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三浦英之「銀河鉄道の夏」③ 第三章 東北本線の列車の中で

[連載]

第三章 東北本線の列車の中で


写真/浅沼和明

 東北本線の列車は暗闇の中を北に向かって走り続けていた。
 列車内の空気にはまだ十分に夏の熱気が残っていたが、線路が北上川に沿って敷かれているためか、時折、わずかに開け放たれた窓から涼やかな風が吹き込んでくる。
 二〇二三年七月三一日夜。
 私はちょうど一〇〇年前の同じ日に花巻はなまき駅を発って樺太からふと旅行へと発った宮沢賢治の後を追うように、ほぼ同時刻の花巻発の列車に乗って車窓から見える北東北の景色を楽しんでいた。列車が田んぼや貯水池のそばを通り抜ける度に、大音量のカエルの鳴き声が潮騒のように押し寄せ、ガタゴトと震える二両編成を小舟のようにかすかに揺らす。
 私は風景を見るのに疲れると、網棚に置いていた取材用のリュックサックから一冊の文庫本を取り出して、膝の上でページをめくった。
『新編 銀河鉄道の夜』(新潮文庫)。
「最終形」とも呼ばれている第四次稿の『銀河鉄道の夜』の他、『よだかの星』や『オツベルと象』など賢治の著名な童話作品が収められた短編集だった。当初、その日花巻で出会えた風景や人々を思い起こしながら、北へと向かう東北本線の中で改めて『銀河鉄道の夜』を読み返してみようと考えていたが、そのときの私は旅が始まったことによる高揚感からか、心がざわついてうまく言葉の海に身を沈めることができなかった。
 視線を上げると、学校の夏休み期間にあたっているためか、七、八組の親子連れが夏の日の思い出話に花を咲かせていた。パステルカラーのリュックサックを膝に抱えた小さな頭はいずれも座席の上で前後に揺れていたが、付き添っている大人たちの何人かが「温泉、よかったわよねえ」と満足そうに話しているのを聞くと、彼らはあるいは東北の名湯として知られる花巻温泉や大沢温泉からの帰りなのかもしれなかった。
 実は賢治も温泉とは切っても切れない関係にある。賢治が生まれ育った花巻には古くから知られているだい温泉やなまり温泉、大沢温泉などがあり、法政大教授の岡村民夫によると、この地域では人々は農閑期になると米や布団を担いでこれらの温泉に逗留し、最短で七~九日、長くは一カ月ほど自炊しながら毎日温泉に浸かって心身を癒やすのが一般的だった。母や妹が病気になって西鉛温泉で湯治をしたり、賢治自身も山に紅葉狩りに行き、漆の樹液を顔に塗って顔面が腫れたため、盛岡中学校を一二日間も欠席して志戸しどたいら温泉に浸かったりしている。
 有名なのは、花巻市にある名湯・大沢温泉で賢治が中学時代に引き起こした「大事件」である。彼は大沢温泉で湯加減を調整する仕組みにいたずらし、湯船に泥水を注いだり、川に大量の湯を流したりして、周囲を大混乱に陥れている。
 大沢温泉では当時、川の上流に設置されていた水車を動力として源泉からお湯をくみ上げて浴場に送っていた。川の水は水車と浴場の二手に分かれており、お湯が熱いときには川の水を浴場に流して温度を下げられるような仕組みになっていたが、浴室への水路は長く使われていなかったため、蛙の死骸や蛇の抜け殻などが浮遊していた。賢治はその水路の「とめ」を外して、たまっていたゴミを浴室へと押し流したのである。浴室の湯坪(湯壺)はあふれて水風呂になり、混浴の風紀指導をしていた巡査の官服までもが「ごぢゃごぢゃ」になるほど、浴場は大混乱に陥った。賢治はその顚末を「面白くおっかなかったねー」と親友への手紙に書いている。温泉での「大事件」を綴った手紙は、賀状をのぞけば現存する賢治の最も古い書簡とされ、当時の状況が目に浮かぶような記述はすでに「文学」になっている。
 大沢温泉と並び、花巻温泉も賢治とゆかりの深い温泉地に違いない。でも、そこには一定程度のネガティブな心情が含まれている。
 東北地方はかつて経済的に貧しく、温泉も奥羽山脈の山間にお湯がポコポコと湧いている程度で、熱海や箱根のような大温泉地は存在しなかった。そこで明治期の鉄道開通に合わせて資本が投下され、近くの台温泉から引き湯をして一九二三年に開業したのが花巻温泉である。
 そこはいまで言う巨大な「スパリゾート」だった。浴槽数は三〇以上。四館の旅館と内風呂付き宴会場、一三棟の貸別荘、日本初の夜間照明付きスキー場や小型の電気自動車が駆け回る室外遊戯場などを兼ね備え、一九二七年に新聞社が主催した「日本新八景」の読者投票では二一二万票を獲得して温泉部門の第一位に輝いている。
 賢治はその花巻温泉で美しい花壇を設計している。花巻温泉の園芸係をしていた花巻農学校時代の教え子の依頼を受けてのことで、敷地の中央には大樹の幹のように曲がりくねった一メートル幅の通路が造られ、そこから細い枝道が延びて先端には花壇が設置されている。上から見るとちょうど大きな木が繁り、枝先に花が咲いているような構図だ。教え子に送った手紙には(一)南方への緩傾斜を利用して芝生と道と花壇を造り、自由に休息したり、摘み草をしたり、頂きで青い地平線を展望したりできるようにする(二)さしあたりローングラスをまいて雑草の発生を防ぎ、順次、スズラン、オキナグサを繁殖させて、最後には前のグラスも併せて純粋な北上山地の景観にする(三)花壇頂部にはカタクリの野生があるが、これは本県山地の通観なので保護したい―など賢治らしいユニークな指導が施されている。
 一方で、当時の成り金文化に批判的だった賢治は、花巻温泉そのものにはあまりよい印象を抱いてはいなかったようだ。『イーハトーブ温泉学』などの著作がある法政大教授の岡村は、私のインタビューにユニークな見解を示してくれた。
「花巻温泉と、賢治の代表作の一つである『注文の多い料理店』の舞台は、実はちょっと似ているんです。東京から狩猟にやってきた二人の紳士が山中に現れたしゃれた洋館に足を踏み入れ、手足や顔にクリームを塗り込むしぐさは、スパリゾートでエステにいそしむ人々にそっくりですよね。二人は山猫からひどい仕打ちを受けて東京に帰るけれど、『一ぺん紙くずのようになった二人の顔だけは、東京に帰っても、お湯にはいっても、もうもとのとおりになおりませんでした。』という最後の一文は、湯治を思うと、なんとも皮肉なオチだと思いませんか?」

