[本を読む]
頼もしいガイドがいるから
険しいヘーゲル山脈も登りたくなる
どうしてヘーゲルのテキストってこんなに難しいのか。少なからぬ人は、主著の『精神現象学』の「序文」で挫折してしまう。と偉そうに書いている私だって、数々の入門書や解説書、研究書の助けを借りなければ、ヘーゲル哲学はチンプンカンプンである。
多くの挫折者を生み出してきたであろうヘーゲル哲学に、いかにして読者を再入門させるか。著者は思い切った「絞り込み」作戦を取っている。第一に、ヘーゲル哲学を「流動性」という点に絞り込んで読み解くこと。第二に、扱うテキストを『精神現象学』と『大論理学』という二冊の主著に絞り込むこと。
この作戦は見事に成功していると思う。実際に本書を読み進めると、『精神現象学』と『大論理学』のなかに、「流動性」が繰り返し登場するのがよくわかる。たとえば高校倫理の教科書で、弁証法の例としてよく取り上げられる「つぼみ」「花」「果実」の比喩は「『弁証法』ではないし、まして『正反合』ではない」。つぼみ・花・果実という三つの段階は、植物が有機的な生命体であり、「流動的な本性」を持つがゆえに、対立するように見えた諸契機が一つの全体を形成している。そしてこの比喩と同じことが、哲学の営みについても言えるのだと解説してみせる。
著者が言うように、こうした流動性というイメージを持つだけで、ヘーゲルのテキストはがぜん取っつきやすくなる(ように感じられる)。実際、本書を読むと読まないとでは、『精神現象学』の「序文」でさえ、まったく理解度が違ってくるはずだ。
正直に告白すると、『大論理学』にいたっては、長らく「積ん読」状態である。だから『大論理学』の解説に後半三章を充てているのは本当にありがたい。少なくとも、本書で触れているパートならば、頼もしいガイドが側にいてくれる。「流動性」を道しるべに、険しいヘーゲル山脈を登ってみたい。著者の術中にまんまとハマってしまうのは、きっと私だけではないと思う。
斎藤哲也
さいとう・てつや●人文ライター