[連載]
[第8回]チーズの原料を知らない町育ち
日本語を母語とする日本人の私だが、職業はドイツ語圏文学の翻訳で、夫はドイツ人。だから仕事でも家庭でも、使う言語は日本語とドイツ語だ。ところが、暮らしているのはポルトガルの山奥。リスボンのような都会ならともかく、ここではポルトガル語以外の言葉は通じない。そんなところに無謀にも家を買ったのが約十年前。いったい言葉はどうするつもりだったのかと、当時の自分の胸ぐらをつかんで問いただしたい気分である。
試練は初日にやってきた。C荘の購入契約書に署名したその日、晴れて自邸となった家に足を踏み入れたとたん、窓の前に人が現れた。いまではここポルトガルで最も親しい友となったグラシンダだった。慌てて窓を開けると、グラシンダは笑顔でなにやら話し始めたが、ひとこともわからない。夫はまだ車から荷下ろしをしており、家のなかには私ひとり。英語を試して、下手くそなフランス語を試して、やけくそでドイツ語と日本語まで試したが、やはり通じない。そのうち夫もやってきたものの、もちろん事態はなにも変わらなかった。
ところがそこで、グラシンダが余裕の表情で携帯電話を取り出し、どこかにかけて、こちらに手渡した。通話の相手はグラシンダの長女エレナで、イギリス在住。海の向こうから
そこからC荘に滞在した十日ほどのあいだ、グラシンダは何度かまた訪ねてきて、「うちにおいで」と誘ってくれた。C荘の真向かいに見えるS村を指さしながら自宅への道順を説明してくれるのだが、もちろんまったくわからない。それでもあまりに何度も誘われるので、無視するのは失礼ではと、ある日私は嫌がる夫を引きずるようにしてS村に向かった。紙の小型独葡辞書を握りしめて。
村に入り、道端に座っておしゃべりしていた年配のご婦人たちに「グラシンダ、グラシンダ」と連呼して、彼女たちが指さす方へと歩いていくと、グラシンダが庭で花の世話をしていた。隣にいるのは彼女の夫アントニオに違いない。私が知っているポルトガル語は当時ふたつしかなく、そのうちのひとつである「ボン・ディーア(おはよう)」を「ボンディアー」と間違ったイントネーションで発して、挨拶したつもりになった(イントネーション以前に、そもそも夕方のその時間に使う挨拶ではなかった)。目の前のふたりがなにか言ったがわからず、しばらく無言で向き合う気まずい時間が流れた。私の背後で夫が「だから嫌だったんだ、クソ、クソ」とドイツ語で毒づくのが聞こえ、私は自分が無理やり引っ張ってきたのを棚に上げて腹を立てた。愚痴を吐く暇があったら窮地を脱する方法を考えんかい。とりあえず「やかましい!」と背後にドイツ語で一喝しておいて、目の前のふたりにポルトガル語でなにか言おうと必死で紙の辞書をめくった。
そのとき、グラシンダがふいっとどこかに行ってしまった。不機嫌そうな顔をしたアントニオひとりと向き合って、さらに気まずい沈黙の数分が過ぎた後、ようやく戻ってきたグラシンダは若い男を連れており、その男が流暢な英語を話し出した。救世主登場である。若者はウーゴという名で、リスボン在住の大学生。村出身の両親とともに帰省中だった。ウーゴの通訳によって、私たちはグラシンダの家に招き入れられた。そのうちウーゴの両親だの親戚だのがわらわらやってきて、あれよあれよという間に大人数でなんだか陽気な酒盛りになり、おいしいワインとチーズに舌鼓を打って、最後はほろ酔いで帰宅した。
この件をきっかけに、私たちはベルリンに帰ると早速教師を探して、本格的にポルトガル語を学び始めたのだった。
英語と同様、世界中で話される言語であるポルトガル語は、国や地域によって語彙も文法も発音も異なるが、現在では二億人超の人口を擁するブラジルのポルトガル語が実質的に世界標準となっている。つまりポルトガル語とはすでにブラジル語なのであり、人口たった一千万人のポルトガルで話されるポルトガル語は、いまや「ブラジル語のポルトガル方言」扱いである。だからベルリンでも語学教師はブラジル人ばかりで、「ポルトガルのポルトガル語」を教えてくれる人を見つけるのは難しかった。ところが、自宅から近い語学学校に問い合わせをしたら、なんと経営者本人から「私ポルトガル人よ」という返事があった。私たちはこの幸運を喜び、さっそく彼女から個人授業を受けることにした。
結論から言うと、その小さな語学学校の経営者兼ポルトガル語教師のジョウジーは、ブラジル人だった。が、祖父母がポルトガル人で、子供のころしょっちゅうポルトガルを訪ねたため、「ポルトガルのポルトガル語」もできるのだという。実際、文法に関してはジョウジーはきちんとポルトガルのそれを教えてくれた。問題は発音だった。ジョウジーが私たちに教え込んだのは、ポルトガル人の発音ではなかった。しかしブラジル人のそれでもなかった。残念ながら「ブラジル人が考えるポルトガル人の発音」だったのだ。特に単語の語尾。ジョウジーに師事していた数年でついた癖はなかなか抜けず、今日にいたるまで、私たちの語尾の発音はブラジルでもヨーロッパでも使われない独特のものだ。
