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阿古真理『ウォーカブルでいこう!』
[第3回]中央線沿線のウォーカブルな試み

[連載]

[第3回]中央線沿線のウォーカブルな試み

吉祥寺の「赤い椅子プロジェクト」

 東京のJR山手線の西側で、長年「住みたい街」ランキング上位をキープする町が吉祥寺です。百貨店や家電量販店などの大型店から、個人経営の雑貨店や飲食店、書店、生鮮食料品店まで一通りそろい、井の頭公園にはボートが浮かぶ池もある。週末は来街者でごった返す吉祥寺には、町歩きをする人々のための「赤い椅子プロジェクト」という試みがあります。
「町のあちこちに椅子が置いてあり、メッセージが書いてある。何だろうこれは、とすごく気になって一つずつ見ていたんです」と振り返るのは、その後プロジェクトメンバーに加わった一人、小松由美さん。第二次世界大戦後の闇市から発展した人気スポットのハーモニカ横丁で育ち、ハーモニカ横丁朝日通り商店会会長で、吉祥寺東部地区街づくり協議会会長も務める生粋の「吉祥人」です。彼女が言う通り、形やサイズは不ぞろいながら赤く塗られた椅子にはそれぞれ、結婚したときに実家から持ってきた、中学校の技術の授業でつくった、学習塾で使っていた……といった、提供者の思いがこもるメッセージが書いてあります。中心メンバーの一級建築士、加藤研介さんに案内されながら歩くと、雑貨店、不動産会社など、吉祥寺のそこここの店先に赤い椅子がちょこんと置かれています。
 プロジェクトの始まりは二〇一三年、吉祥寺を「住んで楽しい街」にする企画を募った「第1回吉祥寺コミュニティデザイン大賞」で、大賞を取ったこと。主催者は、普及し始めたばかりのビデオを使い一九七七(昭和五二)年に有線テレビ放送を始めるなど、ハーモニカ横丁を拠点に新しい試みをしてきた、ビデオインフォメーションセンター(VIC)の手塚一郎社長です。
 赤い椅子プロジェクトの概要について、加藤さんは「中古の椅子をお譲りいただいて、例えば子どもたちを集めて公園などで赤い色を塗り、椅子が使われてきたストーリーをお聞きしステッカーに書いて貼る。運命の赤い糸ならぬ赤い椅子で、さりげなく町と人を結びつけたい。赤は景色に溶け込みやすく、かつ遠くから見ても視認性があります」と説明します。事前にフィールドワークをしたところ、何人かの高齢者から「吉祥寺には座って休める場所がなくて困る」との声があり、プロジェクトチームは適宜動かせて扱いやすい椅子を町に置いてはどうかと発案したそうです。
 加藤さんは吉祥寺駅の北側にある成蹊せいけい学園出身。中高生のときは西武新宿線の武蔵関むさしせき駅から通い、「いつか吉祥寺で仕事をしたい」と心に誓っていたそうです。二〇一三年当時は小田急小田原線沿線の狛江こまえ市在住で自身の事務所は新宿、吉祥寺の商店街に知り合いはいませんでした。加藤さんはプロジェクト開始後、念願の吉祥寺に事務所を移転させます。
 最初の椅子は小田原の知人に譲ってもらったそうです。置き場所については吉祥寺の店を一軒一軒当たったのですが、意図を理解してもらえず断わられる日々が続きます。やがて吉祥寺活性化協議会の会長と知り合い、二〇一三年秋から一年以上、月に一度の会議でプロジェクトを説明する時間をもらいました。すると、人気深夜ドラマ「孤独のグルメ」にも登場した老舗飲食店「カヤシマ」の前と、アトレ吉祥寺に椅子を置かせてもらえることになったのです。人通りが多いアトレ内に赤い椅子が並ぶ光景は目を引き、置き場所も譲られる椅子も増えていきました。
 自宅で使っていた椅子を提供したことをきっかけに、メンバーに加わった平野亜紀子さんは、団地などの集合住宅や町づくりに関わるサポーターで二級建築士。仕事で関わってきた団地でも、「シニアの皆さんは、外を歩いてアクティブに暮らしたいが、座るところがなくて困っている」という課題を感じてきました。「比較的椅子やベンチが多い武蔵野市でも、まだまだ足りないと感じていたので、赤い椅子プロジェクトの発想はすごいと思いました」と、二〇一三年の大賞発表当時を振り返ります。
 二〇二五年六月末時点で集めた椅子は、合計一〇七脚。「お譲りくださる理由は個々に違うのですが、引っ越しなど荷物を処分しないといけないときに、粗大ごみで出すのは忍びない。そういえば活用してくれる団体がある、と思い出す例が多い」と加藤さんは説明します。ときどき置かれている場所をパトロールし、状態が悪い椅子のメンテナンスも行っているそうです。任意の町づくり活動団体にもかかわらず、椅子を置いた後のフォローもきちんと続けているからこそ、赤い椅子プロジェクトは一〇年を超えて続いているのかもしれない、と話を聞いて思いました。
 赤い椅子プロジェクトは、二〇一九年に始動した新潟市金津地区の「地域で見守りプロジェクト ぴいす金津」が設置するオレンジ色の「見守りの椅子」、高齢者が気軽に町を歩けるように、と同じ年に始まった阿佐谷の「ふらり赤い椅子」に広がっています。このように、椅子やベンチを置く取り組みは、高齢者や子どもを守るために始まることがありますが、立場が弱い人を思いやる試みは、やがてもっと幅広い層の人たちを守り、包み込んでいく活動につながっていく可能性を秘めているのではないでしょうか。

