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阿古真理『ウォーカブルでいこう!』
[第2回]“ベンチ数日本一”をめざす自由が丘

[連載]

[第2回]“ベンチ数日本一”をめざす自由が丘

ベンチがたくさんある町の出発点

 近年、全国各地で「歩いて楽しい=ウォーカブル」な町づくりが活発に行われています。商店街に新しい店が増え活気づいた町もあれば、自治体が歩道を広げて歩きやすくなったところもあります。再開発で誕生したビル街や広くなった道で、しばしば見かけるのがベンチです。ビル街のベンチで休む人、談笑する人たちもいれば、荷物を置いて整理する人もいる。商業ビル内の広場に置かれたベンチに座り、遊ぶ子どもたちを見守る保護者もいます。以前は忙しそうな人が行き交う通路に過ぎなかった場所に、ベンチや椅子が置かれ、ゆるやかな空気が流れているとホッとします。
 座るのにお金がかからないことも、ベンチの魅力。飲食店なら、注文しなければ座る権利を得られません。しかし、ベンチなら財布を持たない子どもも、あまりお金を使えない大人も座って休めます。ウォーカブルの相棒はベンチ、と考えた私の頭に浮かんだのは、東京の山手線西側にある人気繁華街の一つ、自由が丘でした。この町がテレビの情報番組で紹介される際によく映されるのが、自由が丘南口商店街の九品仏川くほんぶつがわ緑道です。道の両側にアパレルショップや飲食店が並び、中央の桜並木の下にはベンチがずらりと並んでいる。ベビーカーを横に置いて遊ぶ親子、語り合う友人同士やカップル、一人で休む人など、思い思いにくつろいでいます。網の目のように路地が張り巡らされた北側の商店街にも、そこここにベンチや椅子が置かれています。
 私がこの町の存在を知ったのは、地元関西に居たバブル期の学生時代。トレンドに反発しがちだった当時の私は、しばしばファッション誌に取り上げられる町の名前が気に入らず、「どうせデベロッパーや鉄道会社が開発したニュータウンでしょ」と思っていました。整えられてはいるが画一的な住宅街が広がり駅前にチェーン店が並ぶ、と「〇〇が丘」と名がつく町に先入観を持っていたからです。
 そのくせ一九九九年秋から東京に住み始めると、自転車で行ける距離にあった自由が丘に、しばしば買いものやお茶を飲みに出かけるようになりました。迷路のような路地に面した店を見つけるのが楽しかったことに加え、初めてマリクレールストリートに降り立った際、電柱がなく石畳が続く道に伸びやかな雰囲気を感じたことも大きかったです。
 あるとき、近辺の図書館で一九八六(昭和六一)年発行のタウン誌『自由が丘』(自由が丘商店街振興組合)創刊号を見つけました。自由が丘誕生史の記事があり、先入観が覆された私は、この町の歴史について調べてみました。この地域はもともと「ふすま村」(住所は碑衾ひぶすま町大字衾)と呼ばれた農村です。東京の都市圏が膨張した大正―昭和初期に鉄道が敷かれ、地元の人たちがつくった耕地整理組合が住宅街を整備しました。栗山家、岡田家という室町時代から続く大地主がいて、町の転機になるたびに出番がやってきます。
 近代の転機は、現在の東急電鉄による鉄道の敷設。一九二七(昭和二)年、東京横浜電鉄が現在の東急東横線を開通させ、衾村に近くの九品仏浄真寺から名前を取った「九品仏」駅ができました。ところがその二年後に大井町線が延伸される際、近くに東横線の田園調布駅と一九二三(大正一二)年に目蒲線(現目黒線)の開通でできた奥沢駅があるから、と九品仏駅を廃止する話が持ち上がります。大地主の栗山久次郎が東京横浜電鉄の社長に談判した結果、新たにできる大井町線の新駅に「九品仏」の名を譲り、もともとあった九品仏駅は大井町線と東横線の乗換駅「自由ヶ丘」として存続できることになりました。『東急電鉄東横線 沿線の歴史探訪』(生田誠、アルファベータブックス、二〇二四年)によると、当初は「衾駅」案が有力だったものの、後述するバレエダンサーの「石井らの地元民が『自由ヶ丘』を推した」結果だったそうです。
 突然出てきた「自由ヶ丘」という名前は、一九二八年、教育者の手塚岸衛きしえが衾村に「自由ヶ丘」学園小学校を創立して登場しました。石井ばくは手塚の友人でモダンダンスの先覚者。彼もこの地の雰囲気と「自由ヶ丘」の名前が気に入って同年、「石井漠舞踊研究所」を武蔵境から移転させています。民主主義運動が活発だったこの時期、彼らは自主独立を意味する「リバティ=自由」の精神を大切にしていました。農村社会で浮き上がりがちな彼らに居場所を与えたのも、栗山久次郎。やがて文化人が集まり、勝手に住所を「自由ヶ丘」と書いて手紙のやり取りを始めました。その名前が地元の人にも気に入られて駅名に使われ、正式な町名にもなった。「自由ヶ丘」から現代的なひらがなの「自由が丘」になったのは、町名が一九六五(昭和四〇)年、駅名がその翌年でした。
 自由が丘は、戦前に地元の人たちが整備し、自ら名前も選んだ自主独立の精神に貫かれた土地だったのです。その町が今、一〇〇年に一度の再開発の渦中にあります。自由な町の成り立ちとベンチ、再開発の関係は、ウォーカブルな町について考える出発点としてふさわしいのではないでしょうか。

