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阿古真理『ウォーカブルでいこう!』
[第6回] 大都市・東京の川辺で考えた

[連載]

[第6回] 大都市・東京の川辺で考えた

お気に入りの散歩道で

 私が東京に住み始めてから気に入った散歩ルートに、暗渠あんきょの道があります。暗渠とは、ふたをされた河川や地中に埋没した水路。『はじめての暗渠散歩』(本田創・髙山英男・吉村生・三土たつお、ちくま文庫、二〇一七年)によると、「ブラタモリ」(NHK)でタモリがほぼ毎回口にすることなどから、知る人が増えたそうです。
 暗渠には、元の川の流れに沿って車止めされ曲がりくねる細い道や、歩行者専用に整備された緑道もあり、つい歩きたくなる。ウォーカブルというテーマにはピッタリです。そこで今回は、私が長年散歩していた東京の城南エリア(大田区・品川区・目黒区・世田谷区ほか)の暗渠を入口に、東京の川辺を見てみましょう。
 東急大井町線荏原町えばらまち駅から第二京浜国道へ向かう暗渠の立会たちあい川緑道は、隣の旗の台駅近くに住んでいた頃の定番散歩コースの一つでした。『はじめての暗渠散歩』は暗渠に気づくサインに、銭湯、クリーニング店、豆腐店、氷店、井戸、短い区間に集中するマンホールのふたなどを挙げていますが、この道にはそうしたサインがあまりありません。印象に残っているのは、建物より低い位置に暗渠があるため、住宅が城壁のように高くそそり立って見える区画です。暗渠の道には、一般の道とは違う雰囲気が漂っていて、好奇心をくすぐられるのかもしれません。
 下を流れるのは立会川。目黒区と品川区を流れて東京湾に注ぐ立会川の流域は明治初期まで農村でしたが、川沿いの水田の水はけが悪く、胸までつかる泥田。カンジキや舟で田植えをしたそうです。しかし明治時代半ばに大井町に工場ができると、流域の都市化が進みます。一九二九(昭和四)年、東急大井町線の大井町~二子玉川間が開通し、関東大震災の被災者が流入したこともあって沿線人口が急増しました。
 暗渠は旗の台駅あたりから北へ向かい、中原街道を渡って東急目黒線の西小山駅までの区間は緩やかな曲線の歩道沿いに桜並木があり、一方通行の車道が走ります。ソメイヨシノ以外に白や紅色、緑の花が咲く木も交じり、開花時期は情緒が感じられ、葉桜になると緑のトンネルができる。このトンネルに誘い込まれ、自転車で西小山駅まで行ったのがこの暗渠との出合いでした。ここが最盛期の一九四〇(昭和一五)年頃には料亭四五軒、置屋四〇軒も軒を連ねる花街かがいだった気配を感じたのでしょうか。しかし、立会川も一九六九(昭和四四)~一九七三年に暗渠化されました。
 立会川の南を流れる呑川のみがわ沿いは、東急池上線雪が谷大塚駅近くに住んでいた時期によく行きました。世田谷区・目黒区・大田区を通って東京湾へ注ぐ川が暗渠になるのは、東急大井町線緑が丘駅南の工大こうだい橋から上流。整備された暗渠の道を、東急東横線都立大学駅まで自転車で走ると気持ちよかったのですが、それは道幅が広めで木立が続く区間もあるので、開放感を得られたからだと思います。また、大田区立石川台中学校の前の桜並木は、枝が開渠の川面に向かって深く垂れ、花見の季節は暗い水面に映えます。付近は住宅街なので桜を楽しむのは地元民だけです。川には鴨の親子が棲みついていて、年中泳いでいました。

