[連載]
④最終処分場

精神科の患者間で起きた殺人を隠蔽した病院。その腐敗ぶりは、事件が起きる前から広く知られていた。
「行政が放置していたのが不思議なくらい」
かつて勤務した経験がある医療関係者は、嫌悪感を込めてこう吐露する。
医療機関としてのあり方が問われる状況が続きながら、なぜ是正されずにきたのか。その背景には、地域の根深い病理が潜んでいた。
「最終処分場」と呼ばれる病院
「〝みちのくひとり旅〟ですよ」
青森県
「この辺りの医者たちは冗談めかして、みんなそう言ってきました。一度入院したら最後、二度と戻ることなく亡くなる場所だ、と」
同院の関係者である鎌田宏美(仮名)は当事者として、現場の凄惨さを知っているため、より
「最終処分場。八戸の人たちはみんな、そう思っていますよ」
市内で取材を続けるなかで、同院への入院が決まった際、「あそこだけには入れないでくれ」と泣き叫ぶ患者がいたという話も耳にした。
精神科や内科などを有するみちのく記念病院は、一九九〇年に開設された。その運営母体である医療法人
これほど大きな医療法人に発展した病院をめぐって、なぜ地元で不穏な噂が広まっているのか。市政関係者の男性は、吐き捨てるようにこう言った。
「処置も何もねぇんだもん、死ぬしかねぇんだもん。ちゃんと手術するわけでも、注射するわけでもねぇ。ただ寝かせておくだけだからさ」
治療せず、放っておかれるだけ─。そんな評判は、青森県内にとどまらず、岩手県北部の久慈市や
「みちのく記念病院に入院している患者に面会に行くと、ケアが明らかに不十分でした。口腔状態の悪化から肺炎を起こしている方も多かったと認識しています」
この証言で思い出したのは、二〇二三年三月一二日に起きた殺人事件の被害者の死因が「肺炎」と偽装されたことだ。
同院には、死亡の確認や死亡診断書の作成を担う医師が少なくとも三人いた。このうち被害者の分を作成した男性医師は当時、認知症だった。しかもその手による死亡診断書は、ほかに二〇〇枚余りに及び、じつにその七割が「肺炎」で占められていた。
ケアの不備による肺炎が日常化していたからこそ、「肺炎」という死因は、この病院では不自然に思われなかったのだろうか。
ベッドが空く理由
「患者が治って社会へ戻る場所」ではなく、「患者が生きて出るのが難しい場所」─。
この多くの関係者の一致した見解を裏付ける数字がある。みちのく記念病院で亡くなる患者は、年間四〇〇人を超えていた。殺人事件が起きた二〇二三年まで院長を務めていた石山
さらに、検察側から「日常的に入院患者が亡くなることが多かったのか」と問われ、「はい」と認めた。
当時の病床数は四〇〇程度。退院ではなく死亡によってベッドが空く。それがこの病院の日常だった。
ここまでの証言を踏まえると、二つの疑問が浮かび上がってくる。
一つは、なぜこれほどまでに患者が放置されてきたのか。
もう一つは、そんな噂が広まっているというのに、なぜ患者は集まってきたのか。
取材を進めると、この二つの問いは根底でつながっており、同院で起きた一連の事件とも決して無関係でないことがみえてきた。
まずは後者の疑問、つまり「なぜ患者は集まってきたのか」という点から追求したい。その答えは、鎌田が語った次の皮肉ともいえる言葉に集約されていることを、先に述べておく。
「どんな患者でも、死ぬまで引き受ける県内唯一の病院だったから」
隔離から地域へという空文
日本の精神科医療は長いあいだ、患者を家庭や社会から切り離し、病院に預けきる仕組みのうえに成り立ってきた。家族だけに負担させないための現実的な選択として、隔離が容認されてきたのである。
この状況が変化するきっかけになったのが、一九八三年に発生した宇都宮病院事件だった。職員の患者への暴行による死という衝撃的な実態が明るみに出て、国は「隔離から地域へ」と方針を転換した。
しかし、その後も長期入院は減っていない。入院が一年を超える患者が今も多くを占め、退院して地域で暮らす流れは十分に機能していない。
長く閉ざされた環境に置かれると、人は自分で判断して動く力を失い、病院のルールに従うことが当たり前になる。こうした状態の患者が増えるほど、現場は退院よりも現状維持を前提とした運用に傾いていく。
