[特集インタビュー]
人間のはみ出している部分に
すごく魅力を感じるんです
「あなたのファンだ」と名乗る主婦から、あなたと生前の姉の姿形が瓜二つなのを理由に、その姉の伝記小説を依頼された新人作家・律に降りかかる顚末を描いた『みがわり』、クリーニング屋で引き取りに来ない服〈はぐれんぼちゃん〉たちに興味を持った女性店員が、持ち主を訪ねていくことになる不思議譚『はぐれんぼう』、中古のマンションを手に入れた小説家の生活が、前の住人家族にじわじわと侵食されていく『前の家族』……。
この数年、青山七恵さんは奇妙な同居人や隣人との関わりから物語が動き出す作品を発表してきました。風変わりな設定がグリップになって、ぐいぐいと読者を物語世界へと誘う最新刊『記念日』も、青山さんらしさがにじむ長編です。
世代の違う女性三人がそれぞれ語り手となる三章で構成された本作には、どんな展開が待っているのでしょうか。
聞き手・構成=三浦天紗子/撮影=藤澤由加
二十代で書いた「年の差のある関係性」を
自分が中年になった立場で書いてみたい
── 『記念日』、楽しく拝読しました。非正規の図書館司書、ソメヤは任用終了まであと半年。そのタイミングで長く住み続けていたアパートの契約更新を拒否されてしまいます。家も職も失いかけている崖っぷちの四十二歳、ソメヤが飛びついたのは、いまの職場にほど近く、家賃などの条件もよかったルームシェア募集です。ソメヤは、マンションを祖父から譲り受けて現オーナーとなっている二十三歳のミナイとの同居を始めたものの、ミナイから課される細かな生活ルールのせいで居心地は最悪。ギクシャクしているふたりですが、ふとしたきっかけから息子と一軒家で暮らしている七十六歳の高齢女性、
ありがとうございます、汲み取ってくださって。まさしくそれも意識して書いていました。
── そうでしたか。『ひとり日和』では、いちばん若い、知寿の世代から見た「自分より上の人たちの生き方、考え方」が描かれていましたが、本書では、中心的視点人物は四十代のソメヤになっています。ソメヤは青山さんご自身と同世代になるわけですが……。
デビュー作の『窓の灯』と、その次の『ひとり日和』、どちらも二十歳ぐらいの若い女の子を主人公にしました。当時の自分と同じくらいの年頃の人間から見た、年上の女性の不可解さや感覚の違いを書いてみたかったのですが、わからなさの中に憧れもあったし、反発もあったし、そんなアンビバレントな思いを込めたように思います。若い時分は「これから年を重ねていけば、自分と同世代だけではなくて、中年も老年ももっとしっかり実感を持って書けるようになるはずだ」と思っていたのですけれども、いざ自分が四十代になってみると、今度は若い人たちのほうがよくわからない他者になっていました。経験した年月が増えたからと言って、必ずしも書ける人間の幅が広がるわけではないのだな、わからなさはずっと形を変えて繰り返されるものなんだなということに気づいたというか。ただ、二十代で書いた「年の差のある関係性」というものはやはり面白くて、いま一度、今度は自分が中年になった立場で書いてみたいと思ったのが今作の出発点でした。
── ミナイという女性は、ソメヤから見るとちょっとつかみどころがないというか、一日中家にいて仕事をしているのかしていないのかわからないし、渡された細かな生活ルールを〈お願い〉と
私自身も大学時代にルームシェアしたことがあるのですが、いま東京でルームシェアするとしたらどうやって探すんだろうと、シェア募集のサイトなどを見たりしました。本当にいろんな人がいて、赤の他人と暮らすことにあまり抵抗がない人はわりとたくさんいるのだな、一方でソメヤのように望んでいなくてもそこに身を置かざるを得ない状況に陥った人もいるのかもしれないなと。逃げ出したい状況から出発したふたりの関係がどんなふうに変わっていくのかは、書いていて手応えがありました。
── 最初は、青山さんがよくテーマにされている女性ふたりの物語かなと思いながら読んでいたんです。でも、乙部さんと息子のマサオが出てきてから、物語の色合いがどんどん変わっていきました。