緑道が憩いの場所になるまで

 ベンチが置かれた九品仏川緑道には、自由が丘の気風が表れています。私は二〇一六(平成二八)年、自由が丘商店街振興組合長の岡田一弥かずやさんと『「自由が丘」ブランド』(産業能率大学出版部)という町を紹介する本をつくりましたが、その際、ベンチを置いた仕掛け人、渡邊靖和やすかずさんに取材をしています。
 名前からわかるように、九品仏川緑道は九品仏川にふたをした暗渠です。昭和初期は土手に桜が植えられ、子どもたちは川でザリガニ釣りをしていました。一九三九(昭和一四)年生まれの渡邊さんも、魚や蛙がいるきれいな川だった時代を覚えており、映画の「ターザン」がヒットした子どもの頃、桜の木に紐をくくりつけターザンごっこをしたそうです。
 しかし、高度経済成長期になると川は汚れ、「どぶ川」と呼ばれるようになりました。周囲に連れ込み旅館が立ち並んでいたこともあり、一九七〇(昭和四五)年生まれで古書店を営む西村康樹やすきさんが小学生の頃は、大人から「歩いちゃいけない」と言われたそうです。川は一九七四年に暗渠化され、管轄していた世田谷区によって公園緑地になりますが、桜の下の小道は細く蛇行し歩きにくいものでした。
 一九八四(昭和五九)年に、中小企業庁が商店街を「暮らしの広場」に整備し活性化するコミュニティーマート構想のモデル事業への参加を全国に呼び掛けました。再開発の必要性を感じていた自由が丘商店街振興組合も手を挙げます。一九九〇(平成二)~一九九二年に実施したこの事業では、駅北側の雑貨店「私の部屋」に面したサンセットアレイ、南口を出てすぐのマリクレールストリート、駅前の女神広場、そして九品仏川緑道が整備されました。石畳を敷いたサンセットアレイは、テレビドラマのロケなどで使われるようになります。
 九品仏川緑道は、駅寄りの北側が目黒区、南側が世田谷区の管轄です。自由が丘商店街振興組合は両区と連携し緑道の整備を進めましたが、町を訪れる人の自転車が大量に放置されるようになってしまいました。駐輪場をつくる案もあったのですが、公園という位置づけのため叶わなかったのです。
 放置自転車が多いと歩きにくく危険で、せっかく敷いた石畳も生かされず植え直した桜並木も楽しみづらい。ここで独自の策を講じたのが、家具輸入会社社長で、自由が丘南口商店会のリーダーだった渡邊さんです。「イベントの際は、千数百台あった放置自転車を撤去し、テーブルや椅子を置くと皆さんが楽しんでいる。四六時中こういう状態であって欲しい、とベンチを置いてみたら、自転車が放置されなくなることに気づいた」、と渡邊さんはイタリアでデザインしたベンチを、自腹で置く活動を始めました。
 当初は私物だからと撤去を求められましたが、かかわりがあった区議の協力を得て、区と一年契約でベンチを置いてよいことになりました。その後は自由が丘南口商店会や、緑道に面するビルのメンバーが購入したベンチを世田谷区に寄付し、世田谷区も保管場所を用意するなど互いに協力するようになって今の光景が生まれたのです。

一〇〇年に一度の大改造はなぜ行われる?

