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佐々木 敦『メイド・イン・ジャパン』
[第12回]日本文化はどこにいくのか?(最終回)

[連載]

[第12回]日本文化はどこにいくのか?(最終回)

岩井俊二の『LOVE LETTER』以後

 2025年4月4日、岩井俊二監督が1995年に発表したデビュー長編『LOVE LETTER』の公開30周年記念4Kリマスター版のリバイバル・ロードショーが始まりました。周知のように、この映画に主演した中山美穂さんは昨年の12月に入浴時の不慮の事故により急逝しており、追悼の意も込めた再上映なのだろうと思われます。
 本連載の最終回を書くにあたって、私は『LOVE LETTER』を映画館で観てきました。初公開以来、何度か再見する機会があったのですが、今回は特別な意図がありました。私は「外国人の観客」の目線で、この映画をあらためて観てみたいと思ったのです。
 もちろんそんなことは不可能なのですが、この映画が、そして岩井俊二という映画監督/映像作家の作品世界が、なぜ海外で、特にアジア諸国で非常に高い人気を誇っているのか、その秘密の一端に触れられたらと考えたのです。
 正直に述べれば、私はけっして岩井俊二の良い観客とは言えません。彼のフィルモグラフィの全てを観ているわけではないですし、かなり苦手なタイプの作品もあって、トータルな作家論をするには明らかに不適格です。しかし今から30年前に初めて観て以来、『LOVE LETTER』という作品だけは、言うなれば密かに偏愛してきました。現在も、この映画は岩井映画の中で独特な位置を占めていると思います。岩井作品の主調音、少なくともそのひとつはヒロインのヴァルネラビリティ(日本語にするのが難しい言葉ですが、「脆弱性」「傷つきやすさ」とされることが多い。でも私は「傷つけられやすさ」と訳したいです)だと思いますが、『LOVE LETTER』には、その要素がほとんどありません。物語としてはメロドラマなのですが、にもかかわらず、この映画は他の岩井映画と比べてウェットではなく、その分、ストーリーの人工性、その上手さが際立っています。初見の際、その意外性に満ちた筋立てと、鮮やかなラストシーンに、よく出来たミステリ小説を読み終えた時のような驚きと感動を覚えました。しかも、その後何度も観直しているのに、そのたび、私はなぜか物語の展開を違った風に記憶していて、作者である岩井俊二の巧手に翻弄されてしまうのです。今回も、そうでした。
『LOVE LETTER』は、神戸と小樽の二都物語です。神戸に住む、2年前に雪山の遭難事故で婚約者を亡くした女性と、小樽に住む図書館員の女性が手紙を交わすという設定ですが、この二人の女性を中山美穂が一人二役で演じており(二人が直接相対する場面はありませんが、物語の中でも似ていることになっています)、神戸の女性の婚約者と小樽の女性が「藤井いつき」という同姓同名であるという偶然によってドラマが紡がれます。しかも二人の藤井樹は小樽の同じ中学校の同学年で同じクラスだったのです。神戸の女性がふと思い立って、夫の卒業アルバムに載っていた当時の住所─現在はその住所は存在していない─に「お元気ですか」と書いた手紙を出してみたところ、もうひとりの藤井樹に届き(同姓同名のせいで住所を間違えてしまったのです)、小樽の女性が怪訝に思いながらもつい返事をしてしまう、という展開です。
 しかし、これまでと同様、あらすじを述べるのはこのくらいにしておきましょう。この映画は日本でも大ヒットしましたが、アジアや西欧諸国でも相次いで公開され、特に韓国では極めて大きな反応を呼び起こしました。韓国では1998年10月から長年禁じられていた日本の大衆文化の輸入の解禁(日本文化開放)が段階的に始まりましたが、『LOVE LETTER』はその最初の時期に韓国で公開された日本映画の中でも大ヒットを記録しました(正式公開以前に海賊版ビデオも出回っていたようです)。映画の決め台詞である「お元気ですか」は韓国でも流行語になり、それ以前は海外ではけっして有名ではなかった小樽には韓国から多くの観光客が訪れるようになりました。韓国人にとって小樽はポピュラーな日本の都市のひとつとなり、現在も人気俳優やK‐POPのアイドルが休暇で小樽を訪れることがあるのは、この流れによるものだと思われます。同様の現象は規模は違えど、台湾や中国、香港などでも起こり、岩井俊二は『LOVE LETTER』の監督として、その名を国外にも知らしめることになりました。
 これがきっかけとなって岩井俊二は韓国との関係を深めていき、その後の監督作品も韓国で公開されるようになりました。2002年の日韓FIFAワールドカップの際にはサッカー日本代表選手を追ったドキュメンタリー『六月の勝利の歌を忘れない 日本代表、真実の30日間ドキュメント』を監督しています。それから時間はあきますが、2017年にウェブ配信の連続短編ドラマ『チャンオクの手紙』(全4話)を、ペ・ドゥナの主演、全員韓国人キャスト、全編韓国ロケで発表しました。更にその後、『LOVE LETTER』と『チャンオクの手紙』に共通する「手紙」というアイデアを発展させるかたちで、同じ物語を日本と中国と韓国でそれぞれ映画化するプロジェクトを始動、まず中国映画として『チィファの手紙』(2018年)が、次いで日本映画として『ラストレター』(2020年)が公開されています(韓国での映画化は現時点では実現されていないようです)。
『LOVE LETTER』が公開された1995年はWindows 95が発売され、NTTのダイヤルアップ接続定額サービスが始まるなど、日本における「インターネット元年」とも呼ばれた年です。まだ一般にEメールや携帯メールは行き渡っていませんでしたが、従来の郵便システムが急速に古いものになっていくタイミングで、「手紙」を中心に据えたドラマを語ってみせた岩井の慧眼は流石だと言えます。岩井の一連の「手紙の映画」には、もうひとつ共通点があります。いずれも「喪を乗り越える物語」であるという点です。『LOVE LETTER』と『チャンオクの手紙』と『チィファの手紙』『ラストレター』は、設定は異なりますが、どれも「死者と交わす手紙」の映画なのです。手紙というものは、届くまでに時間が掛かり、誤配もありえ、届かない/読まれない可能性もある。そんなオールド・コミュニケーション・ツールを根幹に置くことで、岩井はストーリーテラーとしての才覚を存分に発揮してみせたのです。

