事をやってきた。書くネタには困らないはずだ。そう思っていたのに、十回分ぐらい書いたところで早々に尽きた。心の底からの「うそ!? !?」という声が出た。
家事にたいするこだわりも熱意もないくせに家事について語ろうとしたがゆえの悲劇である。自分の見通しの甘さが憎い。ヒイヒイ言いながらなんとか五十回分を書き上げた時、もうエッセイなんてコリゴリだ~と半ベソ顔で思った。にもかかわらず、私はその後まもなく集英社の文芸ステーションにてエッセイの連載を、しかも自分から「エッセイやれます! やらせてください!」とか言い出して、はじめてしまうのである。なにがしたいのか。
新聞連載の途中から家事にこだわるのはやめて生活全般のことを書くことにしたので多少はテーマが広がったものの、普段の生活があまりにも地味で単調すぎるがゆえにやはりネタには困り続けた。頭の中には小説の登場人物の部屋はあるが、エッセイ用の自分の部屋がなかったのだった。
「ねえ、なんか書くことない? そのへんに落ちてない? 引き出しの奥とかに紛れこんでない?」と
このたびようやく一冊の本にまとまり、今はまだ「もうエッセイなんて(以下略)」という気分だが、しばらくしたらまた書きたくなってしまう気がする。
寺地はるな
てらち・はるな●作家。
1977年佐賀県生まれ。2014年「ビオレタ」で第4回ポプラ社小説新人賞を受賞し、翌年デビュー。著書に『大人は泣かないと思っていた』『夜が暗いとはかぎらない』『水を縫う』(河合隼雄物語賞)『ほたるいしマジカルランド(大阪ほんま本大賞)』『川のほとりに立つ者は』『こまどりたちが歌うなら』等多数。