[連載]
[第9回]是枝裕和と濱口竜介
『ドライブ・マイ・カー』の大ブレイク
濱口竜介監督による長編映画『ドライブ・マイ・カー』は、2021年のカンヌ国際映画祭のコンペティション部門で初公開され、日本映画としては初の快挙だった脚本賞(濱口監督と大江
『ドライブ・マイ・カー』は世界の名だたる雑誌やメディアで年間ベストに選出されており、まさに国際的な大ブレイクと言ってよいと思いますが、濱口監督は『ドライブ・マイ・カー』以前から海外での評価を急速に高めていました。神戸での長期に及ぶワークショップを経て制作された『ハッピーアワー』(2015年)がロカルノ国際映画祭で最優秀女優賞(この映画はワークショップ参加まで演技経験がまったくなかった者を含む4名の女性が主演)を受賞したことは当時大きく報じられました。続く『寝ても覚めても』(2018年)でカンヌのコンペ部門に初出品、シナリオを共同執筆した黒沢清監督『スパイの妻〈劇場版〉』(2020年)がヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞(最優秀監督賞)を受賞、日本公開は前後しましたが『偶然と想像』(2021年)でベルリン国際映画祭の銀熊賞(審査員グランプリ)を、『ドライブ・マイ・カー』以後も『悪は存在しない』(2023年)でヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞(審査員大賞)を受賞と、カンヌ、ベルリン、ヴェネツィアは「世界三大映画祭」とも呼ばれており、濱口竜介の名前はあっという間に世界中の映画ファンから認知され、翻って日本における知名度も飛躍的にアップすることとなりました。
しかし、やはり『ドライブ・マイ・カー』のアカデミー賞は非常に大きかったと言えます。ヨーロッパの国際映画祭のみならば濱口監督の東京藝術大学大学院での恩師でもある黒沢清がすでに数々のノミネートや受賞を果たしていましたし、あとで述べるように是枝裕和という先行者もいます。しかし『ドライブ・マイ・カー』のアカデミー国際長編映画賞は2009年の滝田洋二郎監督『おくりびと』以来であり、受賞はしませんでしたが日本映画で史上初めて作品賞と監督賞というオスカーの主要賞の候補になったことも話題になりました。特筆すべきは『ドライブ・マイ・カー』が、日本やヨーロッパのみならず、アメリカでも外国(語)の独立系映画としては興行的に大成功と呼べる結果を出したことです(最終的な数字は不明ですが、全米260以上の都市、300館以上の劇場で上映されており、興行収入は1ドル119円換算で約2・4億円を突破と当時の記事にあります)。もちろん日本でもロングランヒットになっており、上映時間が約3時間もある作品であることを考えると、これはもう完全に破格のブレイクと言えます。実際、これ以後、濱口監督は名実ともに日本映画の、そして世界の映画のトップランナーのひとりに躍り出ました。
では『ドライブ・マイ・カー』は、なぜこれほどの大成功を収めたのでしょうか?
第一の注目点は、ここまで敢えて触れていませんでしたが、周知のように、この映画が村上春樹の複数の短編小説を「原作」としていることです。いずれも連作短編集『女のいない男たち』所収の「ドライブ・マイ・カー」「シェエラザード」「木野」を
原作の「ドライブ・マイ・カー」は次のような話です。「俳優の
第二の変更点、むしろ追加点と呼ぶべきかもしれませんが、音の葬儀まではいわば映画の第一部で、その後、物語の舞台は東京から広島に移動します。これは小説にはまったく存在しない展開です。原作で家福は稽古場やドラマの収録に通うためにみさきが運転する車に乗るのですが、映画では上映開始約40分が経過して初めて出るメイン・タイトルとともに家福は自分で車を運転して広島までやってくるのです。音の死からすでに2年が経過しています。家福は広島で開催される国際演劇祭でアントン・チェーホフの『ワーニャ伯父さん』を演出することになっているのです。小説だと車の接触事故がきっかけで緑内障が判明し、運転出来なくなった家福に修理工場の経営者がみさきを紹介するのですが、映画では演劇祭の規定で家福は滞在期間中に自分で運転することを禁じられ、ドラマトゥルク兼韓国語通訳のユンスがみさきを推薦します。原作にも『ワーニャ伯父さん』は出てくるのですが、それは「明治時代の日本に舞台を移して翻案した『ヴァーニャ伯父』」で、家福は「ヴァーニャ伯父」の役を演じます。しかし映画では家福が演劇祭の企画で『ワーニャ伯父さん』を「多言語演劇」として演出することになり、そのオーディションでアジア各国から集まった俳優の中に音の不倫相手だった高槻がいるのです。
第三の追加点は今記した「多言語演劇」です。映画の家福は俳優であるとともに気鋭の演出家でもあるという設定で、広島に行く前にもサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を二言語で上演する場面が出てきます。家福はその『ゴドー』の上演で主役の片方を演じているのですが、彼は日本語で台詞を言っており、もうひとりの外国人だと思われる俳優は別の言語で喋っています。家福演出の『ワーニャ伯父さん』も同様で、ワークショップに集った多国籍の出演者たちによって、日本語、韓国語、北京語、フィリピン語、インドネシア語、ドイツ語、マレーシア語、英語、そして韓国手話で台詞が発され、ミーティングでは英語が使用されています。つまり家福版『ワーニャ伯父さん』には「翻訳」という要素が存在しないのです。俳優全員がこの上演で使用される言語の全部を解することはほぼありえないし、観客はむろんのことです。映画にも稽古中に齟齬や不調が生じる様子が描かれています。普通ではまず考えられない上演形態ですが、当然ながら濱口監督は意図的にこのような特殊過ぎる設定を採用したわけです。いったい何故なのでしょうか?
