[ナツイチ対談]
「虚構でなければ真実に触れられない」というのが共通点かもしれません
完結まで十五年の連載期間を要した恩田陸さんの大作『
構成=杉江松恋/撮影=露木聡子

恩田 自分としては「虚構でなければ真実に触れられない」というのが、『鈍色幻視行』のテーマではないかと思っています。大森さんの映像作品とは、そこに共通点があるのかもしれないな、と思いながら今日この場にやってきました。
大森 『鈍色幻視行』は芥川龍之介「藪の中」といいますか、朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』といいますか、そこにいない人物を巡って周りの人間が語ることにより、その人の輪郭が見えていくという話。しかも、その輪郭が最終段階でもはっきりしない。ずっと不安な気持ちにさせられる小説でした。舞台となるクルーズ船の中では、『夜果つるところ』という小説の関係者たちによって、この小説が何度も実写化に失敗したとか、関係者が亡くなっているとか、そういう不穏な事実が語られます。でもそうした要素よりも、真実は結局不在なのに、それぞれの人物の語りにおいては各々が自分の語りが真実だと確信を持っているという、そのずれこそが自分を不安にさせたのだと思います。僕は真実を追い求める過程で出てくる人間の
恩田 この小説に登場するのは書き手や役者など、虚構を扱う人たちなんです。だからみんな自分の思うところを演じているんでしょうね。私は「藪の中」みたいな話がとても好きなので、真実は所詮紙吹雪、本物はつまらないもの、という思いがあります。真実かどうかは脇に置いて、思い込みを語る部分こそが面白い。そこを重点的に書いたつもりなんです。
大森 フェイクドキュメンタリーの現場では、現実と虚構が反転していく感覚を味わうことがあります。一般的なドラマと違ってフェイクドキュメンタリーは、カメラを一台回して、ある人としてのインタビューを録っていけばいい。いい台詞が出るまで一時間くらい粘ることもできます。映像として作品ができてしまえばその時間は終わるんですけど、『鈍色幻視行』の登場人物たちはそんな時間に囚われてしまっている。しかも『夜果つるところ』の作者が不在であるとか、かつて死者が出たという事実が現実と接着している。そういう状態で語り手が虚構を扱う人々であるという要素と、中心が不在の状態で輪郭だけを撫でていくという行動が合わさって、非常にねじれた構造が現出していますね。
恩田 場を作ることで何かを呼び込んでしまう、というのはあると思うんです。たとえば映画を撮っているようなときに、台本以外の何かが映り込んでしまうことはある。そういうときに真実にちらっと触れられるのではないかと。私は映画を観るときもそういうものを求めている節があります。
大森 もちろんフェイクドキュメンタリーも脚本に沿って作られますが、それだけだと俳優が演じる人物が噓っぽくなってしまうことがあるんです。たとえば「飯沼一家に謝罪します」で、家族がみんな死んだ中で
恩田 私の場合、登場人物はしゃべらせてみないと性格も分からない。だいたいメインキャラクターは数人しか決めてなくて、彼らにしゃべらせているうちに、こういう人だったらこういう人が友達だろうな、みたいに芋づる式に登場人物を作っていくんです。
大森 たとえばこの人だったらこういう風にしゃべるだろう、というのはご自分の実体験から判断されているわけですか。
恩田 登場人物にちょっとずつ自分が入っているのは確かです。一部を膨らましてそのキャラクターにするとか、自分の体験や過去に感じた感情とかが元になっていますね。
大森 『鈍色幻視行』で面白かった点の一つが、
──大森さんが恩田作品の中でも特に本作に感じる特徴はどういうものでしょうか。
大森 虚構というものは受け手がいて初めて成立する。そのことが込められていると感じました。読者という受け手がいるからこそ虚構であり、読者がいることで作者も影響を受けていく。その受け手の存在を最も強く感じた作品でもありました。
恩田 一九八〇年代から九〇年代にかけてメタフィクションが流行したんです。作中作もなぜここまで、というぐらい