最初はソメヤの一人称のみで書き進めていたんです。ただ、ソメヤの側からだけで書いていると、どうしてもミナイの不可解さが不可解なままになってしまう。担当さんからも「ミナイについてもっと知りたい」と言われたのと、老年期にある女性にも出てきてほしかったので、ああいうトライアングルができあがった気がします。ただ、乙部さんが一章分の語り手を務めるほどの存在になったのは、私にとっても想定外でした。途中からは、その三人をつなぐ共通項として、マサオが浮上してきました。そうした関係性の中で、〝接触〟というのもひとつのキーワードになると思っていたんです。ミナイはふだんはすごく他者との間に線を引ける人なのだけれども、衝動的にマサオに触ってみたりもするわけなんですね。ソメヤの指でミナイがおでこをぐるぐるされるあのシーンは、ミナイ自身がソメヤに触れたいし、触れられたいという気持ちを自覚する一つの儀式のようで、ミナイがすごく変わる場面だと思いました。
自分の願望や理想や思い込みを
できるだけ取り払って書くことを意識した
── また、本作では、自分の思いどおりにならない体や感覚、若いころには味わえない不快感みたいなものが、モチーフの一つになっています。
この作品を書き始めたのは三十六、七からでした。周囲からは三十代に入ると体にガタが来るよと言われていたのですが、実はあまりピンときていなかったんです。でも、執筆時期がちょうどコロナ禍で、三十代の終わりが三年くらいの巣ごもり状態とも重なったのが案外大きかったんですね。いま思うと、三十代半ばくらいまでは私の中に、とにかく音楽に乗って体を動かしたいとか大きな声で歌いたいとか、体を使って何かをしたい欲求が確かにありました。それがコロナ自粛から解放されていざ外に自由に出かけられるようになってみると、あり余るエネルギーや外の世界に対する前のめりな興味がすーっと薄れてしまっていた。「青年期が終わったんだ」という感じがしました。ソメヤが言う〈自分が貯金箱のなかでガチャガチャ振り回されているような感じ〉は、実は私も時々リアルに体感します。ミナイが不安がっているような、自分の体にしっくり来ていない感覚はあまりないんですけれど、彼女はちゃんと体について考えていて、そのせいでさらに迷走することに迷走しているような女性なので、私からすると未知の人で面白い。乙部さんは私の母親ぐらいの世代ですけれども、私が二十代の終わりから通っていたタップダンスの教室では七十代半ばでもすごく元気に踊っている生徒さんもいらしたし、反対に、いつもキャリーを使っていらっしゃるような体が弱い方も見かけたし、本当に人それぞれなんだなというのはわかってきました。いま読むと、『ひとり日和』の頃は、吟子さんを鉤カッコ付きの「おばあちゃん」として書いていたふしがあったなと。吟子さんはもう亡くなっていた自分の祖母から着想を得た人物ですが、いま思えば、できるだけ自分が知らなかった祖母の姿を書いているつもりだったけれど、多分にこうあってほしかった理想の祖母像を書いていた気がします。年を重ねて、老いのあり方も人それぞれだと悟っていく中で、今回は自分の中の願望や理想や思い込みをできるだけ取り払って、ひとりの人間として書けたらいいなというのは意識していました。
── ところで、〝家〟という空間に対する青山さんのまなざしというのが面白いですよね。家は住むという目的だけでなく、住んでいる人を守る面もあるし、その人の暮らし方を規定していく面もあるし、その人のありようにも影響してくるみたいな作品をお書きになっているなと思うんです。『私の家』でも自分から出て行った家に出戻ったり、家から追い出されたり、家とのいろいろな事情を持つ家族の話でしたし、この『記念日』でも、家がある/ないみたいなことに人生を左右される部分があって。そういう家と個人、家と自我の関係って、ものすごく大きな力を持っているというふうに青山さんは考えていらっしゃるのかなと感じているんです。
家の中というのはこの世で一番興味深い場所だと感じています。家の中に家族がいたり、夫婦がいたり、遠縁や同居人や赤の他人などいろいろな人が出たり入ったり。そう広くもない空間で人と人とが触れ合って、関係が変わったり終わったりするさまにとても興味があって、つい、どうやってこの人とこの人を一緒に暮らさせようかみたいなことを考えます。今回、ルームシェアさせる流れもそんなふうに始まったと思います。
── 後半で明かされる、マサオの意外なドラマもよかったです。最初は、高齢の母親に、図書館へ「ハリー・ポッター」シリーズを借りるお使いをさせるようなマサオを批判的に見ていたのですが、乙部家に起きた出来事がつまびらかにされていくにつれ、マサオへの印象も大きく変化しました。うるっとしますよね。