このことを考える鍵となるのは、韓国手話で話すユナの存在です。彼女はユンスの妻ですが、そのことを隠してオーディションに応募し、ワーニャの姪のソーニャ役を射止めます。手話は音声言語と同様に基本的に国ごとに分かれているので、たとえば日本の手話を習得していても韓国手話は理解出来ません。ユナは「多言語演劇」に更なる位相を付与しています。彼女の手話による台詞は、夫のユンスを除けば、他の俳優たちも、家福も、観客も、ひと言も理解することが出来ません。だがそれでも、ソーニャが語りかけると、ワーニャはそれに応えるのです。彼女が理解しえない、別の言語で。
ここまで来ると村上春樹の原作とはまったく無関係になっていますが、現実には(よほど実験的な企画でない限り)不可能な言語のユートピア(どこにもない場所)的な状況が、演劇の舞台という特異な空間に奇跡的に生起するさまを、濱口監督は映画の中で描いてみせたわけです。この試みはさまざまな解釈が可能ですが、言語のみならず、国籍やその他の種々の属性を異にする人同士が、互いの乗り越え難い差異を踏まえつつも相手を尊重し理解を深めようとすることでコミュニケーションを成立させ、繫がり合うという、敢えて硬い言葉を使うなら国際協調の理想と理念ともいうべき状態が、『ドライブ・マイ・カー』の後半には出現します。濱口監督は原作には一切存在していなかったこんなオリジナルの展開を物語るために、この長い映画のかなりの部分を費やしています。
まとめると、(1)村上春樹の原作。(2)ヒロシマという舞台(撮影は全体の3分の2が広島県内で行われ、広島平和記念公園、広島国際会議場、広島市環境局中工場など複数の施設が登場します)。(3)多言語演劇。おおよそこの3点が『ドライブ・マイ・カー』という映画の特徴であり、その成功の最大の要因だと思われます。そして、この内の(2)と(3)は映画独自のアイデアなのです。というよりもむしろ(1)に対するアダプテーション(改作/脚色)の要素こそが、この映画の核心と言っていい。
当初、この映画の後半は韓国の釜山で撮影されることになっていましたが(映画ファンには釜山国際映画祭でも知られています)、コロナ禍によってロケが困難になり、急遽広島に舞台が変更されたのだそうです。しかしその結果、この映画は「ヒロシマ」という歴史的にも特別なトポスの意味を付与されることになりました。また、映画内で上演される『ワーニャ伯父さん』の「多言語」が英語とドイツ語を除くとアジア諸国の言語であることも見逃せません(これは最初は釜山が舞台になるはずだったことも関係していたかもしれません)。
「ハルキ・ムラカミ」「ヒロシマ」「アジア」が、この映画の3つのキーワードです。そして明らかにこの3点が『ドライブ・マイ・カー』の国際的成功の鍵でもあります。必ずしも狙ってやったのではないことも含め、結果的にこれらの要素は欧米の映画関係者と映画観客の強い関心を集め、そして作品がそこに生じた期待を裏切らない素晴らしい仕上がりであったがゆえに、この映画は「大ブレイク」したのです。
『万引き家族』と『パラサイト 半地下の家族』
『ドライブ・マイ・カー』のカンヌ国際映画祭四冠は壮挙でしたが、多くの方はご存知かと思いますが、その3年前に日本映画がカンヌの最高賞であるパルム・ドールを受賞しています。是枝裕和監督の『万引き家族』(2018年)です。テレビマンユニオン所属のドキュメンタリー映画/映像監督から劇映画に転身した是枝監督は、濱口竜介に先んじて、今世紀に入って以降、国際映画祭の常連になっていました。カンヌに限ってみても、『DISTANCE』(2001年)でコンペ部門に初出品以後、『誰も知らない』(2004年)で日本人初、史上最年少の最優秀男優賞(柳楽優弥)、『そして父になる』(2013年)で審査員賞、そして『万引き家族』で遂にパルム・ドールを射止めました。この映画はアカデミー賞の国際長編映画賞にも『おくりびと』以来、日本映画として10年ぶりにノミネートされましたが受賞はならず、3年後に『ドライブ・マイ・カー』が受賞することになるのはすでに述べた通りです。
