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受賞記念エッセイ/本文を読む

すばる文学賞受賞『ミシンと金魚』永井みみ
記念寄稿「ふくげ。」

[受賞記念エッセイ]

第45回 すばる文学賞受賞記念エッセイ
受賞作「ミシンと金魚」
ふくげ。

 ものごころついたときから、それ、は、あった。
 つまり。ものごころが芽吹く以前に、すでに、それ、は芽吹いていたのであって、わたしのものごころより、それ、は歴史がふかいのであった。
 おばあちゃん。こんなもんが、はえてる。
 四歳だったわたしは、あごの下にひょろりと生えた、それ、をこたつの定位置に座っている祖母に見せ、見解を仰いだ。
 ああ、それは、ふくげだよ。
 祖母は、手をこたつのヒーター部分に当てたまま、目視だけで、断定した。
 縁起もんだから、ぬいちゃだめだよ。
 祖母は、「ミシンと金魚」の主人公カケイさんとは真逆の、大柄でビッとした人間であった。
 ぬいたら、どうなんの?
 ぬくなんて不吉なことは、金輪際かんがえるな。わかったか。
 …………うん。わかった。
 祖母は、ご町内でも有名な敬虔なクリスチャンであったが、迷信や手相なんかも同時並行で信じていた。矛盾ではなく、共存共栄みたいなかんじで、信じていた。
 母の鏡台の布をはぐり、ふくげを、しげしげ、ながめる。
 全長約四センチメートルのふくげは、とうめいで、ひかりのぐあいでキラキラひかり、かぜのぐあいでフワフワなびいた。
 いいもん、はえてんじゃん。ひひひ。
 いらい。
 泥巡(泥棒と巡査)、長馬ながうま、おしくらまんじゅう、などのはげしいあそびの最中はあごを引いてふくげを死守し、おわるとかならず、ふくげの有無を確認した。
 ふくげは、あった。いつも、そこに。
 はたちの時。親友と彼氏が恋仲となり、大失恋をした。
 親友も彼氏も去っていったが、ふくげは、のこった。
 ならば仕事に生きよう、と、就活をはじめたものの、書類選考で百社ちかく落とされ、面接までたどり着いた二十社も、ことごとく落ちてしまった。
 わたしは、祈った。
 ふくげ様。わたしを、なんとかしてください。
 就職がきまったのは、年度末も年度末、わすれもしない三月二十九日であった。
 わたしは、ないた。ふくげとともに。六畳一間のアパートで。
 歳月は、「あっ」、という間に飛び去ってゆく。
 今回、「最終選考にのこりました」とのご連絡をいただき、恐縮しながら電話を切り、切ったあと、まっ先に、ふくげを、探った。
 じつのところ。ふくげとは最近とんとご無沙汰だった。
 なんというか。五十六年も生きていると、よいことがあっても、わるいことがあっても、「まあ、こんなもんでしょ」のひとことでかたづけてしまい、それ以上ふかく掘り下げることを、しなくなってしまっていた。
 可もなく、不可もなく。
 きずつくことなく、ただ淡々と生きてゆきたい。
 そんな初老のおんなにとって、ふくげは、しょうじき、まぶしすぎた。
 夢、とか、希望、とか、恋とか、愛とか……?
 そんなのはネ、みぃんな昔のコトなのョ。
 ああ、だがしかし。
 神保町あたりから掛かってきた一本の電話で、灰だらけのきもちに、火が、く。
 わすれかけていた野心が、ムラムラ鎌首をモタげる。
 そうして、いざ木杭ぼつくいに火が点くと、火の回りは、想像以上に、はやかった。
 ふくげさ~ん、どこ? すねてないで、出てきてよ~ン。
 手鏡を近づけたり遠ざけたりして老眼のピントを合わせ、血眼ちまなこで、探る。探るうちに手鏡は指紋で汚れ、目の疲れは首を伝い、肩甲骨をガリガリ固めた。
 半時間ほど探っても見つからないところをみると、ふくげはたぶん、鬼気迫る老嬢の殺気に怯え、毛穴のおくふかくに鳴りを潜め、息をころしているのだろう。
 そこでスタミナ切れとなり、疲れがどっと押し寄せる。
 ヤーネ。そんなんじゃ、ないのにサ。フン。
 しみついた事なかれ主義の自分にもどり、しんみりと、あごをみつめる。
 ふくげなき、茫漠たるあごには、だが、いっこの黒い点ポチが、あった。
 それは、ふくげ、ではなく、おひげ、であった。
 ふくげが、とうめいな儚い夢、であったなら、
 おひげは、黒くぶっとい真夏の悪夢、だ。
 発表のその瞬間まで、ふくげ代わりのおひげをのばすと、こころに決める。
 三日から一週間周期で抜いていたのでわからなかったが、おひげは、ぜんぶで、七本あった。
 このときばかりは、「マスク生活、ありがとう」で、あった。
 おひげは、のびるよ、ぐんぐんと。
 そうして。ついに。
 受賞したとの、お知らせが、届く。
 すでに同志と化していたおひげを抜く際、
 チリ、と、こころが痛かった。

撮影=中野義樹

永井みみ

ながい・みみ●1965年神奈川県生まれ

『ミシンと金魚』

永井みみ 著

2月4日発売・単行本

定価 1,540円

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