さて、外国語とは失敗を繰り返すことで習得していくものだとよく言われる。私のポルトガル語にまつわる失敗談も、一晩中語っても尽きないほど豊富だ。
C荘を手に入れて間もないころ、S村の新参者である私たちは、よく皆に質問攻めにされた。あるとき村の女性たち数人に取り囲まれて、仕事はなにかと訊かれた。ちょうどジョウジーの授業で、自分の職業について話す練習をしたばかりだった。夫が練習どおりに「科学者です」と答えると、女性たちは私のほうにずいっと迫ってきて、「あなたは?」と訊いた。ところが、必死に記憶を探るものの、どういうわけか「翻訳」「本」「文学」といった私の仕事を表すキーワードがひとつも出てこない。焦ったが、仕方がない、ここは語学学習者に必須のスキル「言い換え」だ、と方針転換して、「家でコンピューターを使って働いている」と言うことにした。これならなんとかなりそうだ。ところが、私が「家(casa)」と言った瞬間、皆に「ああ、主婦(dona de casa)ね」とあっさり納得されてしまった。私が最初に言い淀んだのは「職業」を持たないせいだったのだと解釈されたのかもしれない。そういうわけで、私は村人の一部にはいまだに専業主婦で通っている。特に必要を感じないので訂正もしていない。
誤解はほかにもある。グラシンダとアントニオの家で夕食をご馳走になっていたとき、彼らが飼っている
ところで、日本と同じでポルトガルにも「外国語=英語」という、もはや無意識レベルの思い込みがあるのは興味深い。外国人は皆英語を話せると思われているため、「ねえ、娘とちょっと英語で話してくれない?」と頼まれたり(話してみると高校生の娘さんの英語のほうが私よりうまい)、歯科医に「歯周病って英語でなんていうの?」と唐突に訊かれたり(もちろん知らない)。また、外国人が話す言葉はすべて英語だという刷り込みから、夫と私のドイツ語の会話も英語だと思われているようだ。日本で「ポルトガル(またはドイツ)に住んでいる」と言うと、よく「へえ、英語ぺらぺらなんですね」と感心されるのと同じ現象である。
容赦ない英語帝国主義にはおおいに反発を覚えるものの、残念ながら「英語なんて田舎じゃ通じないよ」と一蹴するわけにもいかない現実もある。日本で暮らすドイツ人から、「日本に来たら英語がうまくなったよ」という笑い話を何度も聞いたことがあるが、そのからくりがいまとなっては理解できる。言葉がわからない場所では、わずかなりとも意思疎通を可能にしてくれる共通言語の存在がどれほど有難いか。その共通言語は、現在では誰もが学校でひととおり習う英語である確率が高いのだ。たとえ互いに片言であっても、英語が通じる人に出会った瞬間、混沌の暗闇にぱああっと光が見える。そして不思議なことに、高校時代に覚えたきりどこかに眠っていた英語の単語や言い回しが、火事場の馬鹿力で突然出てきたりする。
しかし、もちろんそれも「火事場」にいる限りの話だ。英語ではなく、その土地の言葉を使って暮らすほうが、生活全般がずっと楽にも豊かにもなるのは当然のこと。そうなれば、非常手段だった英語はやがて必要とされなくなり、眠りにつく。しかし私の個人的な体験では、英語は完全に眠り込む前に、上達中の現地の言葉と混ざり合って無残な有様を呈する。ふたつの外国語のレベルが同じくらいになると、脳のなかで混同が起きるようなのだ。
私が曲がりなりにも使える外国語は、現在のレベル順にドイツ語(商売道具)、英語(中高大で学んだ)、ポルトガル語(四十代で学び始めた)。ドイツ語を学び始めたのは大学生のときなので、最初はもちろん英語のほうがうまかった。しかしドイツで暮らし、ドイツ語が上達するにつれて、そのうち英語を話そうとしても、単語は英語、文法はドイツ語という不思議な言語しか出てこなくなり、やがて英語はすっかり脳の奥で眠り込んでしまった。それから約二十年後、言葉のわからないポルトガルに来たとたん、英語は非常手段として再び目を覚ました。だが栄華はかなく、現在またもやポルトガル語に侵食されつつある。ドイツ語上達過程での体験に照らすと、このままポルトガル語が上達していけば、今回もおそらく英語はどこかの時点でまずポルトガル語と混ざり合い、やがて再び眠りにつくだろう。
