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インタビュー/本文を読む

鷗外の末子、愛と苦闘の人生
『類』刊行、朝井まかてインタビュー

[インタビュー]

鷗外の末子、愛と苦闘の人生。

明治の文豪、森鷗外おうがいの三男二女の末っ子として生まれた森るい。長兄の於菟おとは父と同じ医学者になり、長姉の茉莉まりは作家として高い評価を得た。次姉の杏奴あんぬは随筆家として活躍する一方、父の作品群を守るべく出版社への対応役を務めた(次兄の不律ふりつは早逝)。では、類はどのような人生を送ったのだろうか。
歌人・中島歌子を描いた『恋歌れんか』で直木賞を受賞し、葛飾北斎の三女、応為おういの生涯を描いた『くらら』、「犬公方」の悪名が語り継がれる徳川綱吉の真の人間像に迫った『最悪の将軍』、心にしみいる江戸の人情話『福袋』、大坂で起きた商家の相続争いを描いた『悪玉伝』など、歴史・時代小説の傑作をものしてきた朝井まかてさんが、今回、挑戦したのは一人の男性の人生を描くこと。
名門に生まれ、戦前はパリに留学し絵画を学び、戦後は小説や詩を志賀直哉、佐藤春夫らに認められた。才能を開花させようと努力しながらも、時代に翻弄され、それでも懸命に生きた森類。
朝井さんが類に感じた魅力とはどんなものだったのか。執筆の裏側をうかがった。

聞き手・構成=タカザワケンジ/撮影=冨永智子

この人を書きたい!

─ 『類』、実に面白かったです。森類という人がすっかり好きになりました。そもそも森類を主人公にお書きになろうと思われた理由から教えてください。

 類さんの評伝をお書きになった花園大学名誉教授の山﨑國紀やまさきくにのりさんとの出会いが、契機です。山﨑先生は私の古い知人の恩師で、鷗外の研究者。直木三十五の評伝もお書きになっているので、私と会ってみようとお思いになったようです。楽しい方で、研究者としての業績をうかがっているうちに、類さんの話を始めはって。「僕が初めて類さんの評伝を書いたんです」とおっしゃったんです。類さんご本人のもとに何度も何度も通ってお話を聞いて、一冊にまとめられた。それが『鷗外の三男坊 森類の生涯』(三一書房)で、山﨑先生以外に、森類に注目する学者さんがいなかったことを、私は初めて知りました。
 鷗外の評伝と共にその類さんの評伝も頂戴して帰って、仕事の合い間にぽつぽつと拝読して心が動いて、そのうち、随筆や小説も読むようになりました。その中で、戦後、類さんが千駄木せんだぎで本屋さんをしていた頃に、団子坂を自転車で上がっていたシーンがありました。雨や汗や涙の匂いを感じて、この人を書きたい! と猛烈に思ったんです。
 私の場合、小説に書きたいと思うのは大体が好奇心から。類さんの場合、この人をもっと知りたいという願いに近い思いでした。たしかに類さんのお名前は知っていたけれど、姉の茉莉さんほどの文名は上げていない。あれほどの一族に生まれて、しかも末っ子で。どんな人生だったんだろう、と。
 鷗外にはもちろん若い頃から親しんでいましたけれど、私は、どちらかというと漱石派だったんですよ。正直言うと、読んだ作品数でいったら漱石のほうが多いくらいで。

─ 意外ですね。歴史小説をお書きになる朝井さんだったら、鷗外のほうがお好きなんじゃないかと思っていました。

 自分も書き手になってから、鷗外のすごさが身にしみています。だから今回、類さんのものを読み、長女の茉莉さん、次女の杏奴さん、長男の於菟さんの著作を読み、鷗外とその妻のげさんも含め、鷗外一家の書いたものを片端から読む機会を得ました。貴重な体験でした。

─ 全員が書き手の一家ですものね。

 圧倒的な一族ですよね。世界の文学史上でもまれでしょう。中でも類さんの書かれたものを読むと、やはり佐藤春夫が言ったように、並々ならぬ詩魂を感じます。書く場に恵まれてちゃんとした編集者さんがつけば、作品をもっと残せた人だと思います。

─ 類の少年時代から書かれていて、人生をたっぷりとお書きになっています。

 連載を始める前から、この人は少年期から書くべきだと思っていました。亡くなるところまでかどうかは決めていませんでしたが、晩年の類さんもすごく魅力的なんですよ。日本人にはちょっといないタイプの人です。