花見の名所、目黒川の再生水

 城南エリアの花見スポットの川と言えば、目黒川が有名です。朝日新聞東京版二〇一四年三月一三日の記事によれば、東急東横線・東京メトロ日比谷線の中目黒駅近くの桜並木に大量の花見客が押し寄せるようになったのは、東日本大震災の翌年からです。大きな災害を体験し、「身近な花を楽しもうという気分が生まれたのでは」と同記事で取材された商店主が振り返っています。彼らの売り込みで、目黒川の桜が東京メトロのポスターに使われていた影響もあったようです。そもそもこのエリアは、川沿いに『暮しの手帖』(暮しの手帖社)の元編集長の松浦弥太郎さんが営む古書店「COWBOOKS」や、人気のチーズケーキ専門店「ヨハン」、カフェやアパレルショップが軒を連ねる人気の街でした。
 城南エリアを離れる二〇二一年まで、私も遊びに行きましたが、花見シーズンは避けました。人が多いからだけでなく、春先は川の臭気が立ち上ってくるからです。しかし、その状況は改善してきたかもしれません。目黒区と東京都が、水質改善に取り組んでいるからです。目黒川で臭気などの原因となるヘドロが特に溜まりやすいのは、ちょうど中目黒あたり。ヘドロを除去し、川底を平らにならして流れをよくする工事を毎年行うほか、さらなる対策を研究しています。
 目黒川を流れるのは、通常の下水処理をしたうえで、さらに高度なろ過処理やオゾン処理を施した再生水です。一九九五(平成七)年度から、新宿副都心に近い落合水再生センターで処理した再生水を、水量が少ない目黒川と呑川、渋谷川へ送水・放流し始めました。水量を増やしたことで水質が改善し、目黒区の調査によると、中目黒駅の南の船入場で、早くも一九九六年にアユが発見されたそうです。私が呑川で見た鴨の親子も、再生水のおかげで棲むようになったのかもしれません。同じ再生水を分かち合う目黒川と呑川は、次にご紹介する渋谷川と共に、「きょうだい」川になったとも言えます。

渋谷川が暗渠化された三つの理由

 一九一二(大正元)年に発表された童謡の「春の小川」は、渋谷川の支流がモデルではないかとされる歌です。その頃の渋谷川は、本流はもちろん、たくさんあった支流のどこも、暗渠にはなっていませんでした。川だった場所にふたをして道にするのはなぜでしょう。暗渠誕生に至る経緯を、渋谷川を通して確かめていきましょう。
 渋谷川は新宿御苑、明治神宮、有栖川宮記念公園、白金自然教育園などに湧く水を集めて渋谷区内を流れ、港区に入ると「古川」に名前が替わって広尾や麻布十番などを通り、浜松町で東京湾に流れ込みます。
 渋谷川が開渠になるのは、JR渋谷駅新南口付近の稲荷橋から下流。上流は支流を含め、暗渠化したところだけでなく、流れが消えた箇所もあるそうです。『「春の小川」はなぜ消えたか 渋谷川にみる都市河川の歴史』(田原光泰、之潮、二〇一一年)によると、暗渠化された理由は三つあります。
 一つ目は、都市化。近代に流域の宅地化が進んで水田が減少すると、灌漑かんがい用水として使われなくなった小さな水路は管理が行き届かなくなり、水が流れなくなるなどして消えていきました。流域の水田は明治末期にほぼなくなり、大正時代から昭和初期にかけて、道路などに転換されました。また、宅地化や道路整備に伴い、整理された水路もあれば、暗渠化された水路もあります。
 二つ目の理由は、水害対策。舗装された道路に雨水は吸収されず、側溝から川へ直接流れ込むので水害が起こりやすくなります。支流の宇田川は、本流と合流する宮益橋あたりで水害が起きやすかったため、昭和初期に九〇メートル上流の現在の渋谷109あたりにつけ替えて暗渠化しました。渋谷川は昭和初期にはコンクリートで固める護岸工事も施され、上流も改修工事が行われて川幅を広げ、流路がほぼ直線に整えられました。
 渋谷川の暗渠でわかりやすい場所が、原宿と渋谷の間を蛇行するキャットストリートです。葛飾北斎が「冨嶽三十六景」で「隠田おんでんの水車」を描いたこの地域は、田畑が広がる隠田村という名前でした。江戸の蕎麦文化は、当時の郊外に製粉用の水車が増えて発展したのですが、渋谷川沿いにも水車があったのですね。一九六四(昭和三九)年の東京オリンピックを前にここも暗渠化され、できた道は児童公園になりました。周囲に洋裁学校が多かったこともあり、一九九〇年代になると新しいアパレルショップが次々と誕生し、「裏原宿」と呼ばれるストリートファッションの発信地に育ちます。
 三つ目の理由は、汚染が進んだことです。渋谷川も、流域の都市化で生活排水などが流れ込み汚れた川の一本でした。当時の川の汚染のひどさは、隅田川花火大会が一九六二(昭和三七)年から一九七七(昭和五二)年まで中止される要因の一つになったことからもうかがえます。川に生活排水を流していたのは下水道の整備が遅れていたから。一九六一年、東京二三区の下水道普及率はわずか二二パーセントでした。ほぼ一〇〇パーセントになるのは一九九五(平成七)年で、渋谷川に再生水が流されるようになったのと同じ年です。
 先述の書籍によると、東京府は一九三〇(昭和五)年に市内と近郊の下水道計画の方向性を決めました。渋谷川については、流域の排水を渋谷川に並行して建設される地下の下水道幹線に集め、小さな河川の多くを下水道枝線として利用するべく暗渠化を進めます。しかし、戦争の影響で工事は停滞。何度か調整をしたうえで、一九五〇年に将来を見越して計画は見直され、渋谷駅そばの宮益坂から上流の渋谷川を暗渠にし、下水道として使用するよう変更されました。下水道工事が本格化したのは、一九五九年に東京オリンピック開催が決まり、流域に数多くの会場が設けられることになって事業額が増額されてから。宮下橋(現宮下公園交差点)から上流がすべて暗渠化され、下水道幹線ができたのは東京オリンピックが開催された一九六四年。一九七〇年から翌年にかけて、宮下橋~宮益橋間の暗渠化も完了しました。
 渋谷川の暗渠化は、都市化の裏面です。たくさんの川を必要とした農村が、住宅街やオフィス街に変わると、川よりも人間が使う地面が求められます。自分たちの都合で失われた川の気配を懐古し、やがて奪ったものをもとに戻せないかと道を探っていくのも人間なのです。