「住みたい街」までの道のり

 この町が人気になったきっかけは、一九七三(昭和四八)年に発売されたフォーク歌手の斉藤哲夫のアルバム「バイバイ グッドバイ サラバイ」に収録された、その名も「吉祥寺」という曲と、一九七五年から翌年にかけて放送された中村雅俊主演の連続ドラマ「俺たちの旅」(日テレ系)の舞台になったことと言われています。一九六〇~一九七〇年代、ライブハウスやジャズ喫茶が次々に誕生した影響もあるでしょう。そして、より幅広い層の来街者を呼び込めるベースをつくったのは今から約半世紀前、都市計画で町を整備したことでした。
 一九六〇年代、吉祥寺駅周辺の都市計画構想が本格化します。高度経済成長で吉祥寺駅の乗降客数も急激に伸びていた当時は道路が狭かったため、交通渋滞が慢性化し、車が多い中買いものをする人も事故の危険にさらされがちでした。交通を整理して歩行者の安全を守り、人口増に対応するには、ロータリーがある駅前広場、広い幹線道路、ビルの高層化が必要。しかし、『吉祥寺 横丁の逆襲』(桑原才介、言視舎、二〇一一年)によると、商店街の人たちは、高名な建築家に出してもらった計画にも、武蔵野市長の提案にも、「商店街を分断する」と猛反対したのです。彼らが町の個性を守りたい、と全国を視察し、百貨店をそれぞれ分散して誘致する形に落ち着いたことが、町の発展につながりました。
 まず一九六九年に、駅高架下ビルのロンロン(現アトレ)が開業。一九七一年にはF&Fショッピングセンターに伊勢丹が入って開業したのですが、二〇一〇(平成二二)年に伊勢丹は撤退し、現在は複合商業施設「コピス吉祥寺」となっています。この都市計画で一九七一年に開通した吉祥寺大通りに面し、一九七四年に開業したのが東京近鉄百貨店。しかし二〇〇一年に閉店し、その後変遷を経て二〇〇七年にヨドバシカメラが入りました。東急百貨店は吉祥寺名店会館のビル跡地で一九七四年に開業し、現在も営業しています。つまり、ロンロンは南、伊勢丹は北、近鉄が東、東急が西の核となるよう配置し、間の商店街にアーケードを設けるなどして専門店ゾーンにした結果、町に回遊性が生まれ、人の行き来が活発になりました。
 もちろん、誘致した百貨店のうち二店が撤退したことからわかるように、吉祥寺の発展にも紆余曲折があります。
 例えばハーモニカ横丁は、一九九〇年代にはドラッグストアなどのチェーン店が進出する一方、古い個人商店は代替わりや経営難で減少し衰退していました。再生のきっかけをつくったのが、吉祥寺コミュニティデザイン大賞を主催したVICの手塚社長です。手塚さんは好奇心から一九九八年一月、ビデオ店の二階にカウンター席を設けたおしゃれな「ハモニカキッチン」の営業を開始し、二〇〇〇年代になると、横丁で次々と新しい飲食店を開いていきました。その頃から、横丁には手づくりアクセサリー店、南米雑貨専門店、犬用のケーキ店といった個性的な店もできて注目を集め始めます。