『万引き家族』はタイトルの通り、万引きなどの軽犯罪行為を繰り返すことで生活している東京で暮らす五人家族が、成り行きで見知らぬ幼い少女を家族に迎え入れることになったことから物語が展開します。是枝監督は劇映画デビュー以来一貫して現代日本が抱えるさまざまな社会問題を取り上げていて、この作品にも格差や貧困、年金問題、児童虐待、ネグレクトなど複数のテーマが織り込まれています。舞台は東京都心。『ドライブ・マイ・カー』と比べなくとも、こう言ってよければ極めてこぢんまりとしたスケールの、字義通りのドメスティック(家事的/国内的)な作品です。カンヌの受賞もあって日本国内でも大ヒットを記録しましたが、他国に自慢できないような日本の実像をリアルに描いていたためか、また是枝監督が日本政府への批判とも取れる発言をインタビューなどで述べていたせいか、当時の安倍晋三内閣総理大臣が世界で最も有名な映画祭での最高賞にもかかわらず祝意を口にしなかったことも物議を醸しました。
『万引き家族』は黒澤明監督の『影武者』(1981年)以来、38年ぶりにフランスのセザール賞で最優秀外国映画賞も受賞しています。そしてこの作品と同じく、翌年(2020年)のセザール賞の最優秀外国映画賞と前年のカンヌ映画祭のパルム・ドールをともに受賞したのもアジア映画でした。ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』です。日本と韓国という隣り合う国の映画が2年連続でフランスの超有名映画賞の頂点を極めるとは、多くの人々に驚きと喜びをもって受け止められたことは記憶に新しいと思います。
どうして、こんなことが起こったのか。カンヌの審査員は毎年代わっていますし、国際的な顔ぶれで構成されているので、これはあくまでも結果からの推論でしかありませんが、私には近年の国際映画祭における授賞傾向の変化(のようなもの)が、ある程度関係しているのではないかと思われます。一言で述べるなら、それは「芸術性」から「政治性」への評価軸の移動、それから「ローカル(地域性)」と「ユニバーサル(普遍性)」の通底です。
『万引き家族』と『パラサイト』には多くの共通点があります。「家族」が主人公であること。舞台が「都市」であること。「貧困」と「社会的弱者」を描いていること。またそのことによって「貧困を生み出す社会構造」を痛烈に批判していること。『パラサイト』の主人公は4人家族で、副題のように半地下の狭くて汚いアパートで同居しています。父親、母親、兄、妹、全員無職で、ギリギリのせちがらい生活を送っています。しかしある時、兄が金持ち一家の娘の家庭教師を(身分を偽って)務めることになったことから物語が走り出します。万引き家族ならぬ寄生体(パラサイト)家族になっていく。ドキュメンタリー畑の出身らしい着々とした丁寧な演出の是枝監督に対して、むしろエンターテインメント映画の側の鬼才(といっても韓国映画のエンタメと芸術の境界は限りなく曖昧ですが)と言うべきポン・ジュノのタッチは軽快かつ荒唐無稽で、その才気と手腕が遺憾なく発揮された『パラサイト』は風刺の利きまくったブラックコメディに仕上がっています。しかし笑いの仮面の裏には韓国の格差問題の
ポイントは、『パラサイト』を、『万引き家族』を観た欧米人が、そこで描かれる物語をただのフィクションとして消費するのではなく、また韓国や日本では大変なことになってるなあと他人事のように感じるのでもなく、いやこれってむしろ我々の問題でもあるのではないか、とふと思い当たり、そう思い始めると端々を少し変えるだけで、ほぼそのまま、自分の国が、自分の社会が、自分(たち)が直面している、或いは直面しつつあるシリアスな問題として見えてくる、見えてしまう、ということなのだと思います。これが「ローカル」と「ユニバーサル」の通底ということです。