[今月のエッセイ]
ルールの束を抱えて
先日、『女の国会』という作品で山本周五郎賞を受賞した。贈呈式の二次会で、ある作家に「新川さんは褒められるために小説を書いているのでは」と言われた。心の中で「はあああっ!? そんなわけないだろ!?」と思いながらも、表面上は穏やかに「違います」と答えたものだ。
その作家だって、私の全作品を読んだわけではないだろう。多くの読者さんに愛されそうな題材で小説を書くこともあれば、ほとんど私の趣味で、好きな話を好きなように書くこともある。このたび文庫化することになった『令和反逆六法』は、まさに後者、自分の趣味で好きに書いた小説だ。
幼い頃から「自分は宇宙人みたいだな」と思っていた。あるいは、「山から降りてきて人間に化けて暮らしているタヌキみたい」とも。周囲の人間の行動様式を自然には飲み込めなかった。人間は毎朝挨拶をする。どうして一晩寝ると、昨日の挨拶はリセットされるのだろう。目を見て話せと言われるが、あんまりジロジロ見ていると怒られる。それならば何秒くらい目を見て、何秒以上になったら目を逸らせばいいのか。写真を撮るとき、おかしくもないのに笑うのはなぜなのか。みんなが普通にやっている行動ひとつひとつに疑問を抱いていた。到底納得できないが、とりあえずルールを一個ずつ覚えて他の人の動きを真似するしかない。なんで他のみんなは普通にできるのだろう? 私だけ、どこか遠くの世界から間違って紛れ込んできたみたいだ。
現実世界での違和感と疎外感を抱え込んでいたからこそ、SF小説を読むのが好きだった。たいていのSF小説では、現実とは異なる科学技術の発展状況を下敷きに、異なる社会制度のなかで、異なる常識を持った者たちが活躍する。今の世界は絶対ではない。人々の常識や社会のルールは変わりうる。SFは現実を相対化してくれる。私たちの「世界」とはちょっと違う「ありうる世界」は奇妙で、ちょっと笑えて、しかし同時に恐ろしさも内包している。ディストピア小説や風刺小説が、SFというジャンルの中で数多く生まれているのは、そのためだろう。
SFをざっくり定義すると、「科学的な空想に基づいたフィクション」といえよう。「科学的な空想」は、「自然科学的な空想」である必要はない。社会科学的、あるいは人文科学的な空想であっても、SFである(と少なくとも私は考える)。
大学で法学を学んだ。法学は古代ローマ以来2000年ほどの歴史がある学問で、一応、それなりの発展と進化を遂げている。「人権」が発明されたり、「自由」や「平等」という概念が生まれたり、あるいは幾度もの戦争を経て、主権国家間を規律する「国際法」が発展したり。学問である以上、一定の方法論をベースに、実証可能なかたちで理論と実践が積み重なっている。その知的な営みは科学(サイエンス)そのものだ。自然科学とは方法論が異なるが、社会科学としての学問的な正統性は依然として存在する。つまり、法学的な想像力を基盤としたフィクションもSFの一ジャンルのはずだ。私はこれを勝手に「リーガルSF」と呼んでいる。
私たちはルールの束を抱えて暮らしている。適用されるルールをあらかじめ吟味して、自分の意思でこの世界に生まれてきたわけではない。私だって、写真で笑わなくていい世界に生まれることを選べるのなら、そちらを選ぶ。だけど無理な相談だ。私たちはオギャアと生まれて、この社会でやっていこうとなったときには、好むとも好まざるとも、大量のルールの束を手渡される。
でも、もし、今抱えているルールの束を増やしたり減らしたり、変えることができるとしたら? 皆さんは何を変えたいだろうか。ここに、SF的な想像力の源がある。
今ある法律が姿を変えたら、社会のありようや人々の常識も少なからず変化する。今の時代、すなわち「令和」とは異なる「レイワ」になる。ありうる他の世界の可能性、他の「レイワ」を描くのは、現在の常識に対する挑戦であり、反逆だ。そんな思いを抱えて書いたのが『令和反逆六法』である。世の中の人に怒られることは想定しているが、褒められようなんて思っていない―と
新川帆立
しんかわ・ほたて●作家。
1991年アメリカ合衆国テキサス州ダラス生まれ。弁護士を経て2021年、第19回「このミステリーがすごい!」大賞受賞作『元彼の遺言状』でデビュー。著書に「魔法律学校の麗人執事」「競争の番人」シリーズ、『剣持麗子のワンナイト推理』『先祖探偵』『女の国会』(山本周五郎賞)『ひまわり』(アルパカ文学賞大賞)『目には目を』等多数。