昔は人がほとんど住んでいなかった吉祥寺

 吉祥寺は中世まで、「牟礼野むれの」あるいは「札野ふだの」と呼ばれる荒地に過ぎませんでした。将軍家の鷹狩りの地だったうえ、関東ローム層と呼ばれる火山灰土が厚く積もってできた土壌は農業に適さず、人はあまり住んでいなかったのです。
 ところが、一六五三(承応二)年頃に江戸の市街地拡大に対応すべく、現在の羽村はむら市から四谷よつやまで武蔵野台地を横断する玉川上水が開発され状況が変わりました。折しも、四年後の「明暦の大火」で江戸の町がほぼ全焼。神田駿河台にあった吉祥寺の門前町も罹災し、翌年の火災で寺も焼失したことから、寺は駒込に移転し、門前町に住んでいた人々は幕府の指示で武蔵野のこの地域に移住しました。そして被災者たちが開拓した農村は、「吉祥寺」と呼ばれるようになったのです。
 関東大震災の発災後は、都心からの移住者が急増しました。前後して、学校も次々と都心から移転しています。例えば成蹊学園は、一九二四(大正一三)年に池袋から移りました。現在は西武国分寺線の鷹の台駅が最寄りの武蔵野美術大学も、一九二九(昭和四)年の創立から一九六九(昭和四四)年に移転が完了するまで、吉祥寺にありました。大学が多いことも、沿線に文化的な町が形成される要因になったようです。
 昭和になると、陸軍飛行場が立川にあったことも影響し、横河電機製作所、中島飛行機武蔵野製作所といった軍需産業が吉祥寺に集まり、隣の三鷹にも続々と工場が開設されます。一九三四(昭和九)年に全線開業した京王井の頭線の終点にもなり、武蔵野町(現武蔵野市)の人口は一九三七年から四年間で倍増しました。

昭和初期、すでに人気だった荻窪

 関東大震災をきっかけに人口が増えたのは、吉祥寺以東の中央線沿線も同じでした。発災前年の一九二二(大正一一)年に西荻窪駅、阿佐ケ谷駅、高円寺駅ができていたからです。一八九一(明治二四)年に開業していた荻窪駅の近くへ、一九二七(昭和二)年に早稲田から転居してきたのが小説家の井伏鱒二です。井伏の自伝的作品『荻窪風土記』(新潮文庫、一九八七年)には、近辺に住む文学者などの思い出が綴られています。井伏は文学青年が集まる「阿佐ヶ谷将棋会」に所属しており、メンバーには沿線の三鷹に住んでいた太宰治もいました。自由が丘もそうでしたが、民主主義が「運動」の対象だった二〇世紀初頭、自主独立の精神を持つ作家たちの中には、一定の地域に集まって住み、文化村を築く人たちがいました。中央線沿線の町も、そんな土地の一つだったのです。
 明治時代から中央線の駅があった荻窪は、武蔵野の面影が色濃く残り、もともとセレブの別荘地として人気でした。この町の知名度を高めたのが、昭和初期に三度首相を務め、荻窪駅南側にある荻外荘てきがいそうに住んでいた近衞文麿です。この邸宅は、一九四一年一〇月に対米開戦について話し合い、第三次近衞内閣が退陣するきっかけとなる「荻外荘会談」が開かれ、一九四五年一二月、GHQから戦犯容疑で出頭命令を受けていた近衞が自害、戦後に吉田茂が間借りし与党復帰の構想を練る、など何度も歴史の舞台になりました。
 呼吸器系が弱かった近衞は、健康相談をしていた内科医、入澤達吉から一九三七(昭和一二)年にこの家を譲り受けたそうです。入澤は、大正天皇の侍医頭じいのかみを務めた人でした。『文化財シリーズ46 国指定史跡 荻外荘』(杉並区教育委員会編・発行、二〇一七年)に、都心の家は来客が多いが荻窪なら「だれも来ないだろう」、と引っ越したのに、逆に「せっかく荻窪くんだりまで来たんだからと客が何時間も腰をすえるようになった」、という次男の近衞通隆みちたかによる回想が紹介されています。
 杉並区は、地域の要望を受けて二〇一四(平成二六)年、荻窪の敷地と残っていた建物を取得しました。二年後に国の史跡に指定されてから、一九六〇(昭和三五)年に豊島区に移築されていた建物も取得して復原工事を行い、二〇二四(令和六)年一二月に一般公開を開始。すぐに人気となり、私が訪ねた二〇二五年三月の週末も、一時入場が制限されるほど混雑していました。七月には建築家の隈研吾設計による、カフェも含む展示棟が新設されたので、ますますにぎわっていきそうです。
 荻外荘の復原で来街者が増える見込みについて、住民には期待と不安が両方ありました。そこで区と住民、事業者が一緒にプラン集『荻窪の歴史・まち・人を想う15の提案』を二〇二〇年三月に作成。その中に、安心して町歩きができるよう、個人宅の庭先や商店の前に自由に座れる休憩スペースを増やす提案も含まれていました。