東京やソウルといった極東の、よく知らないし行ったこともなければ行くこともないかもしれない都市のローカルな問題が、そこに映る人間や街並みの多くの違いを超えて、まるで我が事のように身につまされる話に変容してしまう、ということ。これは実は『万引き家族』や『パラサイト』だけでなく、アジアの作品だけでもなく、カンヌに限った話でもなく、いわゆる「国際映画祭」に出品される、それぞれの映画祭の主催国ではない比較的マイナーな国々の作品の多くが帯びている傾向だと私は思います。国際映画祭のコンペ部門はその国を代表してエントリーしているので、その国の独自性や特殊性を前提としつつも(その国の現在形の「問題」を描きつつも)、同時にそこには何らかの意味で「世界共通の問題」すなわち普遍性への扉が開かれていることが望ましい。そして実際、そうした作品が受賞に至ることが相対的に増えており(それはそのようなタイプの映画が各国で製作される機会が増えていることを意味します)、この傾向は、アメリカ映画としては久しぶりにカンヌでパルム・ドールを受賞したショーン・ベイカー監督の『ANORA アノーラ』(2024年)にも繫がっていると思います。アノーラはニューヨークの(おそらくロシア系3世の)ストリッパーで、彼女のロマンスの相手はロシアのオリガルヒ(新興財閥)の御曹司、そこにアルメニア系移民の男たちが絡んできて……近年のカンヌのパルム・ドールの中でも『パラサイト』と並ぶエンタメ的な作品ですが、そこに映し出されるNYの姿は、『パラサイト』のソウルや『万引き家族』の東京と同じく、一種の濃密なローカリティを有しています。ベイカー監督は、それ以前も「持たざる者たち」の逞しくも切ない生き様を一貫して描いてきたので、彼にとっては通常運転だったのだと思いますが、『ANORA アノーラ』のような映画に最高賞が与えられたことには、むしろカンヌ映画祭の変化を感じます。
ローカルであることでグローバル化する
ひと頃、グローカル(Glocal)という造語が流行りました。最近はあまり目にしませんが、グローバル(地球規模)とローカル(地域性)を有機的に共存させるという、いささか空疎なお題目めいた言葉です(実際、SDGsの文脈では今も時折聞きます)。しかし、近年の芸術文化においては、むしろローカルであることでグローバルに突破する、という戦略(と呼んでいいのかわかりませんが)が注目されているのではないかと私は思っています。是枝裕和とポン・ジュノ、そして濱口竜介から学べるのは、ひとつにはそういうことです。
濱口監督は、神戸(『ハッピーアワー』)、福島(『寝ても覚めても』。濱口監督は柴崎友香の原作小説の執筆時にはまだ起きていなかった東日本大震災を描くために物語の時間をわざわざ移動させ、登場人物を福島に行かせました。彼は酒井耕との共同監督で『なみのおと』に始まる3本のドキュメンタリー映画「東北記録映画三部作」も発表しています)、広島(『ドライブ・マイ・カー』)、仙台(『偶然と想像』の第3話「もう一度」)、長野(『悪は存在しない』)と、明らかに意識的に「地方」を映画の舞台に選んでいます。対して是枝監督は、いわば「東京」を一種の「地方」のように捉えている。そもそも世界から見たら、日本も(今やますます)「地方」のようなものです。グローバル+ローカルではなく、ローカル→グローバル。ここに日本文化の海外進出の重要なヒントがあるのではないかと思います。
佐々木敦
ささき・あつし●思考家/批評家/文筆家。
1964年愛知県生まれ。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。芸術文化のさまざまな分野で活動。著書に『「教授」と呼ばれた男──坂本龍一とその時代』『ニッポンの思想 増補新版』『増補・決定版 ニッポンの音楽』『映画よさようなら』『それを小説と呼ぶ』『この映画を視ているのは誰か?』『新しい小説のために』『未知との遭遇【完全版】』『ニッポンの文学』『ゴダール原論』、小説『半睡』ほか多数。