「春の小川」は復活したか?

 今年の夏、渋谷川周辺を歩いてみました。「小川」を意味する名前とはかけ離れて見える、地上三五階建ての超高層ビル「渋谷ストリーム」が出発点。北側にある稲荷橋広場の下あたりの吐水口から、再生水が勢いよく流れ出ています。ここから下流約六〇〇メートルが、遊歩道の「渋谷リバーストリート」として整備されていました。
 川の東岸は、エアコン室外機が目立つビル群の「裏側」が迫っているうえ川幅も狭く、コンクリートで護岸されているので辺りの雰囲気は暗い。平日の夕方で人通りがほとんどなかったからか、刑事ドラマの犯人逃走シーンや、SF映画で怪獣が襲ってくるシーンを想像してしまいました。しばらく行くと、渋谷リバーストリートの終点、旧東急東横線の線路跡だったエリアを利用して造った、ホテルやオフィスなどからなる複合施設「渋谷ブリッジ」に到着。すぐ先に、「渋谷区ふれあい植物センター」があり、温室内の階段から二階のおしゃれなカフェに行けます。ここまで歩いたご褒美として、新鮮なハーブがたっぷり入ったピンクレモネードとチーズケーキをいただきました。
 私が好きな都会の川は、ビルや住宅が立ち並ぶ地域でも、川面の上はポカンと空が開けた憩いの空間です。本連載の第4回、第5回で紹介してきた都会の川は、いずれもそんな空間をつくり出しています。しかし、渋谷リバーストリートはビル群が迫る場所から始まるからか、開放的な気分を持てませんでした。道沿いにベンチを置き、植栽を設けたりしているので、人々がくつろぐ伸びやかな雰囲気に育つのはこれからなのかもしれません。
 渋谷川で今一つくつろげなかったのは、生き物の気配が感じられなかった影響もあると思います。しかし、再生水によって水流が復活した渋谷川には、東京都による一九九六(平成八)年度の調査で、ギンブナやドジョウ、メダカなどの生息が確認されています。またカルガモやハクセキレイ、カワセミも目撃されているようです。渋谷川の再生はゆっくりと、でも着実に進んでいる、と言えるのかもしれません。