─ 偉大な父にすごくかわいがられて育てられ、鷗外の死後もつねに庇護してくれる人が現れる。師事した長原孝太郎画伯や、詩を見てくれた佐藤春夫など、錚々そうそうたる人たちにかわいがられた人なんですね。

 鷗外の威光もあったとは思うんですけれど、彼自身に魅力がなかったら、あんなにかわいがってもらうこともなかったでしょう。甘えるところは堂々と甘えているし、言うべきことはきちんと言ってのけます。そこが貴族的だなと思うんです。現代の日本にはもう存在しない、存在できない階級の、最後の人だったかもしれません。

類をめぐる女性たち

─ 類は愛嬌がある人だったんでしょうね。西洋画を描く一方で、ふざけて歌舞伎のまねをしたりする時のせりふとかから、やっぱり明治生まれの江戸っ子なんだと思いました。

 母の志げさんの影響ですよね、江戸前の美学は。青春期以降の類さんに影響を与えたのはまぎれもなく、女性たち。偉大なる父とは早くに別れざるを得なかったので、お母さん、お姉さんたちと一緒に生きた時間が長かった。文化的な面でもとても影響を受けていますね。

─ すぐ上の姉の杏奴とパリに絵画留学をして、二人で暮らしています。類がもっとも自由で、伸び伸びできた青春時代です。

 随分前ですけど、私自身がパリが好きでよく旅した時のことを思いだしながら、楽しんで書けました。パリの街は基本的にあまり変わってないですから。後は、電話でしゃべるように手紙をやりとりする一家なので、書簡がたくさん残っているんです。その文面から、姉弟の留学生活を描きました。
 二人は昭和六年に渡仏していますから、志げさんが偉いですよね。さすが明治の女です。志げさん、茉莉さん、杏奴さん。みんな個性的で、類さんがあれほど愛してやまなかった理由を、私自身も書きながらひしひしと感じたことでした。

─ 杏奴とパリで過ごした後は、茉莉とお昼近くまで寝ているという生活になって、また別の楽しさがありますね。

 私もあの暮らし方が大好き。「朝も十時を回ってるのに雨戸をて切ったままで、どうなってるんだね、あの家は」って於菟がびっくりしたという(笑)。

─ 類さんが主人公なんですけど、類さんを通して鷗外の子供たちとお母さんの志げが描かれているというのも、この小説の魅力ですね。この小説を読んで、彼らが書いたものを読みたくなる人は多いと思います。

 そうですね。それぞれ読んでいただけたらいいなと思いますね。志げさんの小説も本当に面白いですよ。濃密な、それでいて正直な文章で、娘や息子たちは鷗外だけでなく、志げの血も引いていると感じます。茉莉さんは着物の色柄を克明に書く人ですけど、志げさんもそうです。

─ 類をめぐる女性では、最初の妻となる美穂さんも重要ですね。有名な画家のお嬢様だったのに、類と結婚して戦後はかなり苦労されました。

 美穂さんは、いざ書き始めてみたら、本当に手ごたえのある人でした。書く前の予想と違いましたね。
 類さんのご長女が「母は生活の芸術家でした」とおっしゃったんですよ。あの時代といえば『暮しの手帖』。それをもっと早くから、ごく当たり前に実践していた人ですね。お料理もすばらしかったらしいです。

─ 戦後すぐの、材料が手に入らない中で。

 そう。出汁だし用の昆布の天ぷらとか。ゆで卵も必ずそのままじゃない。黄身を裏ごしして味つけしてからもう一度詰め直す。料理教室でやるようなことをふだんにします? でも美穂さんにとっては自然なこと。美穂さんは昭和の生活研究面からも、もっと評価を受けてしかるべき人かもしれない。

─ 今、類さんのご長女の話が出ましたが、類さんのお子さんたちとお会いになったんですか。

『小説すばる』の連載が終わってからお目にかかりました。連載を始める前だと、いろいろ教えていただけることもあるぶん、逆に何かしらのバイアスがかかったりとか、小説として歪む可能性もありますので。そしりを受けるのを覚悟で、書く前はご挨拶にうかがいませんでした。書き上げてから会っていただいたんですが、類さんのお子さんたちって、みなさん、すごく類さんを愛しておられるんです、今でも。それがうれしかったですね。 最初にお話しした山﨑先生は、晩年の類さんと交流がおありでした。深く心を通わせられたんです。当時の資料を拝見できたからこそ、私は類さんの気配を感じ、存分に小説世界を広げることができました。これはとても幸運なことで、本当に感謝しています。

─ 類さんのだめなところもしっかりお書きになっていますよね。それについては?