大森 メタフィクションはこの十年くらいバラエティーの世界でもすごく強くなっています。たとえば深夜のトーク番組では、「M-1で売れてその実績を持ってゴールデンに来たけどうまくいかない。いろいろ変えようとすると、昔からのファンは悲しむ」みたいな話をするわけです。究極的に言えばそれは番組用にモディファイされた悩みであって、ある程度視聴者がどう受け止めるかということを考えた上でトークが提供されている。視聴者もそうした構造が分かった上で共犯関係を結ぶ。このメタを重ねていく構造が近年のバラエティーの発明だと思っています。僕の「神木隆之介」という作品もフェイクドキュメンタリーにそうしたメタを重ねるという挑戦でした。
──先ほど恩田さんが、メタフィクションの受け止められ方も変化したとおっしゃいました。『鈍色幻視行』には『夜果つるところ』という作中作があります。ただ、『鈍色幻視行』の本文中には『夜果つるところ』の内容はそれほど言及がありません。
恩田 以前だったら、作中作はどんな話だろう、と読者は興味を持ったでしょうが、今はそうでもない気がします。内容はなくてもよくて、それこそ今の言い方をすれば考察すればいいというようになっているのかもしれない。メタとしての受け止められ方がすごく変化していて、ドラマなども不自然な終わり方をすれば、スポンサーが降りたんじゃないか、とか視聴者は詮索するじゃないですか。そこまで含めての視聴体験で、極端に言えば原典はなくても成立する、記号として受け止めるという状況になっています。なんという時代かと思いますね。
大森 映画「ブラック・スワン」や「パーフェクトブルー」など、作中作がそれを演じている本人に影響を与えて虚構と現実の区別がつかなくなっていくという作品がありますが、あまりにマスターピースが多過ぎて同形の作品が作りにくくなっているとは思います。僕も『夜果つるところ』を読んでいるとき、『鈍色幻視行』の作中作ということをそれほど意識しませんでした。ただ、読み終わったときに残る手触りみたいなものが共通しているということは強く感じましたね。
──『夜果つるところ』は『鈍色幻視行』の作中作であると同時に、辻中剛『遊廓の少年』を意識した作品でもあります。恩田さんにはメタフィクション構造への関心とは別に先行作品を意識するという特徴もありますね。
恩田 オマージュ体質なので(笑)。あの作品の影響を受けてこれを書きました、あれを読んだときの読後感を再現したくて書きました、ということは必ず言うようにしています。先行作品を後に繫げていきたいということが、私のテーマでもあります。
大森 実は今日、僕は恩田さんにモチベーションについて伺いたかったんです。今三十歳なんですけど、このまま続けていけばいずれ中年の危機にもぶつかるわけで(笑)。
恩田 フェイクドキュメンタリー以外にも、純然たるフィクションを撮りたいというご希望はないんですか。
大森 実は最近、まさしくその純然たるフィクションを撮ったんですよ。「このテープもってないですか」を撮ってもらった酒井
恩田 すごい。それは楽しみですね。
大森 もともと映画が大好きなので、自分にとっての刺激をそれで担保したいと考えています。そういう外的な刺激がモチベーションに続いていくものなのか、どうすれば創作を続けていけるのかということに興味があるんです。
恩田 私の場合はほとんど意地です。書いていて、昔の読者に、このごろちょっと読むのが辛いな、とか思わせたくないじゃないですか。かつて読者だった自分が読んでも面白いと思えるようなものをずっと書いていたいという意地です、意地。あと、縮小再生産はやめようというのは本当に目標にあって、なるべく違うことをしたい。これも意地です。
大森 いや、すごい。全然想像外のお答えでした(笑)。

恩田 陸
おんだ・りく●作家。
1964年生まれ、宮城県出身。92年、日本ファンタジーノベル大賞の最終候補作に選出された『六番目の小夜子』でデビュー。著者に『夜のピクニック』(吉川英治文学新人賞、本屋大賞)『ユージニア』(日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門)『中庭の出来事』(山本周五郎賞)『蜜蜂と遠雷』(直木三十五賞、本屋大賞)『スキマワラシ』『灰の劇場』『薔薇のなかの蛇』『愚かな薔薇』『なんとかしなくちゃ。青雲編』等多数。

大森時生
おおもり・ときお●テレビ東京プロデューサー。
1995年生まれ、東京都出身。2019年にテレビ東京へ入社。「TXQ FICTION」など、複数のフェイクドキュメンタリー番組を担当。展覧会「行方不明展」「恐怖心展」も手掛ける。2023年「世界を変える30歳未満 Forbes JAPAN 30 UNDER 30」に選出。






