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インタビュー/本文を読む

姜尚中さんに聞く
『それでも生きていく──不安社会を読み解く知のことば』

[インタビュー]

大言壮語のグランド・ナラティブに有効なワクチンを

姜尚中さんの新刊『それでも生きていく──不安社会を読み解く知のことば』は、雑誌『Marisol(マリソル)』(二〇一〇年六月号~二〇二一年一一月号)で連載していたコラムをまとめたものです。
連載開始の翌年三月には東日本大震災が起こり、翌々年には第二次安倍政権が発足して日本の政治は大きく右旋回、最後の二年間は未曽有のパンデミックに襲われるという、まさに激動の時代。その時々の出来事が定点観測的に記されたコラムは、貴重な時代の証言になっています。
刊行を機に、姜さんにこの十年の社会の変化とこの本に託す思いを語っていただきました。

聞き手・構成=増子信一/撮影=渡部 伸

■不都合な事実に目を向けないまま、
 事態は確実に悪い方向に向かっている

──連載開始直後の二〇一〇年六月に、民主党の鳩山内閣が総辞職して、後任に菅直人が就き、東日本大震災を挟んで二〇一二年には民主党が衆院選で大敗を喫し、第二次安倍内閣が発足します。

 この連載は、第二次安倍政権の時代とほぼ重なっていて、二〇二〇年九月にそれがある意味では非常に歯切れの悪いかたちでぷつんと切れてしまった。一種緊急避難的にすが内閣ができたわけですが、それもわずか一年で退陣し、いまは岸田内閣になっている。
 ぼく個人は、今回の『それでも生きていく』という本をいまこの時期に出すことの意味は、ここ十年にわたって、日本の社会がどういう問題を抱えながら今日に至っているのかをある程度あぶり出しているということだと思っています。たまたま新型コロナウイルスによって、劇的にあぶり出されたところもありますが、新型コロナウイルスにしてもまだまだ収束途上にありますから、あくまでも途上の中の一つの総括みたいなものですね。
「はじめに」でも書きましたが、我々は東日本大震災が起きたとき、最初のうちこそ、それを起点に新しい時代に向けての変化を求めるところがあったのですが、いつの間にか元通りというか、問題の解決を見ないまま上書きをして、まるでなにもなかったかのように振る舞ってきた面がありました。
 でも、一旦事が起こるとその因果はずっと続いていくわけですから、いくら上書きをしたと思っていても、実は山積みされた問題がそのまま持ち越されて残っている。だから、問題をきちんと見据えた上でその因果を断ち切らなければ、本来の意味で新しいものは生まれてこないんですね。
 そうやって見ていくと、どうしても悲観的な予測を立てざるを得ないのですが、この本の各章の中で日本の社会の抱えているさまざまな問題が見えてきたことは確かだと思います。

――フレデリック・L・アレンの『オンリー・イエスタデイ』は、第一次世界大戦が終わった一九一八年から世界大恐慌が起こる一九二九年までのほぼ十年間のアメリカ社会を三一年の時点で振り返ったものですが、今度の本にも、まだ歴史にはならない「つい昨日のこと」が書かれています。

 これも「はじめに」に書いたことですが、マーク・トウェインの「歴史は、繰り返さないが、韻を踏む」という警句は味わい深いですね。アメリカの場合は、第一次世界大戦が終わってもう二度とああいう戦争の世界には戻りたくないと思って、当時のアプレゲール世代が享楽的な時代を謳歌していたところに大恐慌が起きて一気に奈落に突き落とされる。それが世界へ波及していくとともに、戦争をくぐり抜けた世代がある種モンスター化して第二次世界大戦を引き起こしていく。
 もちろん、それがそっくり現代の日本に当てはまるとは思いませんが、「韻を踏む」という意味では、考えさせられるところがあります。実際、東日本大震災の前後から今回のパンデミックが起きるまでの過程で、確実に日本の生活、暮らしは劣化している。それを立ち直らせる一つの起爆剤としてオリンピックがあったはずなんですね。少なくともオリンピックを誘致した側はそれを狙っていたと思います。しかし、それがパンデミックによって、主催者側が思ってもみないしっぺ返しを受けてしまった。
 結局、不都合な事実に目をしっかりと向けないまま、事態は確実に悪い方向に向かっていっているのですが、この二年近くの間で見えてきたのは、パンデミック自体も科学的なエビデンスで説明しきれないということです。そうなると、第三者の視点による客観性が担保されることなく、すべてが相対化されて、こういう見方がある、ああいう見方があると、いろいろな見方をただ並立するだけで終わってしまうことになる。
 連載を始めたときには、各回のコラムがこんなふうに連なっていくとは思わぬままに書いていったのですけれど、十年のつながりで見ると、そこにある通奏低音があるんですね。ぼく個人もこの十年間の厚みをまだ捉え切れていない部分もあるのですが、ただ間違いなくいい方向に向かっていっているとは思えない。つまりは崩壊の過程を進んでいるわけですが、なんとかそれに代わりうるものを探りたいというのがこの本の通奏低音になっているんです。
 客観性というものをもち得ないこの社会の中で、新たな思索をめぐらすことの大切さを少しでもみ取ってもらえれば、この本の意味はあるのかなと思います。