 東北本線の列車内では依然として、眠り込んでいる子どもたちを横目に七、八人の大人たちが楽しそうに会話を続けていた。賢治が樺太旅行に旅立ったのは、花巻温泉が開業する一九二三年八月の直前のことだったから、あるいは彼も一〇〇年前の東北本線で近く開業する花巻温泉の話題を交わす乗客の会話に耳を傾けながら、北へと向かう列車に揺られていたのかもしれなかった。
 列車がいくつかの駅に止まり、乗客が何人か乗り降りした後も、七、八組の大人と子どもたちの集団は変わらず私の反対側のロングシートの席にいた。私が文庫本のページをめくる合間に意識を向けると、大人たちの会話が温泉に関するものから学校の授業内容に関するそれへと移り変わっている。
 そのときふと、三〇代前半とみられる若い女性が周囲の大人たちから「先生」と呼ばれていることに気がついた。「先生」は会話の中でそれとなく学校での子どもたちの様子を保護者たちに伝え、親たちは微笑ほほえみながら、その一言ひとことを聞き漏らさぬよう注意深く「先生」の話を聞いている。状況から察するに、彼女たちはあるいは、小学校の夏休み中の課外行事か、クラスの保護者たちが担任を巻き込んでプライベートで出掛けた小旅行の帰りなのかもしれなかった。
 いつの時代も変わらない、親と子と教師の風景。
 私は少しだけ文庫本のページをめくり直し、『銀河鉄道の夜』の冒頭の場面へと意識を戻した。小学校の教室における教師と児童の授業風景から始まる、あまりにも有名なワンシーンである。

「ではみなさんは、そういうふうに川だとわれたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」先生は、黒板につるした大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところをしながら、みんなにといをかけました。
 カムパネルラが手をあげました。それから四五人手をあげました。ジョバンニも手をあげようとして、急いでそのままやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気持ちがするのでした。
 ところが先生は早くもそれを見附みつけたのでした。
「ジョバンニさん。あなたはわかっているのでしょう。」
(『銀河鉄道の夜』・第四次稿)

