[本を読む]
『いいとも!』の終了によって
何が終わり、何が終わらなかったのか
『笑っていいとも!』が最終回を迎えた頃、拙著『タモリ学』を含め、数多くのタモリ関連本が出版された。拙著で僕は「タモリ」は日本人の共通言語であり、それぞれの「タモリ」観を知れば、その人の物事の見方を知ることができると書いた。『いいとも!』も同様だ。それを語るとき、自然とメディア論になる。
最終回から10年を経て出版された本書は、『いいとも!』が「戦後日本、とりわけ戦後民主主義が持つ可能性を最も具現した番組なのではないか」というメディア論をも超える仮説を立てることから始まり、その成り立ちから終焉までを丁寧に追っている。
本書が特異なのは、その『いいとも!』の舞台・スタジオアルタがあった新宿という地について1章を割いている点だ。60年代、新宿は日本におけるカウンターカルチャーの中心地だった。その大きな拠点となったのが、戦後に生まれた「歌舞伎町」。70年代半ば、歌舞伎町にあった一軒の飲み屋で「タモリ」が“誕生”したのは有名な話だ。福岡からジャズピアニスト山下洋輔らに呼ばれた森田一義はスナック「ジャックの豆の木」で、常連客のリクエストに応じて即興で“密室芸”を磨き「タモリ」になった。そこは「演者と観客の垣根のない自由な空間」だった。まさに「仕切らない司会」で芸人と素人の共存を生んだ『いいとも!』のようだ。その舞台に、情報発信の拠点として新たに新宿に作られたスタジオアルタが選ばれたのは、必然だったのかもしれない。猥雑な夜の街としての新宿と、昼は多くの人が行き交う東京有数の盛り場である新宿。そのふたつの特性が矛盾なく同居していた特異な人物こそ、タモリだったのだ。
そんなタモリの人生を太田は「戦後日本社会のひとつの理想を反映している面もある」と説く。『徹子の部屋』でいまの時代を「新しい戦前」と表現したタモリ。彼が生んだ自由な空間『いいとも!』の終了によって、何が終わり、何が終わらなかったのか。本書が紐解く『いいとも!』の“正体”はテレビの行く末を指し示している。
戸部田誠(てれびのスキマ)
とべた・まこと(てれびのスキマ)●ライター