[連載]
[第7回] 都会に楽しい公園を増やしたい

緑豊かな空間の力
都会の緑に囲まれた空間は、癒しや安らぎを与えてくれます。夏は暑さを避ける意味でも助かりますし、花や紅葉を楽しませてくれる草木もある。晩秋は、子どもがドングリや素敵な落ち葉を探せる季節。私は、木々の枝ぶりを眺められる冬の光景も好きです。
振り返れば、関西時代の私は緑に恵まれていました。幼少期は、桜と松の並木が続く
そんな関西の都市に比べると、東京は都心に緑がとても多い印象があります。上京して最初に驚いたのが、原宿駅から伸びる表参道沿いの
都市に緑が増えれば、人が心穏やかに過ごしやすくなることを検証した研究を、『Yahoo!ニュース』二〇一八年七月二四日配信記事が紹介しています。それは、アメリカのペンシルバニア大学医学大学院などの研究グループが、フィラデルフィアの住民を対象に二〇一一年から三年二カ月実施した、緑化のメンタルヘルスに対する影響の調査です。荒れた空き地を緑化すると、周辺に住む住人の約四割は気分の落ち込みが改善し、「自分は価値がないと感じる」割合が六割以上も減るという結果が出ています。
十数年にわたりうつで苦しんだ私は、少し元気が出ると近所の
変わり続ける上野公園
緑豊かな環境は、ウォーカブルな町の条件としても大事です。街路樹が美しい通りがある場所は限られていますが、公園ならどこの町にもあります。その公園の環境を整え、より人が集いやすく憩える環境にする取り組みが始まっています。理由は、大きく分けて二つ。一つ目は、公園をもっと利用者に開かれた場所にしたいと望む人々の意識の高まりです。
前回の最後に書いたように、緑が豊かで散歩向きなのに、一息入れられるカフェがない公園はたくさんあります。コンサートを開く、屋台村をつくるなどイベントをやりたい人たちもいます。そうした希望が叶いにくかったのは、公園では営利活動がしづらいような管理がされていたからです。公園行政にくわしい公園財団の常務理事、町田誠さんに、現在の公園事情とその背景をお聞きしました。
「一九五六(昭和三一)年に都市公園法が制定され、公園内の土地物件に関わる私権の行使について制限する条文が入り、公園の中にある店舗等を排除していくことが適正な公園管理、という認識が強まってきた感があります。また、昭和五〇年代頃から利用者の苦情やクレームが増え、さまざまな行為を禁止する看板が立つようになっていきました。そのため、多くの公園にはあまり気が利いたものがありません。しかし日本の公園の歴史は、民間の方々の商業行為とともに始まりました。その一つが上野恩賜公園(以下、上野公園)です。
明治政府は寺社の領地を没収し、一八七三(明治六)年の
上野公園の東京国立博物館の正門前に広がる竹の台広場は、公園行政の変遷が見えやすい場所です。町田さんは、広場の噴水池について「一九六〇(昭和三五)年に集会・デモの集合場所として使用されたため、大衆が集まりづらいデザインとして一九六二年に設置されたのではないか」と話します。しかし近年は、この広場で以前は開かれていなかったような、アジア料理や日本各地の名産品を売る屋台を集めたイベントがよく開かれています。
「東京都では、慣例として公園での興行的イベントを許可することをしてきませんでした。しかし都職員の中から、『商業イベントを許可すべきではないか』という考えが出て、二〇〇五(平成一七)年に内規を変えて以降、都立公園で興行的イベントが行われるようになりました」
二〇一二年には、広場に面してスターバックスコーヒーなどのカフェが誕生。週末はなかなか入れないほど人気です。
また、二〇二〇(令和二)年三月にJR上野駅公園口前の道路を廃止、交通は二つのロータリーで処理され、駅と公園が直接つながりました。「交通の安全と円滑な利用を守る道路交通法の力は強いので、通常は道路を廃止してまで公園にするのは難しい。しかし上野公園は道路ができる前(上野駅の敷地ももとは上野公園)から存在している歴史的な経緯もあり、道路を管理する台東区と交渉。交通量を調査したところ、他のルートで代替可能とわかったんです」と町田さん。私は工事の後に、東京国立博物館で開催していた「特別展きもの」に行っています。いつも信号待ちで足踏みさせられた公園口前の道路がなくなっていて、「上野に何が起こった?」と不思議な気がしたのを覚えています。