 小説家としては、だめなところこそ逃げずに書きたいわけです。でも、お子さんにしたら抵抗があるかもしれない。類さんのお子さんたちはさすが文学者の血筋の人たちなので、受けれてくださいました。有難いことでした。

苦闘の人生のすばらしさ

─ 類は少年時代、勉強ができないということでつらい思いをします。絵や詩、小説を志すけれど、なかなか芽が出ない。才能があっても、開花させるのは難しいと思いました。

 勉強が苦手であったというのは、ご自身が随筆で何度も言及されているんです。でも書いているものを読むと、とても明晰めいせきな方だということはすぐにわかります。記憶力と描写力、センスにも私はかれてやみませんでした。父母や兄姉の影響もあるけれど、類さん独自の世界がある。必要以上にコンプレックスを持ってしまうのは森家に生まれた宿命でしょう。苦しかったと思います。
 でも、類さんが普通にお医者さんになっていたら、これほど数奇な人生を歩んだでしょうか。ミニ鷗外、ミニ於菟ぐらいだったかもしれない。やっても、やってもだめ。この苦闘の人生を、類さんは生き尽くしました。

─ 画家として成功したり、人気小説家になっていたら、この味わい深さは出てこない。小説としての面白さも。

 もちろん小説なので、私自身の見方が入ってはいますが、類さんのその時々の心情をできるだけ大事にしたいと思って筆を運びました。類さんが書かれたものを読んで、ほんの一言から、その行間から推して、小説へと立ち上げてゆく。歴史・時代小説を書いていていつも思うのは、死者との対話だということ。小説に書かせてもらうことで、その方の人生をもういちど彫琢ちようたくし直すことになるので、私自身の考えや指向、感情はできるだけ排して、透明な存在でありたいと思って臨んでいました。

─ ハッとさせられたのは、類さんの感性から生まれたであろう「どうして何もしないで、ただ風に吹かれて生きていてはいけないのだろう。どうして誰も彼もが、何かを為さねばならないのだろう」という独白。夢を持つことや、目標を達成することを是とする現代社会へのアンチテーゼだな、と感じました。

 あれは類さんがどこかで書いたものではなく、たぶん類さんはこう思ったんじゃないかなと、ふと想像して生まれたものです。気がついたら、小説の中の類さんがつぶやいていた。

─ そうなんですね。類の心の底を見たように感じました。

 挑み続けて、挑み続けて、至った境地はこうなんじゃないかと。何かをなし遂げた人を書くことが多いので、そういう人が好きなんですねと言われたりするんですけど、実は執筆の動機は全然違うところにあったりするんですよ。

─ 偉人伝を書きたいわけじゃない、と。

 ええ。その人がつまずいて、そこからどう生きたかというところに惹かれて書くことが多いです。

─ 今お話をうかがって、なるほどと思ったのは、本人が残した言葉ではないけれど、もしかしたら本人が言えなかったこと、書けなかったことかもしれない。そこまで書けるのが小説。だから『類』が面白い作品になったのかな、と。森類という人を掘り下げて、掘り下げてお書きになった。

 最後はどうやって終わるんかなと思いながら書いていましたけどね(笑)。いつも分からへんのですよ、終わりが。何か目標を決めて書くとか、計画を立てているわけではないので、いつも探りながら書いています。でも今回のラストはある風景へと、自然に向かっていました。類さんが導いてくれたような気がしています。

朝井まかて

あさい・まかて●作家。
1959年大阪府生まれ。2008年小説現代長編新人賞奨励賞を受賞して作家デビュー。13年に発表した『恋歌』で本屋が選ぶ時代小説大賞を、14年に直木賞を受賞。ほか、同年『阿蘭陀西鶴』で織田作之助賞、15年『すかたん』で大阪ほんま本大賞、16年『眩』で中山義秀文学賞、17年『福袋』で舟橋聖一文学賞、18年『雲上雲下』で中央公論文芸賞、『悪玉伝』で司馬遼太郎賞、19年に大阪文化賞を受賞。近著に『落花狼藉』『グッドバイ』『輪舞曲』などがある。

るい

朝井まかて 著

8月26日発売・単行本

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