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巻頭エッセイ/本文を読む

小池真理子『ウロボロスの環』
時間は廻る

[巻頭エッセイ]

時間は廻る

 もともと、長編小説を書くのは好きだった。成功したかどうかは別にして、呆れるほど長い小説を書いたことも少なくないし、長いからといって、途中で息切れしたという記憶も特にはない。
 中でも好きなのが、書き下ろし。締切がないので、気分が乗らなければ休めるし、そうでなければ一気呵成に書くことができる。常に全体を俯瞰できる。自分のペースで少しずつ正確に前に進んでいける。
 その書き下ろしで書いた最新作が、二〇二一年の『神よ憐れみたまえ』(新潮社)であった。十年がかりだった。構想時に父を、執筆途中で母、脱稿直後に夫をそれぞれ見送った。その意味でも、忘れられない作品のひとつになった。
『神よ~』を書き始めてまもなくのこと。集英社「小説すばる」誌での長編連載を依頼された。そのころ、まだ夫は元気だった。
 書き下ろしを完成させたら、すぐ取りかかるので、少し待っていてほしい、と頼んだ。担当編集者たちと会うたびに、同じことを繰り返し伝えた。実際、そのつもりであった。
 そのころはまだ、私の中に、書くための充分なスタミナが残されていた。長年書いてきて、書き続けていくためのリズムは完全に把握していたし、特に不安はなかった。
 だが、やがて、思ってもみなかった夫の病が判明することになる。闘病生活が始まった。病状は厳しいものだった。彼の死は、日々刻々、残酷なほど正確に近づいてきた。生活が一変した。
 青息吐息になりながらも、書き下ろしだけはなんとか完成させることができたが、その先はもう、無理だった。お手上げだった。あとが続かなかった。新連載に着手するための体力、気力は完全に失われてしまった。
 夫の死後、ほぼ同時に新型コロナパンデミックに見舞われた。人と会えなくなった。新作の構想どころか、それまで私の中を悠々と流れていたはずの時間は完全に止まってしまった。先が見えなくなった。
 長編小説は執筆そのものはもちろんだが、構想の段階で、入念な準備を必要とする。中途半端なままスタートさせたら、必ず失敗する。目もあてられなくなる。
 頭の中に物語が何も浮かんでこない日々が続いた。体調も悪かった。焦りというよりも、絶望感に近い、半ば投げやりな気分に襲われた。
 喪失体験のダメージが思っていた以上にひどく、もう長編は書けなくなったのかもしれない、と思った。辛抱強く待ってくれている担当編集者たちに、暗い顔をしながら謝罪している自分を何度も想像した。
 別に意地があったわけでもなく、大仰な覚悟を決めたわけでもない。まして、作家として云々、といった、よくある精神論を前に自分を奮い立たせたわけでもない。何もしなかった。
 本当に何もしなかったし、できなかったのだが、ある日ある時から、少しずつ自然に、作品の全体像……あえて言えば、作品を覆う薄い皮膜のようなものが見えてきた。そんなものが見えてきたからといって、すぐに物語が生まれるはずもないのだが、長編はもう書けなくなった、などと弱気になっていた私にとって、それは思わず取りすがりたくなる僥倖ぎょうこうだった。
 といっても、何も小難しいものが見えたのではない。単に、「心理小説」を書きたい、今はそれが一番いい、と強く思っただけのことに過ぎない。
 十七、八世紀以降、主にフランスを中心に誕生し、文学の中核を担ってきた感のある心理小説。物語の流れそのものよりも、人間の心の動きにこそ焦点をあてた作品。若いころから好んで読んできたジャンルだった。
 室内劇のように、少ない登場人物のまま、あえて舞台も替えない。彼らの心の推移を丹念に追っていき、その複雑な絡み合いの中に、テーマが浮き彫りにされる。
 風呂敷を拡げるだけ拡げながら、壮大な物語に挑戦するのではなく、特に取材や資料も必要としない。必要なのは作者の心と観察眼だけ。そのころの、心身ともに弱っていた自分にはまさにうってつけではないか、と思った。
 かくして、辿り着いた二〇二三年春。『ウロボロスの環』の連載が開始された。
 連載は丸二年間続いた。そして、完成させてみれば、何という偶然の一致か、本作は『神よ憐れみたまえ』とまったく同じ原稿枚数、千百枚。活字に組んでみれば、これまたまったく同じ五七〇ページという、まことに不思議な結果になった。

 ウロボロス、というのは、古代エジプト文明の時代から言い伝えられてきた、まぼろしの蛇(龍とも言われる)である。自分の尾をくわえ、自身を飲み込み、滋養にしながら、再生し続ける。したがって、永遠の象徴として扱われ、縁起のよいものとも考えられている。
 ぐるぐると同じところを廻りながら生き続けるため、そこには始まりも終わりもない。頭の部分が始まりなのではなく、尾の部分が終わりなのでもない。その逆でもない。生命の果てしない連環があるばかり。
 いくつかの大きな喪失を体験したことにより、若いころから私の中にあった「時間」に対する感じ方が次第にはっきりしてきた。「時間」はまっすぐな直線として過ぎていくのではなく、ウロボロスのように連環しているものではないのか、と思うようになった。
 連環しているからこそ、私たちの記憶は時に鮮やかに甦る。大昔の記憶も、死んだ人と過ごした時間も、いいことも悪いことも何もかも。
 人生を時系列に捉えれば、不幸と悲劇はいつまでも消えない。過去はいつまでも過去でしかない。振り返ってみることしかできない。
 だが、実は時間には始まりも終わりもなくて、不幸も哀しみも喜びも、よくも悪くもないまま、ただ淡々と大きな環を描きながら、廻り続けているだけなのではないのか。私たちはそこに身を委ねながら生きていて、ふだんはそのことに気づかずにいるだけではないのか。
 そう感じたことが、本作のテーマに繫がった。

小池真理子

こいけ・まりこ●作家。
1952年東京都生まれ。成蹊大学文学部卒。1989年「妻の女友達」で日本推理作家協会賞(短編および連作短編集部門)を受賞。以後、95年『恋』で直木三十五賞、98年『欲望』で島清恋愛文学賞、2006年『虹の彼方』で柴田錬三郎賞、11年『無花果の森』で芸術選奨文部科学大臣賞、13年『沈黙のひと』で吉川英治文学賞、21年に日本ミステリー文学大賞を受賞。そのほか、『無伴奏』『瑠璃の海』『望みは何と訊かれたら』『神よ憐れみたまえ』など著書多数。

『ウロボロスの環』

小池真理子 著

単行本・10月24日発売

定価2,750円(税込)

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