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紫原明子が読む、寺地はるな「水を縫う」
真っ直ぐに流れない。だから誰かに届く

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真っ直ぐに流れない。だから誰かに届く

 瀬戸内にある豊島てしま美術館に、アーティスト・内藤礼さんによる「母型」という作品が展示されている。天井の2箇所に開口部が設けられたドーム状の大きな建物で、中に入ると足元のいたるところから絶えず少量の水が湧き出している。水は一定量溜まると床のわずかな傾斜に沿って滑らかに流れ、流れた先で大小さまざまな泉を作る。
 この美術館が大好きで、もう何度も通っている。不思議なことに、同じ場所から同じ様に湧いているはずの水は、決していつも同じ様には流れない。真っ直ぐ、一直線に泉を目指すものもいれば、右に左に曲がったり、思わぬところで止まってしまうものもいる。だから美しく、面白い。
 本書を読み終えたときふと、あの豊島の美しい水の流れを思い出した。登場する家族やその周りの人たちは皆、自分だけの泉のを知っている。楽しい。可愛い。愛しい。やってみたい。心の中で誰にも言わずひそやかに育てた美しい感情が少しずつ流れ出し、いつしか自然と自分だけの泉を目指し始める。ところがいざ意気揚々と足を踏み出そうとしたとき「そっちじゃない」と、他者に乱暴に行く手を塞がれてしまう。全員がそんな心の傷を負っている。
 性別や年齢、社会的立場によって定義され、押し付けられる「普通」の窮屈さを、誰もが何かしら味わったことがあるだろう。また日常の中で意図せずして「普通」を押し付ける側に回ることもあるかもしれない。たしかに身に覚えのある登場人物たちの痛みと同時に本書は、他者に「普通」を強いる側にいるかのように見える人もまた、過去のどこかで「普通」を強いられる側であった背景をも描く。
 しかし、さまざまな理由から一度は「普通」に自分を収めてしまったとしても、誰かの澄んだ水に接することで私たちの心は洗われ、再び自分だけの泉を目指すことができる。作中に描かれる健気けなげで愛おしい人々の営みに、そんなたしかな希望をもらった。

紫原明子

しはら・あきこ● エッセイスト

『水を縫う』

寺地はるな 著

5月26日発売・単行本

本体1,600円+税

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