[連載]
[第10回]チェルフィッチュの「日本」
『三月の5日間』の衝撃
岡田利規の演劇ユニット(いわゆる「劇団」ではなく、プロジェクトごとにメンバーを替える形態を採っています)、チェルフィッチュが2004年に初演した『三月の5日間』は、多くの意味で、日本の現代演劇史においてエポックメイキングな作品だったと言えます。劇作と演出の岡田は、この作品で「演劇界の芥川賞」ともいわれる岸田國士戯曲賞を受賞しました。それから四半世紀、今や岡田は世界の舞台芸術シーンのトップランナーのひとりです。
なぜ岡田利規は、これほどの国際的な評価と成功を得ることが出来たのか? この問いを考えてみることは、本連載が積み上げてきた「日本文化の世界進出」をめぐるさまざまな論点をおさらいすることになるのではないかと思います。
『三月の5日間』は、こんな話です。2003年の3月、六本木のライブハウスでたまたま出会った若い男女が、そのままタクシーで渋谷まで行ってラブホテルに連泊し、5日後に名前も連絡先も告げないまま別れる。だがその間に海のはるか向こうの中東ではアメリカを中心とする多国籍軍(有志連合)がイラクへの爆撃を開始して、イラク戦争(第二次湾岸戦争)が始まっていた。この演劇は「渋谷のラブホ」と「(イラクでの)戦争」という2003年の「三月の5日間」に同時並行で存在していた二つの現実を徹底して対比的に描きながら進行していきます。また、この時期に東京でしばしば行われていた、いわゆる「サウンドデモ」(これは日本独特の呼称で、DJやミュージシャンが先導して音楽を流しながらデモをすること)の場面も何度か出てきます。
この舞台の初演は2004年2月で、物語が描いている時間から一年も経っていません。現在の感覚とは比較にならないほどイラク戦争は生々しいものでした。しかしこの作品の独自性は、ある意味で題材やテーマ以上に、その語り方にあります。この点にかんしては本論とはやや異なる文脈に属するので、詳しくは私が過去に書いた論考を参照してほしいのですが(*)、『三月の5日間』の台詞は、その大半が「伝聞」で出来ているのです。戯曲の冒頭の台詞はこうです。
男優1(観客に)それじゃ『三月の5日間』ってのをはじめようって思うんですけど、第一日目は、まずこれは去年の三月の話っていう設定でこれからやってこうって思ってるんですけど、朝起きたら、なんか、ミノベって男の話なんですけど、ホテルだったんですよ朝起きたら、なんでホテルにいるんだ俺とか思って、しかも隣にいる女が誰だよこいつ知らねえっていうのがいて、なんか寝てるよとか思って、っていう、でもすぐ思い出したんだけど「あ、昨日の夜そういえば」っていう、「あ、そうだ昨日の夜なんかすげえ酔っぱらって、ここ渋谷のラブホだ、思い出した」ってすぐ思い出してきたんですね、(『三月の5日間』)
『三月の5日間』の戯曲には登場人物の名前(「ミノベ」とか)が記されていません。「男優1」「女優1」などになっていて、俳優たちは「ミノベって男の話なんですけど」というように「ひとから聞いた話」として事の成り行き(=物語)を観客に語り、その中で(台詞の中の台詞として)名前を付された虚構の人物たちが語るという構造になっています。しかも、そうした伝聞はたとえば「ミノベの話を男優1が語る」というように一対一対応にはなっておらず、どんどん交換されていくのです。非常に複雑な話法=硬い言葉で言うとナラティヴを、この作品は有しているのですが、にもかかわらずややこしさは特に感じず、面白く観られてしまう。それは右の引用からもわかるようにたぶんに台詞の異様なくだけ方(「超リアル口語」などと呼ばれました)によるのですが、その点も本論とはあまり関係がありません。
なぜ、かくのごとき奇抜な語り方を岡田は選んだのか、そこには演劇のナラティヴをめぐるラディカルな思考があったのだと思いますが、それと同時に、この演劇が「他人事」についての物語である、という点も見逃せません。「ミノベって男の話なんですけど」は「イラクって国の話なんですけど」と同じことなのです。今まさに起きている出来事でありながら、その時自分たちは渋谷のラブホで延々セックスしている、ということ。しかしそれは単純な批判ではなく、むしろどうしたって「他人事」とされることを免れない、海の向こうで始まった沢山の人が死ぬ戦争を、いかにして描くのか、どうやったら描けるのか、という真摯で誠実な動機が、岡田にはあったのだと思います。