あの母子の造型については、私の個人的な忘れがたい記憶が影響しているかもしれません。小さいときに住んでいた家の近所に、会社が買い上げて社員家族を住まわせていた住宅地があって、その中に一軒だけ、単身住まいの中年男性がいたんです。他はほとんど家族で住んでいたので、子どもの私にとっては不思議な人、という認識でした。そこに彼の母親が越してくるらしいという話もあって、私から見れば、おじさんとおばあちゃんだけが住む家というものはさらに不思議だったんですが、おじさんもおばあさんも一人じゃないんだと妙にほっとした記憶があります。また、私の遠縁に、二階建ての一軒家で独居していたおばあちゃんがいて、遊びに行ったことがあったんです。そのとき彼女が「旅行したこともないので、二十年以上この家以外で目覚めたことがない」「十年以上、二階に上がったことがない」と言っていたことに驚きました。子供心に感じたよくわからない好奇心や安堵……そんなものがまだ残っていて、あの母子が出てきた気がします。ただ、それらのエピソードもはっきりと記憶しているわけではなくて。もしかすると、私がかなりの部分を捏造している気も大いにするのですが。
書きたいことの根本は
デビューの頃とあまり変わっていない
── 本作に出てくる人物たちはみな、社会的に見たらダメな人なのかもしれないし、ずるい人なのかもしれないですけど、ある個人にとってもそういう人間なのかは、また別の話だなと感じました。ただ、出てくる人、出てくる人こぞって厄介ですよね。
そうですね。厄介ですね、全員(笑)。
── もちろん常識的なところも優しいところもある人たちですが、呆れてしまう部分というのもミックスされていて、これぞ人間だなというリアリティーが生まれていますよね。青山さんにとって、そういう厄介な人たちを小説にするのは楽しい作業なんですか。
楽しいかどうかはおいておいて、やはり興味を引かれますよね。昔から矛盾したところにその人らしさや人間味が出るなと思っていて、誰しもにこうありたいという姿とそこからはみ出してしまう部分が混ざっている。特にそのはみ出している部分に私はすごく魅力を感じるんです。〝ちゃんとした〟二十代も四十代も七十代も、そんな人はどこにもいないと思うのですが、そういう人たちのいびつさや説明のつかなさを緻密に書きたいなという気持ちはずっとあります。生きていると絶対に、降り積もるものがきっとあって、厄介になってしまうものじゃないですか。人間を書こうとしたら、自然にそういうどうしようもなさを書くしかないのかもしれないです。
── 二〇二五年は、青山さんにとってデビュー二十周年ですよね。その間に小説家として変わらない部分、変わってきた部分……何か感じることはありますか。
気づいたら時間が経っていたというのが率直な感想です。夢中で書いて、後で振り返ってを繰り返して、いまあらためて思うのは、書きたいことの根本はデビューの頃とあまり変わっていないんだなと。家に人がいるとか、女の人がふたり出てくる、そんな場所で何かが起こる物語にずっと縛りつけられている。別のテーマを書くこともあるんですけれど、それが私のすごく深いところに織り込まれたお話の原型なんだなと感じます。実は小学校の、確か六歳か七歳のときに初めて書いたのが「ミミちゃんと私」というタイトルの童話。女の子がいて、そこにウサギのミミちゃんが家出してきて、一緒に暮らして、何日か後にミミちゃんが去っていくというお話でした。たぶんそれのせいだと思います。
── 転がり込んでくる他者が去っていくお話ですね。
そう。そこから三十何年たっても、ずっと変わっていないというのは、何かあきらめというか、お手上げというか。私はここが出発点で、何度でもここへ戻ってくるのだなと思いながら書いていくんでしょうね(笑)。
青山七恵
あおやま・ななえ●作家。
1983年埼玉県生まれ。筑波大学図書館情報専門学群卒業。2005年、「窓の灯」で文藝賞を受賞し、デビュー。07年「ひとり日和」で芥川賞、09年「かけら」で川端康成文学賞を最年少で受賞。現在、東海大学の文芸創作学科で教鞭を執っている。他の著書に『快楽』『めぐり糸』『繭』『ハッチとマーロウ』『ブルーハワイ』『私の家』『みがわり』『はぐれんぼう』『前の家族』等。