ノスタルジーというフィクション

 本連載の第5回で、私は日本の古風なセーラー服を身に纏って世界に打って出ることに成功した新しい学校のリーダーズなどにかんして、いわば輸出戦略としての「ノスタルジーあるいはアナクロニズム」を指摘しておきました。それは「体験したこともなく、記憶の中にも存在していない過去へのノスタルジー、明確で正確な時間意識や歴史感覚を伴わない時代錯誤=アナクロニズム」であり、「私たちに「古さ」や「懐かしさ」を感じさせる何かは、それを古いとも懐かしいとも感じない他者にとってもまったく別の回路で受容されているのではなく、仮想的なノスタルジーというか、メタなアナクロニズム」として受容されているのではないか、という問題提起です。

 それ(注:セーラー服)は「昔」、昭和や平成と呼ばれた時代への、本物なのかどうかもわからないノスタルジーを呼び起こすユニ(・)フォームなのであり、しかし「昔々」ではない。つまりそれは、たかだか数十年前、十数年前に過ぎない過去を、私たちが「昔」だと思っているということでもあります。そして、このどこか倒錯的な「昔」という感覚は伝染する。海の向こうの誰かにも。(連載第5回)

 話を岩井俊二の『LOVE LETTER』に戻しましょう。映画の後半、二人の「藤井樹」が中学生だった頃に時間が巻き戻ります。主要登場人物は物語の現在時に20代後半くらいですから、約10年前ということになります。女性の藤井樹の中学生時代を(中山美穂ではなく)酒井美紀が演じているというややこしさはあるのですが、この映画はつまり、神戸と小樽という空間的な距離だけではなく、1990年代と1980年代の時間的な距離をめぐる物語でもあるわけです。中学時代のシーンはハイキーがかったソフトフォーカスの映像で描かれています。現在との差異化の意味もあるとは思いますが、校舎や教室、図書室、通学路などは、80年代の小樽というよりも、いつだかよくわからない、いわば無時間的な風景に見えてきます。物語上、これらのシーンは小樽の藤井樹の過去ということになりますが、彼女が神戸の女性に書き送る手紙の内容なのか、彼女の内心の回想なのか、それとも無人称的な「過去」なのか、判別を付け難い場面もあります。
 そして、そのような曖昧だが(それゆえに)甘美な「昔」の出現が、誰かのものかもしれないし、誰のものでもないかもしれないが、誰もがどこかで思い当たるような、フィクションとしてのノスタルジーを発動する。しかしその「昔」は、実際にはたかだか10年の近過去であるわけです。だが、むしろだからこそ、それは汎用性を帯びることになる。なぜなら「昔々」は「現在」とは隔絶した明確な「過去」だが、「昔」は「現在」から遡行する線上にあるからです。
 私は、このような時間感覚、ノスタルジーの仮構は、すぐれて現代日本的なものだと思います。戦後日本は、急激な経済発展を遂げました。それはつまり、今がすぐさま昔になってしまうということです。少なくとも日本の60年代、70年代、80年代、90年代、すなわち「失われた○年」が始まる前までのディケイドは、たった10年で時代のモードが劇的に更新されていきました。それゆえにひとつ前のディケイドでさえノスタルジーの対象になりえてしまう。実際には、そこには現在と変わらぬものもあるし、現在とはまるで違うところもある。当然のことです。にもかかわらず、私たちは「あの頃」を遠く懐かしい過去のように感じてしまうことがある。それは現実の時間の進みゆきとは別の、変化の速度のせいです。『LOVE LETTER』が想起させるのは、そのようなフィクショナルな懐かしさだと思います。
 そしてそれは日本と同じような歴史を歩む他国においても機能する。韓国で『LOVE LETTER』を大ヒットさせた観客は、隣国/異国である日本の物語として以上に、いうなれば自分の物語でもあるかのように、そこで描かれる「昔」を受け入れたのだと思います。もちろんこの映画の勝因は、まず第一に岩井作品の中でもひときわ巧みなストーリーにあることは確かです。しかし見事な伏線回収と爽やかで切ないサプライズを兼ね備えた卓抜な筋運びと同じくらい、ノスタルジーの仮構がその後の韓国映画やドラマに与えた影響ははかり知れません。そこで描かれる「昔」が実際の過去にどのくらい似ているのかは問題ではない。なぜならばノスタルジーとは記憶というより想像力に属する感覚であるからです。
 岩井俊二は、2020年の朝日新聞のインタビューで、「(『LOVE LETTER』の)何が韓国人の心をつかんだのでしょう」という記者からの問いに「身近な何かを感じてもらえたのかもしれません」と答えています。シンプルだが実感のこもった発言だと思います。しかし同時にそこには、ここまで述べてきたような複雑なメカニズムも働いています。『LOVE LETTER』に限らず、『リリイ・シュシュのすべて』(2001年)、『花とアリス』(2004年)、『リップヴァンウィンクルの花嫁』(2016年)などのような、岩井俊二的な題材や映像センスは、現在に至るまで、韓国のポピュラーカルチャーのあちこちに見出すことができます(たとえばK‐POP第4世代を代表する存在だったNewJeansのプロデューサー、ミン・ヒジンは─本人は認めていないようです{hlb}が─明らかに岩井俊二から強い影響を受けていると思います)。韓国だけではありません。岩井俊二の「汎用性」は、日本以上の早回しでポストモダン化しているアジア諸国に共通するものだと思います。岩井が描き出す「昔」、何時のものでも何処のものでも誰のものでもないノスタルジーは、海を越えて広がっていきつつあります。

