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人生を語り得るのは、だれ?
〈あなたは人生がいつ始まるのか知らなかった〉という冒頭近くの一節が、のちのちまで響く小説だ。誰しも親から命を授けられ、生はスタートする。しかし自らの覚悟で未来を切り拓くときにようやく、真の人生は始まる。
幼少期から優等生、親の敷いたレールに反発もせず医者となり、父の医院を継いだターレクは、三〇歳を過ぎて結婚した際も成りゆき任せで無難な選択肢を選んだにすぎなかった。しかしある出会いが彼の日常を一変させる。スラム地区に住む美青年のアリーとの邂逅だ。
アリーは重病の母の診察をターレクに求め、以降なんどか家を訪問することに。一九歳のアリーは聡明だが、どこかやさぐれた雰囲気が漂う。不意に知ってしまったアリーの稼業とは男娼、つまり街の男たちとのドライな性交渉だ。
ここで物語の舞台と時代背景が大きな意味を持つ。一九四九年にエジプトのカイロで生まれたターレクは、シリア・ヨルダン・レバノンなどの「レヴァント」と呼ばれる地域にルーツを持つ、東方キリスト教を信仰する上流階級の出身だ。一九八〇年代のエジプトで同性愛は禁忌以外の何ものでもない。イスラームのアリーに惹かれ、その恋に溺れることなど、階級的にも社会的身分上も宗教観からももっとも遠ざけるべき事柄であるはずなのに、欲望は理性を凌駕していく。
その意味で本作は、あまたの障壁を越えねばならない男性二人によるメロドラマの要素が強い。アリーは挑発的で、簡単に御すことのできない他者ゆえに、愛は揺らぐ。ターレクはこうして
メロドラマであると同時に、ターレクを「あなた」と呼び続ける語り手の存在や、時間を行き来する緻密な語りの構成によって、サスペンスも生まれる。時代に翻弄され、噓に惑わされたターレクの人生を、誰がどこから語っているのか。〈僕はあなたの人生について書くのをやめる〉。そしてまた別の人生の始まりを、読者は物語の最後で見届けることになるだろう。埋めこまれた謎が美しくきらめく、工芸品のような一作だ。
江南亜美子
えなみ・あみこ●書評家・京都芸術大学准教授