こんな台詞があります。
俺、神戸の地震あったとき高1だったんだけど、なんで俺こんなとこでうんこみたいな授業聞いてて、すごい俺、今、悪いことしてるんじゃないかってすごい思ってたの、すごい今、思い出してるんだけど、
俺イラク戦争あったとき二十五だったんだけど、俺なんでこんなラブホでうんこみたいな、セックスしてるんだろうってすごい思ってるんだけど、(同)
サウンドデモの場面は二人の男優によって演じられます。『三月の5日間』の戯曲の最初の一文(ト書き)は「舞台セットは要らない」で、実際照明の変化以外は何もありません。デモといっても二人がそぞろ歩きをするだけで、音楽も流れない。そんな中で男優のひとりがこんな台詞を言います。「この前すごい公園通りのほうとか行くとディズニーストアとかあるんですけど、この前店の前で、店の入口がガラス張りじゃないですか、そこの前に立って、イスラエルがアラブ人をすごい虐殺したっていう話があるんですけどその子供の死体とかの写真を店の中に見えるように持って店の中に見せるっていう、すごい顔とかがぐちゃぐちゃになってる、わーえぐいなーっていう写真なんですけど、しかも拡声器でなんか、良い子のみなさん、みなさんと同じくらいの歳の子供達がアラブではたくさんこんななってます、みたいなことをすごい聞こえる声で言うっていう、しかもえぐい写真付きっていう、それで店の人とか
『三月の5日間』は初演の翌年に岸田賞を受賞し、2006年に再演されました(私は初演はDVDの映像記録で観たので生で観劇したのはこの時が最初でした)。以来、国内外で何度も再演されており、2017年にはキャストをオーディションで選んだ若い俳優に一新し台詞の一部を書き換えたリクリエーション版も上演されました。今もって岡田利規=チェルフィッチュの代表作と言ってよいでしょう。しかし、この作品が登場した2000年代=ゼロ年代半ばの時点では、岡田の評価は日本国内に留まっていました。彼が世界に大きく羽ばたくきっかけとなったのは、『三月の5日間』から約5年半後に発表された『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』という作品です。
「ホットペッパー」は日本にしかない
『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』は2009年10月にドイツのベルリンの劇場HAU(Hebbel am Ufer)で世界初演されました。HAUが企画した日本文化を紹介するフェスティバルのヘッドライナーで、チェルフィッチュの他に、庭劇団ペニノ(演劇)、快快(演劇)、Gho st(バンド)、Chim↑Pom(アーティスト)などが参加、ちなみに私も招聘されて日本のポップミュージックについてレクチャーを行いました。つまり世界初演に立ち会ったのですが、観客の反応も初演の直後に出た劇評も大成功と言えるものでした。『三月の5日間』の後、チェルフィッチュは『フリータイム』という作品で海外公演をしていましたが、その時はあまりヴィヴィッドな評価を得られませんでした。ヨーロッパの現代演劇の世界における岡田の快進撃は、間違いなく『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』によって始まったと言ってよいと思います。
この作品は「ホットペッパー」「クーラー」「お別れの言葉」という3話から成るオムニバスです。この内、「クーラー」は短編のダンス作品として『三月の5日間』と同じ2004年に初演されており、当時、日本のコンテンポラリーダンスで最も権威があったトヨタ・コレオグラフィー・アワードのファイナリストに選ばれました。女性社員と男性上司がオフィスのクーラーの温度設定について延々と同じ会話を繰り返すというミニマルで不条理な内容で、チェルフィッチュの演劇とも共通する不安定で締まりのない「きょどった」挙動が斬新なダンス=振付として高く評価されたのです。『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』は、その前後に同様の発想で新たに作られた二つの短編を配した、つまりダンス作品です。といっても、どのパートにも台詞があるので、そこでは「演劇」と「ダンス」の境界は限りなく曖昧になっています(『三月の5日間』でも役者の挙動は厳密に振り付けられていました)。