日本製文化(メイド・イン・ジャパン)のゆくえ

 本連載のテーマは「日本文化の海外進出」でした。第1回で私は「日本/文化」の三つの特殊条件を挙げておきました。

(1)島国であること
(2)日本語というマイナー言語を使用していること
(3)日本人という「単一民族幻想」が支配的であること

 地理的条件、言語的条件、アイデンティティ。マージナルでマイナーでマイノリティ。これらは「輸入文化」にさまざまなバイアスやフィルタリング、加工変形をもたらしてきましたが、それは「輸出」も同じです。日本文化が海外に向かうためには、文字通り海を越えなければならず、いずれ必ず、日本語を使用し続けるか否か、「日本人」であり続けるか否かの選択を迫られる。まとめて言えば、次のような問いです。

 ニッポン人になるか、それともガイジンになるか、この二択しかないのか? 第三の選択は考えられないのだろうか? 「日本の日本性」が前提条件であるとして、過度な日本らしさの仮装でもなければ、日本的なものの完全なる抹消でもない、三つ目の道。それはやはり「日本の日本性」を何らかの仕方で利用(逆利用?)することになるのだと思いますが、ではどういう手段が、いかなる戦略が、そこにあり得るのだろうか? (連載第1回)

 日本文化のグローバル商品と言えば、第一にアニメやコミック、ゲームだと思いますが、この連載では(私がそれらの分野に関心が薄いという理由だけではなく)、そのようなすぐに思い浮かぶようなことではなく、芸術文化のそれ以外のジャンルの可能性を探ろうとしてきました。具体的には、YOASOBI、村上春樹、濱口竜介、岡田利規(チェルフィッチュ)、岩井俊二、などです。他にもたとえば村上隆の名前が挙げられるかもしれませんが、私には世紀の跨ぎ目に村上が採ってみせた戦略は─「日本は世界の未来かもしれない」と宣言文で高らかに謳った「スーパーフラット(超平面的)」という理論武装も含めて─爛熟しつつあった日本のアニメ/ゲームのキャラクター/オタク文化のアートへの応用(アプロプリエーション?)であり、現時点から見ると一時代前の感を拭えないとも思います(良い時代だったとは思いますが)。その後、2010年代から日本政府が推進してきた、いわゆる「クールジャパン」も、先の「特殊条件」をカッコに括ることで、やみくもに「日本の日本性」をポジティヴに見(せ)ようとする姿勢に感じられてしまいます。
 そうではなく、目を背けようもない「日本の日本性」のマイナス面をしかと見据えた上で、ニッポン人でもガイジンでもない「第三の選択」を模索しなくてはならない。端的に言えば、それは「日本の日本性」を手放すことなく(だがそのことに無意味なプライドを抱くことなく)、「日本人」であり続けながら(前と同様)、むしろその負性をバネにして「日本」の「外」(必ずしも空間的な意味でなくともよい)に出て、グローバルではなく、ローカル(日本)と無数のローカル(自分が今いる場所)を接続し、重ね合わせるようにして、文化的な表現を試み、こしらえ、育むことです。