財政難に陥った公園行政
公園が変わり始めた理由の二つ目は、行政の財政難。町田さんは、「実は第二次世界大戦前まで、東京市は税金を一円も使わずに公園行政ができていました。飲食店などの施設の借地料などが財源にあったからです」と説明します。
バブル崩壊後の日本では、行政の財政も厳しい。町田さんによれば、都市公園などの維持管理にかけられる単位面積あたりの費用は、ピークだった一九九五(平成七)年に比べ、二〇二二(令和四)年には七割以下に減少しています。また、市町村の総職員数もピークの一九九六年に約一五六万人いたのが、二〇年後は約八割に減少しました。
「イギリスのサッチャー政権が一九八〇年代、民間のノウハウと資金力で公共施設を経営することに成功しました。その制度がPFI法(Private Finance Initiativeの略。民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律)で、日本版は一九九九年にできました。その後、国の財政がひっ迫し、小さかった公共事業費をさらに圧縮しなければならなくなります。一方で、行政としても利用者に対するサービスの質は上げたい。民間事業者さんにも仕事のチャンスが広がる、と生まれたのがPark-PFI(公募設置管理制度)です」と町田さんは説明します。Park-PFIは二〇一七年に創設された、民間事業者が収益の一部を公共部分の再整備に還元する条件で、カフェなどの収益施設を設置し営業できる公募制度です。期間は二〇年が基本で、通常二パーセントの施設建ぺい率を一〇パーセントまで緩和し、特例として看板や広告塔も置けるようにしました。
公園にチェーン店などが入ることに対し、「商業主義」と批判する人もいます。町田さんは、「確かに『稼ぐ公園』という考え方に批判を受けることはあります。しかし、一部の例外を除き、天候が悪いと人が来なくなる公園で儲けるのは至難の業。入っている民間事業者さんの仕事は、大変な苦労の上に成立しているんですよ」と話します。それでも二〇二四年度末時点で、三九都道府県の一八二カ所がこの制度を活用しています。
福岡市の国営海の中道海浜公園内には、球体テントの宿泊施設などを設けた「INN THE PARK福岡」が生まれました。大分県の別府公園にはスターバックスコーヒーができ、愛知県刈谷市のミササガパーク(
生まれ変わった南池袋公園
池袋駅東口から歩いて約五分で行けるのが、南池袋公園です。二〇二四年の秋の晴れた平日夕方、同公園内にあるカフェ「RACINES FARM TO PARK」で編集者と待ち合わせをしていた私は、早めに行って一回り。広い芝生にピクニックシートを敷いてくつろぐ親子や芝生に寝転がる男女などが、思い思いに過ごしています。公園の一角にデッキテラスが設置され、木製のステップにビジネスパーソン風の人たちがいます。トイレの前には、木製の壁に扉つきの棚があって人気の絵本が置かれており、自由に借りて読むことができるようです。その先にある店に現れた編集者は、「ママ友にこの公園の話をしたら、池袋周辺の人たちはすでに、よく使っているようでした」と言います。吹き抜けで開放感があるおしゃれな店内は、内階段で二階も使え広々としています。店員の応対は爽やかで、注文したフワフワのドーナツにかぶりつくと、上に塗ったフルーツソース(グレーズ)の香りが立ち上り、あっという間に平らげてしまいました。この店目当てで訪れる人が多いのもうなずけます。
南池袋公園が現在の形になったのは二〇一六(平成二八)年。『公共R不動産のプロジェクトスタディ』(公共R不動産編、学芸出版社、二〇一八年)によると、リニューアル以前は、あまり治安がよくなかったうえ、所有する豊島区は公園管理費の上昇やJR池袋駅東口周辺に路上駐輪が多い悩みも抱えていました。