■大きく変わった、女性と暮らしの役割

――今回の本で大きいのは、女性誌を媒体にした連載だということだと思います。

 本当にそうですね。ただ以前に比べると、新聞、雑誌などマスコミの女性や暮らしというものに対する位置づけが大きく変わっていると思います。たとえば朝日新聞の『AERA』という雑誌が創刊されたのは冷戦崩壊直前の一九八八年で、当時、雑誌の巻頭言を書いているのは外信部の記者なんですね。それはある意味ではグランド・ナラティブ(大きな物語)というか、国際政治を上から睥睨へいげいして、子供や女性たちにわかりやすく解説してあげるよ、という視点で書かれている。つまり、三十年前の新聞社は、あくまでも政治・経済が主で、暮らしという視点はまだまだ乏しかったということです。
 暮らしというのは、政治部、経済部、社会部といった各セクションからこぼれ落ちたものの寄せ集めだったんですね。ところがいまは、朝日新聞でも文化くらし報道部というセクションができて、むしろ暮らしが中心になって、それ抜きには世界を語ることができなくなっている。
 もちろんこの十年でも、夫婦別姓は実現されず、医学部が受験時に女性差別を平気でやっていたわけですから制度的な果実といえるものは微々たるものですが、ただ、人々の意識が変わり出していることは確かです。セクシュアル・ハラスメントにしても、かつてであれば昭和的な感覚でスルーされていたものが、そうでなくなったというのは大変な違いだと思います。
 ですから、発表媒体が女性誌だったというのは、決して偶然ではなかったのかもしれないですね。

──グランド・ナラティブというものが通用しなくなってきたというのは、どういうことでしょうか。

 ぼくは「五黄の寅」で、朝鮮戦争が起きた一九五〇年に生まれました。干支えとでいえば六回りたったわけですが、現時点で日本で起きていること、また韓国で起きていることを見ると、グランド・ナラティブで語られてきたことは、いまやほとんどの人にとって実感として胸に響いていないんですね。具体的にいえば、ジェンダー、あるいは高齢者や若者といった人たちのそれぞれの属性というものをしっかりと分節化して捉えないと、いくら大所高所からものをいっても全然届かない。
 韓国社会を見ても、かつては専制か民主かみたいな大仕掛けの話で天下国家を論じる人が多かったのですが、いまはもうそれではダメで、ジェンダーの問題を含めて、人間の属性やアイデンティティの問題を自分の身体感覚から遊離しないかたちで話さないと、心に響かない。
 だから、相も変わらず、「何々人」とか、「何々国民」といった枠組みで語る言説の在り方がありますけれど、個々の人間の属性やアイデンティティといった視点から見れば、国家や国籍というものがさほど大きな桎梏しつこくにはならなくなる。その意味では、この十年で、昭和的なるものがフェードアウェイしていっていることは間違いないと思います。

――その一方で、かつての昭和的なものを復活させようという動きもあります。

 ネオ昭和というか、安倍政権には特にそういう動きを感じましたね。
 漱石は『吾輩は猫である』の中で、大和魂について、「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰もった者がない。大和魂はそれ天狗のたぐいか」とからかっていますけれど、過去には実際に大和魂のためには死んでもいいという人たちがいたわけですよね。
 それと同じように、どこそこの国を守りたいとか、何々の制度を守りたいといった観念的なものが依然として我が物顔に闊歩かつぽしている。ところが実際には、実感のレベルや身体的なレベルでの変化が大きくなって、そのずれがどんどんどんどん広がっていっていると思いますね。

――「おわりに」で、もはや政治は、政治家や官僚、その周辺の識者やジャーナリストの専用物ではなく、「市井のアマチュアである私たちが、政治とどうかかわっていったらいいのか」を考えなければいけないと書かれています。

