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傷だらけの生と語り
ウクライナのキーウにある聖ムィハイール黄金ドーム修道院。何世紀にもわたって都市の歴史を眺めてきた建物は野戦病院と化し、負傷者を受け入れている。懸命に治療にあたるカーチャはある男に声をかける。「あなたは強い。きっと耐えられる」……。
これは、アメリカの作家カラーニ・ピックハートによる小説『わたしは異国で死ぬ』の一シーンである。だがここで描かれているのは、ロシアが侵攻を始めた二〇二二年以降のウクライナではない。二〇一四年に起きたマイダン革命に関わった人々の姿だ。当時、ヤヌコーヴィチ大統領が欧州連合との協定調印を拒否して親ロシアの姿勢を打ち出すと、多くのウクライナ市民が抗議し、特殊部隊と激しい衝突を繰り返す。本書は、抗議活動に加わった市井の人々の様子を描いた渾身の物語である。
今日の戦争同様、ここで登場する人々も皆、心に傷を負っている。アメリカで育った医師のカーチャは負傷者の治療をしつつ、幼い頃に生き別れになった母、幼くして亡くなった息子の記憶を辿ろうとする。チョルノービリ近郊に生まれたミーシャは原発事故で妻を失っている。「ウクライナは売春宿じゃない」と腹に書いている女性活動家スラヴァには性的虐待を受けた過去がある。元諜報員アレクサンドルは娘を喪失した出来事に苛さいなまれている。
傷を抱える者は誰もがそうであるように、本書の人物も、断片的にしか過去を語らない。断章的な語りに挿入されるのが、民族楽器コブザ奏者の歌や、アレクサンドルの語りを録音したカセットテープの記録だ。それらは語りの空隙を埋めるだけではなく、ウクライナの長い歴史の一つの証言となっている。
クリミア出身の映像作家ダーシャは国を離れなかった理由をスラヴァに語る。「単なるウクライナの物語じゃない――わたしの物語なのよ。あなたの物語よ。わたしたちの物語」。ウクライナの複雑な歴史、人々に刻印された傷の一面を教えてくれる豊かな一冊だ。
阿部賢一
あべ・けんいち●東京大学准教授、翻訳家