[今月のエッセイ]
中学受験への秘めたる思い
私には私立男子校に通う中学二年生の息子がいる。彼はいわゆる「お受験」をしたのだが、その準備のために小学三年生の三月から進学塾に入った。
入塾した当初は、それはもうきつかった。宿題は山のように出されるし、なにより週に三回も塾に通わなくてはいけない。学校から帰るのが午後四時過ぎで、塾バスが近所のバス停に来る時刻は四時三十四分。家に戻ってきて、トイレで用を足し、ちょっとしたお菓子をつまんだらすぐに出かけなくてはならないのだ。こんなタイトなスケジュールを十歳そこらの子どもがこなすのだから、大変でないわけがない。
六年生にもなれば通塾は週五回に増え、授業時間も土曜や日曜は十時間近くになった。
夏休みには三泊四日の夏合宿をこなし、秋が過ぎた頃からは授業の無い日も塾の自習室にこもった。
私はある日、息子に聞いてみた。「塾、辛くない?」と。そうしたら息子は「しんどいはしんどいけど、まあ楽しい」と答えた。なぜ楽しいのか。その理由は単純で、「勉強すれば賢くなるから」だった。授業で使うテキストも最初はさっぱりわからないのだが、先生に教えてもらうと理解できるようになる。それが楽しいと、息子は誇らしげに口にしていた。
三月生まれの息子は体が小さく、幼い頃は運動能力も周りの子どもたちに比べて劣っていた。そのせいか自分に自信がなく、人前に立つことも、目立つことも苦手。サッカーの試合では絶好のシュートタイミングでボールが回ってきても、他の子にパスを出すような気の弱さだった。でも塾はそんな息子に活躍の場を与えてくれた。勉強はスポーツのように他人との直接的な衝突がない。家で勉強する姿を誰かに見られることもない。人目につかず頑張れることが心地良かったようで、息子は塾の先生に導かれるままにコツコツと学力を積み上げていった。
実はここだけの話、私も「お受験」経験者である。いまから三十七年も昔のことだが、地元の私立中学を受けて不合格になったのだ。ただ息子の「塾活」とはまるで違い、私の場合、受験勉強をほとんどしなかった。高校受験を控えていた姉が塾に通い始めたので、そのついでに妹の私も入塾し受験したという程度の、きわめて軽薄な動機だったからだ。
勉強をしていなかったのだから不合格になるのは当たり前のことなのだが、それでも当時の私はけっこうなショックを受けた。いわゆる人生初の挫折で、努力もしていないくせに、不合格を知った日は、悲しくてシクシク泣いていたのを覚えている。仲良しの塾友が全員、志望校に合格していたのも悲しみに追い打ちをかけたのだと思う。涙の理由が悔しさではなく悲しさだったのは、残念がれるほどの頑張りをしていなかったからだろう。
そしてこのお受験での失敗が、その後の私の人生を大きく変えていく。
棚からぼたもちは、落ちてこない。
鴨は
努力しなければ成功しない、という明白な事実。それを十二歳で突きつけられた私は、なにができなくとも、「努力だけはできる人」に変わっていったのである。
第一志望の中学しか受けていなかった私は地元の公立中学に進み、三年後に中学受験で失敗した学校の高等部を再び目指した。そして今度は合格した。その時、ああこれだ、と確信した。努力をすれば、報われる――。
息子の受験が終わった後、私は自分の過去の経験をも合わせて、塾を舞台にした小説を書いてみたいと思った。受験を題材にした創作は珍しくはないけれど、それでもあえて書きたかったのは、受験生活は極めて個人的な体験だと感じたからだ。十人の受験生がいれば十の物語が、その胸の内には秘められている。
『金の角持つ子どもたち』に登場する主人公の
私はこの物語で「塾活」に懸ける子どもたちの一途な心と、彼らを支える大人の本気を描きたかった。子どもが目標に向かって努力する姿は、それがなんであっても(スポーツや芸術、囲碁や将棋、ほんとになんでも)大人にとっては眩しいものだ。
中学受験という息苦しそうな世界にも、胸が熱くなるほど
藤岡陽子
ふじおか・ようこ●作家。
1971年京都府生まれ。同志社大学文学部卒業。報知新聞社を経て、タンザニア・ダルエスサラーム大学留学。慈恵看護専門学校卒業。2006年「結い言」で第40回北日本文学賞選奨を受賞。09年『いつまでも白い羽根』でデビュー。著書に『跳べ、暁!』『きのうのオレンジ』『メイド・イン京都』等。