 これまでは、政治と市民との距離がなかなか埋まらなかったのですが、女性誌の役割の一つに、その距離をかなり埋めてきたことがある。これはやはりほかでは代えがたかったことだと思います。
 ダイエーの中内いさおさんが、「流通産業は平和産業である」といっていたことがあって、つまり、平和であることがもうかることになり、もうかるから平和があるのだ、と。この考えには危うい部分もあるのですが、平和と産業の合致というのは大切なんです。ところが、いまその関係が切れつつある。生活のレベルがどんどん下がってきて、小さくなったパイをみんなで奪い合うようになってきた。そこにグランド・ナラティブが入り込んでくる。
 この語り口は、戦前であれば受け入れられたと思います。しかし、そういうまやかしのグランド・ナラティブとしっかり向き合って、そんな大言壮語しても、実は雲をつかむような話じゃないか、とずばりいえるのは、やはり女性の暮らしに根づいた感覚なんですね。その辺りをきちんといっていたのが、先頃亡くなった瀬戸内寂聴さんだったと思います。
 その意味でも、意外といま大切なのは実感信仰だと思っています。丸山眞男は実感信仰の危うさを批判しましたが、いまの時代はむしろ逆に実感信仰が大切なんじゃないかと。というのも、いまは実感とかけ離れた空虚な言葉がリアリティを持ってしまうので、それに対するワクチンとして実感信仰が必要なんです。
 実は、この本はそういう変な大言壮語に引っかからないためのワクチンのつもりなんです。ワクチンには副作用がありますけれど、この本には副作用がありませんから、安心して読んでください(笑)。

■人生においては全員アマチュア

――本の中でウィリアム・ジェームズの「二度生まれ」という考えが紹介されています。人は精神を病むほどの危機に直面することがあり、そこでその人は二度目の誕生を経験し、それはある意味で「本当の誕生」である、と。姜さんも連載を始めたのが還暦で、還暦も文字通り一種新たな誕生なわけですが、ご自身のこの十年を振り返ってみていかがでしょうか。

 ぼくたちの小さい頃は、還暦を迎えるというのは、棺おけに片足突っ込んでいるというか、迷いもなくなってある種枯淡の境地といった感じだったのですが、いざ自分がその歳になってみると、全然そうではなくて、古希を超えたいまも相変わらず迷っているし、枯淡の境地ともほど遠い。
 ほかのところで書いたことですが、人生にプロはいない、全員アマチュアなんですね。なぜかというと、一回死んで生き返った人は一人もいないわけですから。死んでみないことには自分の人生がわからないのですが、もう一度生き直して、その経験を次の人生に活かすことはできない。だから、みんな人生においてはアマチュアなんです。
 それがわかってくると、ずいぶん気が楽になりました。だから、これから変わっていくことができるのだったら、やっぱり変わっていったほうがいい。
 これまで、自分をかたちづくってきたいろいろなものをすべて捨て去ってリセットすることはできないにしても、無理をしている部分を少しずつなくしていくことはできる。だから、ぼくはたまさか熊本のような家父長的でマッチョイズムの強いところに生まれたのですが、本当は、ああいう環境はどこかで生きづらかったんです。でも、熊本も大きく変わり、あんなにマッチョ的だった私の高校も女子が半数以上を占めるようになりました。本当に急速に変わりましたね。
 そういうものから変わっていく時期が、ちょうどこの十年と重なってもいるんです。そうやって自分が変わると、また幸せのかたちも変わるといいますか、のろけているわけじゃありませんけど、いまは妻と一緒にいることが一番幸せです(笑)。

――「それでも生きていく」というタイトルにも、そういう意味が込められているのですね。

 そういうことですね。この十年、いろいろな意味で自分のかさぶたが取れていったという気がします。そうすると、意外とそれまでとは違う自分も見えてくる。そういう点では、この十年は、実は一番安定して、一番幸せな十年だったのかもしれない。個人的にはそういう十年だったと思います。

姜尚中

カン・サンジュン●政治学者。
1950年熊本県生まれ。東京大学名誉教授、熊本県立劇場館長兼理事長、鎮西学院学院長、鎮西学院大学学長。著書に『マックス・ウェーバーと近代』『増補版 日朝関係の克服』『在日』『姜尚中の政治学入門』『愛国の作法』『ニッポン・サバイバル』『悩む力』『母─オモニ─』『トーキョー・ストレンジャー』『心』『維新の影』『母の教え』『朝鮮半島と日本の未来』等多数。

『それでも生きていく──不安社会を読み解く知のことば』

姜尚中 著

単行本・1月26日発売

定価1,650円(税込)

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