水源を辿ってみると

 以前、明治神宮を歩いて、木立の間で加藤清正が掘ったとされる「清正井きよまさのいど」を見ました。都会の真ん中に一〇〇年かけてうっそうとした鎮守の森を育てた明治神宮は、オオタカが棲むと言われる場所です。
 前回もご登場いただいた水辺総研の岩本唯史ただしさんにお話を聞いた際、「徳川家の家臣だった内藤家の下屋敷があった新宿御苑など、東京で湧水があるところは、大名屋敷だった場所が多いです。川の水源池は都内のあちこちにあり、大田区の洗足せんぞく池も湧水でできた池ですよ」と説明されて驚きました。「水源」「湧水」と言われれば山奥を連想していた私には、大都会で水が湧くという話は不思議だったからです。勝海舟夫妻の墓がある洗足池公園は私が近辺に住んでいた折、年中散歩していた場所でした。
 東急大井町線等々力とどろき駅から平らな道を歩いて九分で、町なかで山もないのに突然うっそうとした等々力渓谷が出現する光景に驚いたこともありました。『東京水辺散歩』(陣内秀信・松田法子・齋藤彰英著、技術評論社、二〇二二年)によると、ここでは武蔵野台地の地層がむき出しになっており、水が湧く様子を見られるそうです。私が行ったときは、ポリタンクなどを持ち込んで井戸の水を持ち帰る人がいました。ただ、東京都環境局のウェブサイトに「飲用に適することを保証するものではありません」と説明がありますので、湧水が飲めるかどうかは管理者に確認したほうがよさそうです。
 今回ご紹介した明治神宮、新宿御苑、洗足池、等々力渓谷など都市の水源は、いずれも緑豊かな環境にあります。地下水が豊富な状態を保つには、雨や雪解け水、あるいは水田や灌漑用水路などから地下へと水を浸み込ませることが必要です。都市化で緑や水源、川がたくさん失われたからこそ、ウォーカブルな水辺の快適さや貴重さが際立ってきたのかもしれません。一方で、やがて地下水になる雨水を浸透させつつ、多発するようになった水害から暮らしを守る取り組みも行われています。近年、雨水を浸透させる透水性舗装を施す道路が増えていますし、東京都は都立公園などの公共施設に、雨水を一時的に溜めゆっくり地下へ浸み込ませるレインガーデンを整備するといったグリーンインフラを導入しています。
 以前、熊本市の水前寺江津湖えづこ公園に行った折、水が湧き出る様子を見られる場所がわからなかったので、ベンチで休んでいた初老のご夫婦に尋ねたところ、「これから帰る方向だから一緒に行きましょう」と言われました。お二人はこの公園で散歩をする生活がしたくて、熊本市中心部から移り住んできたそうです。歩きながら江津湖にカワセミが来ると聞き、「洗足池にもいます! でも、池に面していたカフェがなくなってしまって、周囲にカフェが少ないのが悩みだったんですよね」と答えたところ、「わかります。ここも昔、GHQがつくったカフェ以外がないので残念です」と言われ「どこも同じですね」と会話しました。湖や池があるウォーカブルな公園に、なぜカフェが少ないのか。その問題については次回、考えていきましょう。

イラストレーション=こんどう・しず

阿古真理

あこ・まり●作家・生活史研究家。
1968年兵庫県生まれ。神戸女学院大学文学部卒業。女性の生き方や家族、食、暮らしをテーマに執筆する。近著に『家事は大変って気づきましたか?』『大胆推理! ケンミン食のなぜ』『おいしい食の流行史』『ラクしておいしい令和のごはん革命』『日本の台所とキッチン一〇〇年物語』『日本の肉じゃが 世界の肉じゃが』等。

『何が食べたいの、日本人? 平成・令和食ブーム総ざらい』

阿古真理 著

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