 星図の中の天の川は何かと問う教師に対し、主人公のジョバンニはそれが星だとわかっていても、自信が持てずに答えられない。その後、いじめっ子のザネリが前の席から振り返って笑い、主人公は真っ赤になったまま立ち尽くしてしまう。
 誰もが経験する、忘れられない小学校での思い出。
 直後、私は胸の奥底に小さな痛みのようなものを感じ、読みかけの文庫本を膝の上で伏せるとしばらくの間目を閉じた。
 遠くにカエルの鳴き声を聞きながら、気がつくと、置き忘れてきた膨大な時間の中に、かつて過ごした女性教師との記憶を探っていた。

 私の幼少期の生育環境を正直に語ることはひどく難しい。物心がついたときから、私の世界は「半分」だったからである。それは文学的な比喩などでは決してない。私にとっての世界は常に物理的に―そして現実的に―半分に切断されていた。
 神奈川県相模原市相武台そうぶだい―それが私の故郷の名前だ。
 相武台という地名は、それまで東京・市ケ谷にあった陸軍士官学校が一九三七年にこの地に移転してきた際、昭和天皇がつけた名前である。私はそんな戦時色の強い地名の、あまり裕福ではない「団地の子」として育った。
 表現者の責務として自らの生い立ちを正直に記せば、父は北東北の寒村の出身で、母は南九州の貧村の出であった。二人は地元の高校を卒業すると、日本の高度経済成長期の大波に乗って「金の卵」として東京へ送られ、就職した大手電機会社で知り合って二〇代半ばで職場結婚した。
 二人はしばらく横浜の木造アパートで暮らしていたものの、長男の私が四歳になり、妹が生まれたことをきっかけに、東京の都心まで電車で約一時間半の距離にある、神奈川県北部で売り出されていた新興団地の抽選に応募し、七倍の倍率を突破して見事当選すると、喜び勇んで六八平米の集合団地に転居してきた。
 地方出身の若い夫婦には「憧れのマイホーム」に入居するその日まで、その団地の脇に何があるのか、知る由もなかっただろう。
 新居の目の前に広がっていたもの―それは日本各地に配置されているアメリカ陸軍をコントロールするための在日米陸軍司令部が置かれた「キャンプ座間」と呼ばれる米軍キャンプだった。地名の由来にもあるように元々は日本の陸軍士官学校が設置されていた場所であり、敗戦後にアメリカ軍に接収された土地だった。
 一家が入居した総戸数約一六〇〇戸の巨大団地は、そんな広大な米軍キャンプのフェンスに寄り添うように造成されていた。冷たいフェンスの向こう側には青々とした芝生が広がり、こちら側には灰色の積み木を並べたような四角い団地群がひしめきあっている。
 見上げると、水色の絵の具を薄く溶いたような空をバックに、支柱に取り付けられたいくつもの旗がはためいている。その旗は、祝日や運動会の日に小学校の校庭のポールに掲げられる日の丸ではなく、赤と白のストライプに五〇個の星がちりばめられた、どこか下品な感じのする星条旗だった。
 子どもたちが放課後に通う児童館も、後に通うことになる中学校も、敷地がフェンスによって分断され、住民や子どもが自由に立ち入ることができるのは常にフェンスのこちらだけであり、反対側の「世界」には足を踏み入れることが許されなかった。
 教育行政に関して言えば、団地の入居者のほとんどが高度経済成長に伴って地方から出てきた団塊の世代の若い夫婦であったため、地域内の就学人口が爆発し、急遽、団地の北隅に団地内の子どもだけが通う小学校が新設されることになった。
 磯野台小学校という名前の学校で(現在は廃校)、私はその完成したばかりの真新しい小学校に新一年生として入学することになった。ピカピカに光るエナメル製の靴を履いて、遊具はおろかまだ木さえも植えられていない校庭を横目に見ながら、ホルムアルデヒドのにおいが漂う体育館で入学式に出席した。
 校長により新一年生の全員の名前が読み上げられ、私が入ることになった一年一組の担任教師が壇上で紹介されたとき、付き添いの保護者から「わあ」と小さな歓声が上がった。私は緊張のあまり何が起きたのかわからなかったが、帰り道、母親が私にクラスの担任についてうっとりした表情で話していたのを覚えている。
「英之の先生は、ずいぶんときれいな人だねえ」
「僕の先生、きれいなの?」
「とってもきれいな人よ。オードリー・ヘプバーンみたい」
 母親がそう言うのを聞いて、私はなんだか嬉しいような、少し恥ずかしいような気持ちになった。
 それが私と女性教師との出会いだった。彼女は当時二六歳。教職に就いてまだ三年目の新米教師だった。