 連載第1回でも触れたように、1970年代初頭、はっぴいえんどの『風街ろまん』というアルバムが、のちに「日本語ロック論争」と呼ばれる議論を巻き起こしました。文字通り、それは「日本語でロックは可能か」を問う論争でした。西欧出自のポピュラー音楽であるロックは、英語という言語に根ざしている。まったく異なった言語である日本語でロックをやろうとしても、本質的なところで上手くはいかない、というのが否定派の論調です。しかし、はっぴいえんど、中でも作詞を担当していた松本隆は、まるでひらがなで綴られているかのような日本語ならではのたおやかな言語表現と、そのような繊細なことば遣いによって描き出される日本の、適度な湿り気を帯びた、だがどこか超然とした距離感のある風景─それは岩井俊二の「風景」に繫がっています─をロックバンドの演奏に乗せることで、まさに「日本語ロック」というべき音楽を提示してみせました。それは一種の発明だったと言っても過言ではありません。それから十数年後に、ほぼ同じことが日本語ラップで再び繰り返されることになります。アメリカの黒人社会から生まれたヒップホップという文化に属するラップを日本語でやることは可能か? 可能かどうかではなく、とにかくやってみ(せ)ることで可能にしていったのです。なぜならば、英語が使えないのだから、日本語でやる以外にないからです。その時、日本語ラップの日本語は、少しずつ、あるいは思いの外大胆に変化し始めたのでした。
 それは「輸入」の話でした。ならば、このプロセスを逆向きにしてみてはどうか? かつて「日本語」は海外進出の高い壁だった。いや、今だってそうです。しかし、だからといって「日本語」を捨てることはできない。確かに努力次第で捨てることはできるかもしれないが(捨てざるを得ないこともあるかもしれないが)、その次は英語使用者たちの国際的な競争に参加しなくてはならなくなる。その意気を持つのならそれも良いでしょう。しかし、それは本連載とは別の次元の話です。
 ロックを日本語ロックに、ラップを日本語ラップに変換したように、J‐POPを、日本映画を、日本語小説を、日本の現代演劇を、「日本」の「外」の、別の文脈に置き直すこと。この試みにもっとも意識的に取り組み、目覚ましい成功を収めているのが岡田利規であることはすでに論じた通りです。私が思うに、岡田が編み出した方法は現時点での「日本文化の海外進出」の最適解のひとつです。しかし、それだけが正解であるわけではありません。答え方は、他にも(少なくともまだあと幾つかは)あるはずです。
 言うまでもないことですが、そもそも現代日本社会は、西欧化の極限と言える様相を呈して久しい。日本人の多くにとっては、特にそう意識せずとも、輸入文化の方が身近であり、自国である日本の伝統文化、伝統芸能は、よく知らないし、楽しみ方もわからず、興味関心も薄い(もちろんこれはごく一般的な話であって例外はあります)。だが同時に日本の輸入文化は、オリジナルとはさまざまなズレや差異がある。嫌でもそれは生じてしまうし、紛れ込んでしまう。だとしたら、ズレや差異を有効活用すればいい。あるいは、本来は無視することなどできないあらゆるズレや差異を超えて、一定以上に成熟した国家や社会、都市生活に共通する問題、世界の少なからぬ人々が何かしら思い当たるところのあるだろう感情や感覚にフォーカスして、たとえ仮初めでも普遍性の方に手を伸ばす。「日本だから」と「日本なのに」をひたすら循環させつつ、日本を訪れたことがなく、日本のことを全然知らない、日本とはまったく無関係な人たちに向けて、ニッポンのカルチャーを差し出してゆく。「日本らしさ」は摩耗するか平準化されるかに陥りがちですが、良くも悪くも「日本の日本性」はけっして消えてくれない。しかしこれは日本が特殊で特別であるということではありません。日本以外の国々の文化にも、それぞれに前提となる諸条件があります。条件とは一種の制限ですが、潜勢力でもある。
 今から80年以上前(1942年)、ある作家が、こんなことを書きつけていました。