オムニバスとはいえ三つの話は繫がっています。ひとりの女性派遣社員が契約を打ち切られることになり、社員たちが送別会の店を「ホットペッパー」を見て相談する。その内の二人が「クーラー」を演じ、最後は辞める社員が長々と「お別れの言葉」を嫌味たっぷりに述べる、というのが、この作品のストーリーです。そして俳優たち(いわゆるダンサーはひとりもいません)は台詞を発話しながら『三月の5日間』でのそれを更に過度にしたようなクネクネとしただらしのない動きをし続ける。この作品は2010年に日本でも上演されましたが、ベルリンを始めとする海外公演には国内とは異なる前提があります。それはもちろん、外国にはホットペッパーがない、ということです(付言しておくと「ホットペッパー」はリクルートが発行していた飲食店探しのフリーペーパーです。紙版は2023年に休刊し、現在はウェブサイトとアプリに移行しています)。また、空調機の温度設定についてオフィスワーカーが云々するのも日本的と呼べるかもしれません。最後の女性社員の語りでは『フリータイム』とも繫がる日本社会の労働環境への批判が口にされます。つまりこの作品は、極めてドメスティックな、ニッポン国内の話題に終始しているのです。しかし岡田は明らかに敢えてこれを世界初演の勝負作として提示してみせたのでした。そしてそれは見事に成功した。
この後、チェルフィッチュの新作は日本よりも前に海外(主にヨーロッパ)で世界初演されることが増え、海外ツアーも飛躍的に多くなっていきました。岡田は非常に多作であり、本論はチェルフィッチュ論ではないので彼の作品の全てを取り上げることは出来ませんが、ここでの論脈に即すと、次に重要な作品は2014年に初演された『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』だと思います。これはコンビニエンス・ストアを舞台とする音楽劇です。
コンビニのバッハ
『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』は神奈川芸術劇場(KAAT)で「公開リハーサル」が行われた後、ドイツのマンハイム国立劇場で世界初演され、それからはベルリンなどドイツ数カ所、リスボン(ポルトガル)、ロンドン(イギリス)、トリノなどイタリア数カ所、マルセイユなどフランス数カ所、モスクワ(ロシア)、リオデジャネイロ(ブラジル)、グアナフアト(メキシコ)、バーゼルなどスイス数カ所、ヘルシンキ(フィンランド)、ベイルート(レバノン)、バンコク(タイ)、そして日本の数カ所で上演/再演/ツアーがされてきた「世界のチェルフィッチュ」の新たな代表作です(2019年にはテキストはそのままで『スーパープレミアムソフトWバニラリッチソリッド』としてリクリエーションもされています)。
「音楽劇」と述べたように、この作品ではヨハン・セバスチャン・バッハの『平均律クラヴィーア曲集第一巻』全48楽章が最初から最後まで丸ごと流れます。俳優たちの台詞もその旋律に合わせて発される、(歌うわけではないですが)一種のオペラと呼んでもいいかもしれません。しかし、これもすでに触れたように、舞台は日本のコンビニなのです。したがって登場人物はコンビニ店員とそこにやってくる客のみです。
2011年3月11日の東日本大震災と東京電力福島第一原発事故の後、他の多くの表現者たちと同様に、岡田利規もまたある種の「失語」に囚われました。彼は自ら態度変更を宣言し、それまで自分に禁じてきたSF的な設定を持つ『現在地』(2012年)、幽霊が舞台に登場する『地面と床』(2013年)といったシリアスな作品を発表していきました。『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』は、そのモードからの転回と見ることも出来ると思います。テイストとしては、この作品は『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』路線のシニカルでアイロニカルなコメディです。やや
「世界の中の日本」から「日本の中の世界」へ