その結果、一部の精神科病棟は、病気を治す場であると同時に、社会が引き受けきれなかった人を長期間とどめる「収容所」のような性格を帯びてしまう。多くの精神医療の専門家らがずっと、こうした負の問題を指摘してきた。
すべてを拒絶された患者の行先
国は地域生活への移行を掲げたものの、その受け皿は脆弱なままだった。
重度の症状を抱えた患者を家族が支え続けるには限界があり、福祉施設側も事故のリスクから受け入れに慎重になる。
とくに特別養護老人ホームなどの入居基準に合わない高齢者は、制度の隙間に落ち、門前払いされるケースが後を絶たない。
八戸では、精神科医療はいくつかの公的な病院と一部の民間病院に大きく依存していた。もともと受け皿は限られていたのだ。
しかもその限られた受け皿さえも年々縮小していた。
追い打ちをかけるように、八戸赤十字病院は二〇二三年に精神病棟を休床し、八戸市立市民病院も翌年度から精神神経科の入院病棟を休止した。公的な受け皿が次々と縮小していくなかで、患者を受け入れる余地はさらに失われていった。
みちのく記念病院に勤めた経験のある八戸の医療関係者は、こう述べている。
「みちのくに入院している二〇〇人以上の重症患者を一手に引き受けられる病院なんて、この辺りにはどこにもありません。分散させたとしても、何十人単位の受け皿を用意できるところすら、もう残っていません」
もともと受け皿は限られ、残った病床も長期入院で埋まっていた。新たに患者を受け入れる余地は地域内にほとんどなかった。
家庭に拒まれ、施設に断られ、他院からも背を向けられた人々。そうした患者を引き受ける場所は限られていた。彼らが最後に流れ着く先─それが八戸では、みちのく記念病院だったのである。
たとえ「みちのくひとり旅」や「最終処分場」などと揶揄される場所であっても、この病院が機能し続けなければ、数百人の患者は行き場を失う。そこに委ねる以外に、地域の医療体制を維持する術は残されていないと思われてきたのである。
押しつけを正当化する「最後の砦」
「最後の砦」─。みちのく記念病院に対して、そう呼ぶ声もあった。評判の悪さは承知のうえで、それでもあそこがなければ地域医療が立ち行かない、という意味である。
だが、この言葉は、直視すべき問題から目を逸らすための言い訳ではないか。同院の関係者である鎌田は、周囲の風潮を冷徹に突き放す。
「みちのくは『最後の砦』などではありません。周囲の病院や行政が、自分たちの都合で患者を押しつけていることへの『言い訳』に過ぎないのです」
鎌田によれば、そのしわ寄せを受けたのが、殺人事件の当事者となった高橋
彼らがみちのく記念病院に入院した背景には、本人の病状だけでは説明できない事情があった。以下、鎌田の証言をもとにみていく。
まず被害者の高橋である。高橋は以前、市内にある別の精神病院に入院していた。認知症があり、徘徊や便いじりも見られた。だが、それは精神科医療の現場では特別な症状ではない。鎌田は言う。
「高橋さんは、以前の入院先でも十分
それでも高橋は、その病院にとどまることができなかった。入院が長引くほど診療報酬が下がることもあり、病院側の負担は増していく。その結果、高橋は「診られない患者」だったからではなく、「置き続けられない患者」として、みちのく記念病院に移されたという。
一方、加害者の佐々木の場合は、事情がさらに切迫していた。転院前のリハビリ専門病院では状態は安定し、退院することが視野に入っていた。
ところが、生活保護を担当する市の判断で、退院後に戻るはずだった住まいが失われたという。
鎌田は、その背景について、在宅で生活を続けるには行政による継続的な支援が必要であり、市の担当職員の負担が大きくなる事情があったとみている。
帰る場所を失えば、入院を継続せざるを得なくなる。そのとき、選ばれたのが、どのような患者でも受け入れるとされていた、みちのく記念病院だった。
集中が生んだ事件
鎌田によると、みちのく記念病院はどのような患者でも受け入れるとはいえ、常に余裕を欠いた状態にあった。限られた隔離室は埋まり、「処遇困難」とされる患者が、看護師の目が届きにくい一般病室で過ごす場面があったという。
