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逢坂剛が読む、北野武「不良」
この<馬力>を見よ!

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この〈馬力〉を見よ!

 今どき〈不良〉、などという死語をタイトルにするとは、時代錯誤もはなはだしい。
 しかしまさにこの小説は、時代錯誤の物語なのである。
 著者北野武の、多彩な才能を今さらうんぬんするのは、やめておこう。ただ、この人を一言で評するならば、〈さめた馬力〉の持ち主である。パンチのきいた、ツービートの時代もそうだったし、座長と狂言回しを兼ねた、〈風雲! たけし城〉での奮闘ぶりも、そうだった。さらに、俳優や映画監督としてデビューしてからも、その〈さめた馬力〉がすべてを動かした。
 それは、延々と殴り合いや撃ち合いを続けるとか、不死身の体で修羅場をくぐり抜けるとか、すさまじい死にざまを披露するとか、そういう派手な活劇だけを意味するものではない。じっと動かずに、さめた目で周囲の状況を観察する、いわば存在そのものが馬力を感じさせる、希有けうのキャラクターの持ち主なのだ。手前みそで恐縮だが、拙作の映画化作品『劇場版MOZU』で見せた、〈ダルマ〉の存在感などはその典型的な例、といってよい。
 その北野武が、〈芥川賞を獲る!?〉と宣言して文芸界を震撼させたのは、さほど古いことではない。真意がどこにあるかはともかく、小説というものはだれが書いてもかまわないし、書こうと思えばだれにでも書けるものだ。
 小説は単純なもので、おもしろいかおもしろくないか、馬力があるか馬力がないかの、どちらかしかない。おもしろいかどうかは、ひとによって感じ方が違うが、馬力があるかないかは、だれにでも分かる。つまり、読み手を先へ先へとぐいぐい引っ張る、奔馬の力があるかないか、なのだ。そして『不良』には、それがある。
 時代背景は、初めて東京オリンピックが開催された、一九六四年前後から六〇年代後半で、著者にとってはおそらく血気さかんな青春時代、ということになろうか。このころすでに、〈愚連隊〉や〈不良〉という呼称は、ほとんどすたれていたような気もする。とはいえ、『不良』にはその時代の感覚が生きいきと躍動し、同じ世代の読者に強く訴えかけるものがある。
 ここには、後年の東映のやくざ映画のような、仁義や任俠の世界はかけらもない。力と度胸を頼りに、損得だけで動く〈おとなになりそこねた不良〉の物語だ。むろん、仲間のために体を張る場面もあるが、男の友情がどうのこうのというセンチメンタリズムは、薬にしたくもない。あるのはまさに、相手を倒さずんばやまずという、さめた馬力だけだ。間違って、そこにかっこよさを求めても、むだに終わる。著者には、そんなことを書く気など、毛頭ないはずだ。
 ちなみに、この作品に机上で学んだ小説作法は、いっさいない。ただし、アクションで始まり、アクションで終わるところは、著者が人生から学んだ希有の才能を、如実にうかがわせるものがある。天性のエンタテイナーとしての面目が、躍如としている。それがいっそ、心地よい。
 評者が、ここに登場人物やあらすじを、いっさい書かなかったのには、わけがある。素材や調理法を含めて、いかにうまい料理をうまそうに書いても、実際に食べるよりうまくは、書けないからだ。ともかくこの〈さめた馬力〉を、さめないうちに賞味してほしい。
 本書にはもう一作、『3‒4X7月』という小品が、併録されている。評者の好きな野球小説で、これだけ読んでも損はしない佳品だ。
 この手口は、本作で初めて使われたものではないが、評者はまんまとそれに乗せられた。分かっていながらだまされる、いわゆる〈オレオレ詐欺〉にやられた、というのが正直な感想だ。本編の『不良』とは逆に、小説作法にのっとったテクニカルな小説、といってよかろう。
 評者の正直な感想をいえば、北野武には今さら芥川賞ではなく、近ごろ馬力にかげりの見られる、直木賞を目指してもらいたいものだ。

逢坂剛

おうさか・ごう ● 作家

『不良』

北野 武 著

6月5日発売・単行本

本体1,500円+税

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