また時間を飛ばしますが、岡田利規(チェルフィッチュとしてではなく個人名義です)は2017年にドイツの公立劇場ミュンヘン・カンマーシュピーレのレパートリー作品(ドイツの公立劇場では芸術監督によって招聘された演劇作家が劇場所属の俳優やスタッフのレパートリーとなる作品を作・演出します)として『NŌ THEATER』を作・演出しました。タイトルにも示されているように、この作品は岡田が近年関心を深めていた「能」の形式を踏まえて構想されています。能「六本木」、狂言「ガートルード」、能「都庁前」の3本から成る作品です。六本木の地下鉄のホームで、田舎から出てきた「青年」と「かつて投資銀行の証券部門に勤務していた男」と「駅員」が交わす会話。同じ地下鉄のホーム(?)で『ハムレット』の話をする「舞台役者」。
『NŌ THEATER』で登場するのは、リーマンショック以後の金融資本主義に捨て駒にされた男、仕事も未来もない若者、都議会における女性蔑視発言に心底から怒りを表明する女性と、ゼロ年代半ば過ぎの日本社会が抱える問題と悪弊です。しかしそれはドイツ語で、ドイツの人々によって演じられる。この作品は2018年に京都でのみ日本公演が実現しました。私はその際に観たのですが、やはりすごく変な気がしたことを覚えています。ちなみにその後、岡田はこの作品をヴァージョンアップ(といってもほぼ新作になっています)した『未練の幽霊と怪物』を横浜のKAATで2020年に上演する予定でしたが、新型コロナウイルスによって劇場での公演が中止となり、演者を別々に撮った映像による共演(?)という実験的な試演のみとなり、一年後の2021年にようやく本物の公演が行われました。
『NŌ THEATER』の好評により、岡田はカンマーシュピーレと継続してレパートリー作品を手がける契約を結び、一年ごとに『NO SEX(ノー・セックス)』(2018年)、『THE VACUUM CLEANER(掃除機)』(2019年)を作・演出、また、2022年にはドイツ、ハンブルクのタリア劇場で『Doughnuts(ドーナ(ッ)ツ)』を、ノルウェー、オスロのナショナルシアターで『HVALEN I ROMMET/Whale in the room(部屋の中の鯨)』を制作しています。『THE VACUUM CLEANER』と『Doughnuts』は世界の演劇界でもっとも権威のあるベルリンの演劇祭テアター・トレッフェンの上演作品に選出されました。これらの日本語のオリジナル戯曲は作品集『掃除機』に
一種の家族劇である『掃除機』のテーマは「引きこもり」、そしていわゆる「8050問題(80代の親が50代になるまで子を経済的/精神的に支えることから生じる諸問題)」です。ホマレはずっと家の中に引きこもっていて、掃除機と会話を交わしています。というかこの劇は掃除機のデメの台詞から始まるのです。
「掃除機」っていう芝居を始めようと思ってて、だから掃除機の話から始めると、掃除機って目線は基本、這う目線というか、注意向けてる方向が下なのがデフォというか、視界の大半がというか意識の大半が割と床という感じ、床というか畳というか、でそこに何か落ちてるものがあるなっていう場合、物理的に距離が近いからそもそも目に付きやすいってのもあってそれが気になる度合いは当然高くて、というのは今は一般的な、ヒトとの比較で言ってるんだけど。(『掃除機』)
岡田利規の演劇は、ある意味では『三月の5日間』から15年経っても、その根本的なところはほとんど変わっていません。しかし、今ではこの台詞はドイツ語で話されている。彼は「日本」と「日本的」を愛国心やナショナリズムとはまったく異なる次元で突き詰めることによって、世界の演劇作家になった。
となると、ここでもうひとつ、重要な論点が浮上します。「日本語」の問題です。
*「小説の「上演」」(『新しい小説のために』所収、講談社、2017年)
佐々木敦
ささき・あつし●思考家/批評家/文筆家。
1964年愛知県生まれ。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。芸術文化のさまざまな分野で活動。著書に『「教授」と呼ばれた男──坂本龍一とその時代』『ニッポンの思想 増補新版』『増補・決定版 ニッポンの音楽』『映画よさようなら』『それを小説と呼ぶ』『この映画を視ているのは誰か?』『新しい小説のために』『未知との遭遇【完全版】』『ニッポンの文学』『ゴダール原論』、小説『半睡』ほか多数。