 社会的にはドラマの「3年B組金八先生」や後に「積木くずし」が流行し、不良少年や非行の問題が徐々に表出し始めていたものの、教育現場にはまだ希望と熱が満ちあふれていた時代だった。
 私が入った一年一組の児童数は四四人。私は入学直後から担任の女性教師のことが大好きになり、いつも「ミチコ先生、ミチコ先生」とまとわりついていたから(女性教師は名をミチコといった)、私はいつからか周囲に「ミッコ」というあだ名で呼ばれるようになり、その呼び名は私が高校を卒業するまで長く続いた(いまでも中学や高校の友人たちは私のことをミッコと呼ぶ)。
 小学校に入学したばかりの私たちは真新しい校舎で午前中の授業を受けると、給食の時間には小さな机をくっつけあって女性教師と一緒にコッペパンやソフト麺といった給食を食べた。午後の授業を終えて教室の掃除を済ませた後は、競いあうようにしてジャンケンの列に並ぶ。下校前には必ず女性教師とジャンケンをして、彼女に勝つまでは教室を出られないのがルールだった。女性教師は常にグー、チョキ、パーの順番で出しており、私は女性教師にかっこいいところを見せたくて、いつも一回で勝てるようにジャンケンをして「ミッコはジャンケンが強いなあ」と褒められていたが、一回で勝つとその場ですぐに教室を出なければならないため、何回ジャンケンをしても先生に勝てない級友のことをどこか羨ましく感じていた。
 放課後はすぐには自宅に帰らずに、職員室から女性教師を誘い出して日が暮れるまで校庭でドッジボールや鬼ごっこをして遊んだ。女性教師も偶然同じ団地内に住んでいたため、児童の何人かはそのまま女性教師の自宅に上がり込み、そこで一緒に宿題をやった。女性教師は学生結婚で(配偶者は市内の中学校で教師をしていた)、私より二歳年下の長女がおり、私たちは先生がクラスで配布する学級通信のガリ版を彫っている間(当時はまだパソコンやコピー機が普及しておらず、ヤスリ板の上にロウ原紙を敷き、鉄筆でガリガリと文字や絵を描いて印刷していた)、長女と一緒に焼きそばを食べたり、テレビを見ながらトランプで遊んだりしていた。
 小さな努力をコツコツと積み重ねることの大切さを教えてくれたのも女性教師だった。
 小学校に入学した頃の私は喘息持ちで体が弱く、他の男子児童のようには少年野球や少年サッカーのチームに所属できなかった。唯一の取り柄は走るのが速いことだったが、それでも野球やサッカーのチームで活躍している男子児童には負けてしまう。集団行動が苦手でケンカも弱く、いつも泣いてばかりいる私に女性教師はある日、「冬になればマラソン大会があるから、明日から毎朝学校に来る前に先生と一緒にランニングをしましょう」と声を掛けてくれた。
「冬のマラソン大会は、一年生なら最初に校庭を一周し、小学校の周りをぐるっと回って帰ってきて、最後に校庭を一周するだけ。毎日しっかり練習すれば、ミッコならきっと一番になれるよ」
 その日以来、私はマラソン大会までの数カ月間、毎朝六時に起床して女性教師と一緒に団地の外周を走った。雨や雪の日こそ休んだが、冬の日は母親が温かい紅茶を準備してゴール付近で待っていてくれ、大会の一カ月前からは本番と同じコースを毎日走った。
 マラソン大会の当日、スタートと同時に勢いよく飛び出した私は、校門付近で先頭集団から抜け出すと、ほぼ独走状態で小学校の外周を駆け抜けた。そして一番で校庭に戻ってきたとき、コースのすぐ横を母親が手を叩きながら併走しているのが目に入った。視線を向けると、女性教師も母親のすぐ横を「頑張れ、頑張れ」と応援しながら走ってきている。
 私は肺がすり切れそうなほど苦しかったが、なんとかして母親や女性教師にかっこいいところを見せようと、前を向き直して一生懸命に走った。
 そしてゴールまであと一〇メートルのところまで来たとき、突然左から影のようなものが飛び出し、隣のクラスの男子児童に追い抜かれた。私は何が起きたのかわからず、走りながら涙が出てきた。
 すると、ゴール直前でもう一人、後ろから駆け込んできた別のクラスの男子児童に追い抜かれてしまった。
 私は口惜しくて、恥ずかしくて、ゴール直後にわんわんと声を上げて泣いた。女性教師は何も言わずにその胸で私が泣きやむまで抱きしめてくれた。
 その日以降、私は小学校を卒業するまでの五年間、団地の外周を毎朝走った。結果、二年生のときはインフルエンザに罹患して欠場したものの、三年生から五年生まではずっと一位でマラソン大会をゴールした(六年生のときは残念ながら、陸上選手を夢見る転校生にスタート直後から離されてしまい二位に終わった)。

