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今月のエッセイ/本文を読む

杉井 光『神曲しんきょくプロデューサー』(集英社文庫)刊行に寄せて
『ヒッキー・ハイウェイ』

[今月のエッセイ]

『ヒッキー・ハイウェイ』

 高校卒業後の一時期、僕は同じ高校出身のひとつ歳下の後輩H君とデュオを組んでいた。二人とも高校で音楽部に所属していて、ビートルズやサイモン&ガーファンクルのコピーで定期的に校内コンサートを開いて音楽室にそこそこの客を集め、生徒や音楽教師から好評をいただいて、ちょっと音楽の才能があるのではないかと勘違いしていたのだ。
 デュオといっても、なにか目立った活動をするでもなく、週に一回か二回、真夜中に落ち合って、スタジオでデモテープを作ったり、ビルの屋上でギターを鳴らしながらハモって階下の住人に怒られたり、河川敷でだべりながら「まずは吉祥寺の駅前でストリートライヴからかなあ」なんて有言不実行ぶりを晒したりしていただけだ。
 僕は二十代最初の、H君は十代最後の、それぞれ貴重な時間を無駄遣いしていた。このまま二人でだらだら歌っていてもどこにもたどり着かないことはお互いわかっていた。けれど、どちらからも言い出せなかった。僕は夢をあきらめるにはあまりにも働く気力がなさすぎたし、H君は夢をあきらめるにはあまりにも歌がうますぎた。なにひとつ成し遂げられないまま三十過ぎてどうしようもなくなった自分を想像するには二人とも若すぎた。

 ある夜、H君の車に乗って、行くあてもなく真夜中の川崎街道を西へと走っているときだった。会話が途切れ、信号がいくつも流れ過ぎ、やがてH君はなにか答えを探すみたいにしてカーラジオをつけた。若い女の子のパーソナリティがきらきらした声できらきらした近況を喋っていた。どこにでもいる可愛らしい普通の女子高生みたいな喋り方だったので、だいぶたって音楽がかかるまで、それが宇多田ヒカルだと気づかなかった。
 宇多田ヒカルの歌声はほんとうに独特だ。ハスキーヴォイス、の一言ではとても表現しきれない味がある。もし黄金がびることがあるのだとしたらあんな味になるのではないかと思う。けれどラジオで楽しそうに冗談を飛ばす宇多田ヒカルの声からはあの歌声の深さと苦味はまるで感じられなかった。宇多田ヒカルだと知らずに聴いているときにまず一度惚れた。
 本稿を書き出す前は「これが僕の First Love だった」みたいな締めにするつもりだったが、実際に文章にして自分で読み返してみたところあまりにも寒すぎるので削除した。僕にも羞恥心はある。

「ああ、これ、宇多田ヒカルだ」とH君は言った。
「ほんとだ。なんか普通の女子高生みたいに聞こえる」と僕は答えた。
 宇多田ヒカルは僕の五歳下なので、実際に当時は女子高生だった。どこにでもはいないし、まったく普通ではないが、可愛らしい女子高生だった。宇多田ヒカルだと知ってからもう一度惚れた。
 府中の僕のアパートまで戻ってきて、僕はH君の車のトランクからギターを下ろし、来週どうするといった話もせずに別れた。以来、彼とは知り合いの葬式で一回顔を合わせたきりだ。

* * *

 十年以上が過ぎて、僕は Twitter 上で宇多田ヒカルと再会した。くまの魅力について一心につぶやく彼女は、H君と僕のモラトリアムを蹴り壊してくれたあの頃と変わらず破壊的に可愛らしくて、僕はみたび惚れた。これが僕の Third Loveだった。あっ、けっきょく書いてしまった。

 それからさらに何年かして、『小説すばる』から原稿依頼をいただき、音楽にまつわる小説にしてもらいたいと聞いたとき、僕が思い浮かべたのはやっぱり宇多田ヒカルのことだった。
 憧れを未加工のまま文章に焼き付けることはひどく恥ずかしい。でもこのときに限って、僕の羞恥心はうまく働かなかった。読み切りの一篇が掲載された一年後には連載化の話が来て、その一年後には『神曲かみきよくプロデューサー』と題された単行本にまとめられた。宇多田ヒカルはその間に「音楽をやめないために音楽をやめ」たり、また音楽の世界に戻ってきたりしていた。僕はといえば、いまだに自意識過剰の壁に阻まれて彼女の新譜を聴けないでいるのだけれど、今回の文庫収録を良い機会だと受け取って、あの二十歳の夜の自分をそろそろ解放してやろうかと思っている。

杉井 光

すぎい・ひかる●作家。
1978年東京都生まれ。2006年『火目の巫女』で第12回電撃小説大賞銀賞を受賞し、デビュー。主な著書に『神様のメモ帳』『さよならピアノソナタ』『放課後アポカリプス』『楽園ノイズ』『この恋が壊れるまで夏が終わらない』『世界でいちばん透きとおった物語』等。

『神曲プロデューサー』

杉井 光 著

集英社文庫・発売中

定価 726円(税込)

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