[本を読む]
自身の不安を拭うため人は差別をする
テレビ・ディレクターだった二十年前、放送禁止歌をテーマにしたドキュメンタリーを企画して制作し、ラストで放送禁止歌の代名詞のような存在である岡林信康の『手紙』をフルバージョンで放送した。時おり質問される。なぜ放送禁止歌を放送できたのか。もっともな疑問だけど答えは単純だ。放送を禁止された歌など実は存在していない。つまり放送禁止歌という概念は、放送と音楽業界に棲息する人たちが長くジャーゴン(業界用語)として抱き続けた幻想なのだ。そう答えれば次に、ならばなぜそんな幻想が生まれたのか、と質問される。これも答えは簡単。規制がないと不安になるからだ。
エーリッヒ・フロムが説く「自由からの逃走」を彷彿(ほうふつ)させるこのエピソードを、本書を読みながら思いだした。何かが近い。どこかで重なっている。
人はなぜ人を差別するのか。この大命題に対してトニ・モリスンは、人は差別主義者に生まれるのではなく差別主義者になるのだ、との視点を本書で提示する。言われるまでもなく当たり前のこと。でもその当たり前さの内実を、モリスンは放埒(ほうらつ)と形容したくなるほどに縦横無尽な論理で解析する。
そもそもが講演録であることに加え、自身がアフリカ系アメリカ人であるモリスンの当事者意識はとても強い。つまり一般的な日本人にはかなりわかりづらい。でも森本あんりの序文と荒このみの訳者解説は重要な補助線として機能している。本文を読みながら、ここには大きな普遍性があると読者は気づくはずだ。
なぜアメリカの白人たちはこれほど根強く、執拗(しつよう)に、黒人を差別し続けてきたのか。それがアイデンティティを構築するうえで最も強いからだとモリスンは主張する。そしてそれは差別する側だけではないのだと。これは人が他者を求める理由でもある。怖いのだ。安心したいのだ。そして結果として他者を差別する。敵対する。
ここまで書いて僕も腑に落ちる。『手紙』が放送されなくなった理由は、被差別部落問題をテーマにしていたからだ、ということに。
森 達也
もり・たつや●映画監督、作家、明治大学特任教授