「処遇の困難な患者が集中し、暴力事件が繰り返し起きていました」
こうした状況のなかで優先されていたのは、「治療」よりも「管理」だった。
連載の三回目で取り上げたように、身体拘束は本来、例外的に用いられるべき手段である。ところが同院では正式な手順を経ないどころか、患者の安全への配慮に欠けるような身体拘束が常態化していた。
高橋も佐々木もその対象となっていた。佐々木は身体拘束から逃れる手段として「殺人を犯せばここを出られる」と考えるに至り、事件当時に身体拘束されていた高橋は抵抗することができないまま命を落とした。
こうした経緯をたどると、今回の事件は一つの病院で偶発的に起きた出来事として、簡単に片づけられるものではない。鎌田は次のように語る。
「最終処分場のような病院をつくってはいけない理由は、職員が患者の尊厳を守ることを放棄してしまうからです。『そういう病院だから身体拘束は仕方ない』と、看護師が勝手に納得してしまうのです」
この言葉を裏付けるような証言は他でも得ていた。殺人事件について取材した際、みちのく記念病院のある看護師はこう語っていた。
「被害者を縛って、加害者を縛らなかった。それが一番の原因じゃないかと、みんな言っていました」
病院関係者の関心は、身体拘束の是非や患者の尊厳ではなく、どちらを縛り、どちらを縛らなかったかという管理の成否にのみ向けられていた。
管理で成り立つ病院
みちのく記念病院が「最後の砦」とみなされてきた背景には、家族や行政、周囲の医療機関が、それぞれの事情の中で患者をそこへ預け続けてきた現実があった。
「電話一本で、どんな患者でも死ぬまで引き受けてくれる」
鎌田が語るその便利さこそが、地域医療の目詰まりを解消する手段として重宝されてきた。
病院にとっても、それは収益につながった。ベッドが埋まっていなければ経営は成り立たない。他院が抱えきれなくなった患者を引き受け、長期入院させ続けることが、その土台になっていた。
青森県は二〇二五年九月、同院を運営する医療法人杏林会に改善措置命令を出した。常勤医として報告されていた一二人のうち七人が、基準となる勤務時間を満たしていなかったのである。病床数や診療体制は、この基準を満たしていることを前提に認められている。
患者は集める。だが、診るための体制は帳簿の上で膨らまされていた。
「最後の砦」は、十分な医療を備えた場所ではなかった。地域が預けてきた患者を、少ない実体で抱え込む仕組みだった。診療報酬が下がるのに多くの患者を受け入れられたのは、人件費や管理費を大幅に削っていることが要因としてあった。
結果、治療せず、放っておくという事態が生まれた。はたまた面倒を起こす患者に対しては、違法性が疑われる身体拘束が繰り返された。
みちのく記念病院の関係者らによると、同院は事件後、身体拘束を禁止した。さらに、虐待を防ぐため、怒りという感情とうまく付き合う「アンガーマネジメント」の研修を職員向けにしている。
ただ患者を一つの病院に集中的に預けて済ませるという発想が、この地域において変わらない限り、再び同じような事態が生まれるのではないだろうか。
さて、連載ではこれまで、みちのく記念病院で起きた殺人事件と、それを隠蔽した事件について書いてきた。
ただ、いまだ奥に分け入ったとは言い難い。当初掲げた「病院の経営者が真に隠したかったこと」についても、ごく一部しか明らかにできていない。
ここから先に進むには、時間をさかのぼり、取材する土地を広げていく必要がある。
そのため連載はいったん間を置く。
※本連載は次号より一時休載し、10月号より再開予定です。
表紙写真●筆者提供
窪田新之助
くぼた・しんのすけ●ノンフィクション作家。
2004年JAグループの日本農業新聞に入社。国内外で農政や農業生産の現場を取材し、2012年よりフリーに。著書に『データ農業が日本を救う』『農協の闇』、共著に『誰が農業を殺すのか』『人口減少時代の農業と食』など。『対馬の海に沈む』で第22回開高健ノンフィクション賞を受賞した。