 その後も、私と女性教師との関係は長く続いた。磯野台小学校では二年に一度、クラス替えが行われることになっていたが、私は一・二年生で女性教師に担任を受け持ってもらった後、三・四年生では若い男性教師に担任が替わったものの、その間、女性教師は妊娠のために新たな担任学級は持たず、私のクラスの音楽の担当になったため、産休で現場を外れた半年間を除き、三・四年生の間も事実上、私のすぐそばについていてくれた。
 そして迎えた五年生のクラス替え。私が入ることになった五年三組の担任として女性教師の名前が読み上げられると、周囲から「わー」という大歓声が起きた。彼女は児童の誰もが憧れる人気の若手教師だった。
 私たちは一・二年生のときと同じようにいつも笑いながら授業を受け、おかずを交換しながら一緒に給食を食べ、日が暮れるまで校庭で夢中になって遊んだ。夏休みが終わって二学期が始まると、二月のマラソン大会に向けてクラス全員が午前六時に集まって団地の外周を走った。
 女性教師は宮沢賢治に心酔しており、私は彼女が授業中や放課後に語ってくれる『どんぐりと山猫』や『セロ弾きのゴーシュ』などの話が大好きになった。いずれも弱者が主人公の物語であり、競争社会を忌避して「できないやつこそが最高だ」と叫ぶ物語のやさしさに包まれた。実際、私たちは『セロ弾きのゴーシュ』に憧れてクラスで吹奏楽団を作り、トランペットやフルートを練習して、二年連続で民放キー局が主催する吹奏楽コンクールに出場したりもした(私はティンパニーの担当だった)。
 毎日が夢のようだった。放課後も学校に残って運動会や学芸会の練習をし、キャンプ教室や修学旅行以外にも、日曜日を利用して先生と子どもたちだけで鎌倉や箱根に小旅行に行った。
 そして迎えた春の日に、女性教師はあえて第三次稿の『銀河鉄道の夜』が記された古い作品集を私に手渡し、「いつかあなたが大きくなったら、樺太までは無理かもしれないけれど、北海道の上の方ぐらいまで、先生を一緒に連れて行ってもらえませんか?」と聞いたのだ。
 私は最後の授業で級友全員と手紙を交換し、大泣きしながら小学校を卒業した。

 女性教師とはその後、ある「事件」をきっかけに長く音信不通の状態が続いていた。
 一方で、学童期における女性教師との大切な思い出は、私のその後の人生の中で長らく、心の深いところで温かく燃えさかる暖炉のような役割を果たしてくれていた。
 彼女はいまどこで何をしているだろう―。
 北東北の田園地帯を北へ北へと疾走する列車の中で、私は彼女が手渡さなかった方の第四次稿が記された『銀河鉄道の夜』を膝の上に置きながら、あの一年生のマラソン大会の日に女性教師の胸で嗅いだ、乾いたセーターのにおいを思い出していた。

♦引用文献
宮沢賢治『新編 銀河鉄道の夜』新潮文庫、一九八九年

三浦英之

みうら・ひでゆき●朝日新聞記者、ルポライター。
1974年神奈川県生まれ。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で小学館ノンフィクション大賞、『帰れない村 福島県浪江町「DASH村」の10年』でLINEジャーナリズム賞、『太陽の子 日本がアフリカに置き去りにした秘密』で山本美香記念国際ジャーナリスト賞、新潮ドキュメント賞を受賞。最新刊は『日本で一番美しい県は岩手県である』。

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