ところが二〇〇九年、東京電力が地下に変電所を設置する計画が生まれ、豊島区は費用の負担を減らしながら公園を再整備できることになりました。東京電力の地下利用の占有料で収益を担保し、大型駐輪場も整備。さらに、売り上げの一部を地域還元費として維持管理に活かす条件で、民間事業者を募集します。選ばれたのが、池袋を中心に複数の飲食店を展開するグリップセカンドでした。
南池袋公園のリニューアル計画が進んでいた二〇一四(平成二六)年、豊島区は『中央公論』(中央公論新社)六月号に掲載され、全国に衝撃を与えた「消滅可能性都市896全リスト」の一つに挙げられました。人口の再生産力を測る指標として、二〇~三九歳の女性人口に注目したリストは画期的でした。女性が産み育てることを前提とする違和感はありますが、男性優位の慣習が色濃い地域や、自立して生活できる雇用のない地域を敬遠する女性がいるのはうなずけます。
豊島区はすぐに緊急対策本部を設置し、女性が住みやすい町づくりの方法を探り始めます。その一つに公園整備と利活用があり、園庭がない保育園の散歩先に使ってもらうべく、八五ある小さな公園のトイレの改修を始めます。当時の高野
市民が再生させた神戸の東遊園地
二つ目の事例は神戸です。JRなど六路線の駅が集まる三宮の幹線道路、フラワーロードを海へ向かって一〇分ほど歩き、神戸市役所を越えると広い公園の「東遊園地」へたどり着きます。ここは一八六八年一月一日(慶応三年一二月七日)に神戸港が開港し、居留地に住み始めた外国人の要望で生まれた日本初の西洋式運動公園です。野球や西洋式の水泳、サッカー、ホッケー、テニスなどのスポーツを外国人が楽しむうち、日本人へも広がりました。現在の名称になったのは一九二二(大正一一)年。当初、「public garden」を「遊園」と訳していたことから、居留地の東にある「東遊園地」、と決めたようです。
一九九五(平成七)年の阪神淡路大震災後、荘厳なイルミネーションを飾る「神戸ルミナリエ」や「1・17のつどい」が行われる慰霊の場になりましたが、中心に緑が少ないこともあり、ふだんは閑散としていました。私も関西に居た当時、神戸を案内するときぐらいしか行っていません。その状態を見かねたのが、神戸市で村上工務店を営む村上
二年後、村上さんたちは他のイベントで使った芝生を養生して敷き詰め、着古したTシャツで手づくりした旗を飾るなど、たった七〇万円で空間をリニューアル。『公共R不動産のプロジェクトスタディ』二〇二四(令和六)年三月一一日配信記事によれば、社会実験の初回から、人が集まってくる手ごたえを感じたそうです。その後、ヨガや音楽ライブ、絵本の読み聞かせなど、公募によるさまざまなイベントも実施しました。二〇一八年には、仮設カフェも開業。村上さんは同記事で「一番自然な形で地域住民と会話が生まれるのがカフェの営業なんです」と説明しています。
長期にわたる社会実験で誰もがくつろげる空間の最適解を探り、二〇二三年四月にリニューアル。Park-PFI制度を使ってカフェは常設になり、併設した屋内のレンタルスタジオでもワークショップや料理教室が開かれるようになりました。
芝生を敷くことで人が集まったのは、人が植物の緑を欲しているからでしょう。私が二〇二五年四月に訪れたときも、見違えるほどきれいになった公園で、芝生でくつろぐ大人やはしゃぐ子どもたちの姿が目立ちました。
公園に植物を増やせば、維持費などの経済的な負担は重くなります。しかし、必要な経費を賄う営利活動を入れることで、より楽しい場所になるのは利用者にとってもメリットがあります。公共空間として大事にして欲しいのは、お金を使わない人も憩える空間を維持すること。公園は、誰でも受け入れるサード・プレイスであるべきだと思うからです。
イラストレーション=こんどう・しず
阿古真理
あこ・まり●作家・生活史研究家。
1968年兵庫県生まれ。神戸女学院大学文学部卒業。女性の生き方や家族、食、暮らしをテーマに執筆する。近著に『家事は大変って気づきましたか?』『大胆推理! ケンミン食のなぜ』『おいしい食の流行史』『ラクしておいしい令和のごはん革命』『日本の台所とキッチン一〇〇年物語』『日本の肉じゃが 世界の肉じゃが』等。