面白いことに、私の場合こういった混同が起きるのは、ふたつの言語がどちらも外国語である場合のみだ。母語(日本語)と外国語(たとえばドイツ語)のあいだでは、単語レベルで表層的な混同が起きてルー大柴のような話し方になってしまうことはあっても、自分でも気づかないまま別の言語を話しているといった深い混同はない。私のイメージでは、頭のなかに言語を切り替えるギアのようなものがあって、たとえば母語である日本語からドイツ語なら五速から四速にスムーズに切り替わり、脳の色が変わる感覚がある。しかしどちらも二速の外国語どうしだと、ギア変換ができず色が混ざり合う。面白いもので、ふたつの外国語の場合でも、私のドイツ語力とポルトガル語力には歴然とした差があるので、混同する場合もせいぜいルー大柴になる程度で済む。四速と二速だから切り替え可能なのだ。
ドイツ語にせよポルトガル語にせよ、英語と混同が起きるのは、どれもインド・ヨーロッパ語族に属する言語だからだろうと考えたこともあった。しかし違った。夫が生きた証拠である。文法にも語彙にもなんの共通点もない日本語とポルトガル語が混ざるのである。ポルトガル人に「オラ(やあ)、ラケルさん」といきなり「さん」付けで呼びかけたあとずっと日本語になったり、日本で私の家族に反射的に「ポルケ(なぜ)?」と問いかけたりして、本人は気づかない。数字もよく取り違えている。おそらく彼のポルトガル語と日本語は現在ほぼ同レベルなのだろう。
ということは、夫の話す日本語が、私たちのポルトガル語のレベルだということか。普段、私はよく「ポルトガル語うまいね」と褒められる。いやうまくはないでしょ、と真顔で返しそうになるが、日本で日本人相手に「明日、出かけ、しますか?」「いまお風呂行く、いいですか?」と話す夫の日本語を聞くと、納得できてしまう。ちょうど「うまいね」と褒めたくなる絶妙なレベルの日本語なのだ。「アリガト」「コニチハ」といった、こちらが想像する「外国人のカタコト」ではもはやなく、動詞や形容詞の活用に不自由があるうえ語彙も貧しいものの、なんとか意思疎通が可能な夫の日本語には確かに感心するし、懸命なのがわかるから褒めたくもなる。一方、真に流暢な日本語を軽々と操る外国人には、逆に失礼な気がして「日本語うまいですね」とは言えないものだ。つまり、ポルトガル語うまいね、と言われるうちは、そうでもないということだ。
とはいえ、結局のところコミュニケーションの成否は、言葉よりも度胸と愛嬌に懸かっている。かつてC荘の窓の取り換えを依頼した職人に何度も約束をすっぽかされた時期があった。私たちはそのたびに彼の工房に出向いて催促をした。職人は毎回謝り、新しい期日を約束する。ポルトガルではよくあることだ。何度目かに出向いた際、工房にはシャッターが下りていた。夫が「ここで彼が戻ってくるのを待とう」と言ったが、私はいい加減頭に来ていた。語学初心者にとって身振り手振りの助けを借りられない電話は鬼門。だが怒りの勢いを借りた私は、「C荘の持ち主です、いま工房前にいます」という文章だけを脳内で事前練習して、電話をかけた。しかし電話の怖さは、こちらが話せない点ではなく、相手の言うことがわからない点にある。そのときも案の定、職人の答えが理解できず、「え? え?」を連発する私に、相手もこれは駄目だと悟ったのだろう、「十分で戻る」と言って電話を切った。「いま十分って言った?」と夫と謎解きしながら待っていたら、職人は本当に十分で戻ってきた(やればできるじゃないか)。もちろんこのときも「ごめんね」とビールを
一方の夫は度胸より愛嬌で勝負する方針のようだが、私が見るところ、その愛嬌はうちに通ってくる猫のテルにしか通じていない。実は夫は私と共通の四か国語のほかにフランス語、さらになぜかフィンランド語まで少しできる。猫語も堪能だ。それなのにそもそも人間との会話が得意でないため、周りにはポルトガル語があまりできないと思われている。そんな夫を見ていると、言語を学ぶ意義とは人との意思疎通ではなく、視野を広げ、自身の世界を豊かにすることにあるのだと実感する。
イラストレーション=オカヤイヅミ
浅井晶子
あさい・しょうこ●翻訳家。
1973年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程単位認定退学。2003年トーマス・ブルスィヒ『太陽通り』でマックス・ダウテンダイ翻訳賞、2021年ジェニー・エルペンベック『行く、行った、行ってしまった』で日本翻訳家協会賞翻訳特別賞受賞。訳書にイリヤ・トロヤノフ『世界収集家』、トーマス・マン『トニオ・クレーガー』、エマヌエル・ベルクマン『トリック』、ローベルト・ゼーターラー『ある一生』、ユーディト・W・タシュラー『国語教師』『誕生日パーティー』、ユーリ・ツェー『メトーデ 健康監視国家』ほか多数。