 然しながら、(注:ブルーノ)タウトが日本を発見し、その伝統の美を発見したことと、我々が日本の伝統を見失いながら、しかも現に日本人であることとの間には、タウトが全然思いもよらぬへだたりがあった。即ち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。説明づけられた精神から日本が生れる筈もなく、又、日本精神というものが説明づけられる筈もない。(坂口安吾「日本文化私観」)

 この文章を、ナショナリズムから切り離し、明澄なアイロニーとして読むこと。私たちは何度でも、ここに立ち戻る必要がある。メイド・イン・ジャパンの輸出文化は、この毅然とした諦念からしか始まらない。
 だって、そうではないでしょうか?

※長い間、ご愛読ありがとうございました。本連載は、集英社新書より刊行予定です。

佐々木 敦

ささき・あつし●思考家/批評家/文筆家。
1964年愛知県生まれ。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。芸術文化のさまざまな分野で活動。著書に『「教授」と呼ばれた男──坂本龍一とその時代』『ニッポンの思想 増補新版』『増補・決定版 ニッポンの音楽』『映画よさようなら』『それを小説と呼ぶ』『この映画を視ているのは誰か?』『新しい小説のために』『未知との遭遇【完全版】』『ニッポンの文学』『ゴダール原論』、小説『半睡』ほか多数。

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