杉並区のベンチプロジェクト

 杉並区内のこうした住民の声が明確に表れたのが、二〇二四(令和六)年七月、岸本聡子区長が旗を振る区民参加型の予算モデル事業として採用されたベンチプロジェクトです。岸本区長の著書『杉並は止まらない』(地平社、二〇二四年)によると、区民投票で選ばれたのはベンチを置く三つの事業で、そのうち二つは公園に置くベンチなどの提案。残る一つが「歩行者が気軽に利用できる木製ベンチをまちなかに広める」ものでした。民間事業者や地域団体、区民が私有地にベンチを設置し、一台につき最大五万円までを区が補助します。その際必要な条件が、国産木材を使用したベンチ・椅子であり、購入は交付決定後に行う、申請者などが適切に管理する、設置場所の地権者の同意が得られている、という四点です。事業を管轄する杉並区都市整備部の担当者は、「福祉やコミュニティ活性化の意味もあって、提案を募集しました。ベンチを設置することで安心して歩ける環境を整備し、来街者を受け入れる機運を醸成することや、商店街や地域の活性化を期待しています」と話します。
 二〇二四年八月、記念すべき第一号のベンチが、京王井の頭線久我山くがやま駅近くの住宅街に置かれました。設置した医師の夫妻は、「昔に比べ、都内に無料で休める場所が少なくなったと感じ、事業に応募」(『東京新聞TOKYO Web』二〇二四年九月八日配信記事)したそうです。同年一一月時点で、新たに設置されたベンチは合計六台。二つ目以降はJR中央線荻窪駅北側、JR中央線西荻窪駅南側、JR中央線高円寺駅南側、京王本線・井の頭線明大前駅北側、京王井の頭線永福町駅北側の住宅街に置かれ、わずか四カ月で区内各地に点在する形となりました。区の担当者によると、一一月時点で予想を上回る二〇件以上もの相談があったそうです。
 近年、全国各地の自治体が、ウォーカブルな町づくりを目的に、ベンチや椅子を町なかに置く取り組みを始めています。地元住民が気軽に町に出る、来街者が長く滞在するのを促すベンチや椅子。やがては誰かが休み、誰かがそこでおしゃべりをする空間がある町が珍しくなくなり、人と人の交流がより活発になる時代が戻ってくるかもしれません。

イラストレーション=こんどう・しず

阿古真理

あこ・まり●作家・生活史研究家。
1968年兵庫県生まれ。神戸女学院大学文学部卒業。女性の生き方や家族、食、暮らしをテーマに、ルポを執筆。近著に『家事は大変って気づきましたか?』『大胆推理! ケンミン食のなぜ』『おいしい食の流行史』『ラクしておいしい令和のごはん革命』『日本の台所とキッチン一〇〇年物語』『日本の肉じゃが 世界の肉じゃが』等。

『何が食べたいの、日本人? 平成・令和食ブーム総ざらい』

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