 現在、大規模な再開発が進行中の自由が丘はあちこちが工事壁で囲まれています。今回の転機では、自由が丘のもう一方の大地主、岡田家の出番がやってきました。自由が丘商店街振興組合事務局長の中山雄次郎さんにくわしく聞きました。
 駅正面口前には、時計・宝飾店の「自由が丘一誠堂」、日本のモンブラン元祖の洋菓子店「モンブラン」、蕎麦店の「やぶ伊豆」などの老舗が入る地上一五階地下三階のビルが、二〇二六年七月下旬に完成する予定です。一~四階は老舗を含む商業施設、五階は商業施設とオフィス、六階はオフィス、七階以上は高級賃貸マンション、地下は駐車場。マンション部分を賃貸にしたのは、しばしばイベント会場としてにぎやかになる女神広場に隣接しているから。事情を説明し理解してくれた賃貸利用者に住んでもらおう、という意図があります。
 この地区の再開発組合理事長が、先述した『「自由が丘」ブランド』を一緒につくった岡田一弥さんです。岡田さんの本業は不動産業で、大地主岡田家のおよそ二〇代目ですが、再開発に関わる地区の土地は所有していません。再開発組合の代表になったのは、岡田さんが理事長を務める自由が丘商店街振興組合自体もその土地に事務所を構えていた地権者だからです。「第三者的な立場の岡田さんなら、地権者同士の調整を行い、デベロッパーにも町の思いを通してくれるはず。『苦労しかないけど、引き受ける』と言ってくれました」と中山さんは説明します。
 中山さんが「町主導で個性を損なわない独自の再開発」と話すポイントは三つ。
 一つ目のポイントは、岡田さんや中山さんを含め、町を愛するスタッフが関わっていること。住民でもある都市デザイナーの卯月盛夫うづきもりおさんは、長らく再開発に反対していました。自由が丘の魅力は個人店が立ち並び、店員と客が世間話もする人情味にある。しかし、おしゃれに見える商店街の建物が実は老朽化が進み、狭い路地が多く、災害時の被害が大きくなるリスクを抱えています。再開発以外の選択肢がないのなら、「都市でありながらも、いい意味で村社会のようなつながりを生む施策を講じた『アーバンヴィレッジ』」(『自由が丘OFFICIAL GUIDE 2023』、自由が丘商店街振興組合発行、昭文社発売、二〇二二年)と目標を掲げた卯月さんについて、「ゼロ金利時代の影響もあり、地権者さんたちに損をさせずに町の安全性を高める方法は、残念ながら再開発しかありません。その代わり、『通り一遍でない再開発をしよう』と言ってくださいました」と中山さんは話します。
 再開発の工事を請け負うのは鹿島建設。同社も再開発組合に入り、完成後も管理に携わります。二〇一五(平成二七)年から始まった再開発に向けた勉強会に、この地区に住む鹿島建設の社員数名が、個人として参加していました。計画が進むにつれ、「自由が丘愛があり、自分たちが欲しい建物を理解している、あの人たちがいる会社に建てて欲しい」、と町の関係者の意見が一致したそうです。
 二つ目のポイントは、回遊性を再現すること。一階には、日中は誰でも行き来できる通路をつくり、テナントが店頭に折り畳み式の看板を出したり、オープンカフェにしたりできる空間を確保します。自由が丘商店街振興組合や東急電鉄などが参加する自由が丘エリアプラットフォームが二〇二三年に作成した冊子『自由が丘未来ビジョン』には、「それぞれの建物をつなぐ回遊デッキ、建物裏側からのアクセスを可能とする『ねこみち』、建物を貫通する通路空間を整備するなど、立体的にまちの回遊性を向上させ」る、と説明があります。
 三つ目は、緑の計画。再開発ビルは、通行人の眼に入る一番上の高さに当たる五階にテラスや植栽を置き、圧迫感が出ないようにします。「私が一番苦労したのは、外構計画」と話す中山さん。外構とは、庭や植栽など、建物の周りのことです。「来街者や住人が否応なく目にするのが、歩道や街路樹です。最初の計画では、五階の高さ以上に生長し秋にドングリが落ちる白樫だけを植える予定でした。しかし、テラスカフェにドングリが降ると困ります。ミツバチを育ててハチミツを獲る“丘ばちプロジェクト”を長年担当してきた私としては、花が咲く木も欲しい。そこで、ユリノキやソヨゴを飲食店が入居できる区画に植えるなどして樹木の配置を工夫しました」。
 道路も広げます。ビルに接するカトレア通りは現状四メートル幅ですが、再開発後は歩道部分だけで西側五メートル、東側二メートルの七メートル幅で、車道を入れると合計一五メートル幅になります。ベビーカーや車椅子も使いやすいフラットな歩道は、花壇やベンチを置いた憩いの空間になる予定です。
 隣接する地区は「美観街びかんがい」と呼ばれる飲み屋街でしたが、「建物がいつ崩れてもおかしくない状態ですし、火事になると地域全体が焼ける恐れがあります。かといって駅近の一等地を、地権者が買い取ることも難しい。土地・建物それぞれのオーナー、テナントと権利も複雑です」と中山さんは説明します。再開発費用を負担する地権者に損をさせないためには、建物を大きくして収益を出すしかない。その結果、ここには地上二五階地下三階のタワマンが建つことになり、美観街の店も商業フロアに入る予定です。全国に増えるタワマンの裏には、こうした地元の苦渋の決断が隠れているのでしょうか。ただ、既存の地権者以外は高いテナント料を払わなければならなくなるなど、ジェントリフィケーションが起こる可能性は高いように思います。
 地権がそれほど複雑でない駅から少し離れた地区では、自由が丘商店街のメンバーなどが加わる町づくり会社、ジェ{hlb}イ・スピリットの協力を得て、町の雰囲気をできるだけ維持するよう工夫します。建物ごとの建て替えを進め、ビル建設の際に必須とされる駐車場を別の場所に設け、一階は路面店でにぎわいを保ちます。一段落するのは、二〇三〇年頃の見込み。
『自由が丘未来ビジョン』では、再開発地区について、“日本一座れる場所が多いまち”をめざすと明言しています。転機のたびに「それは自由が丘らしいのか」が議論になってきたこの町では、今回の大規模再開発に際してもくり返しその言葉が出たそうです。近年、「住みたい街ランキング」の順位が低下し、「自由が丘はもうダメだ」とささやかれることもありましたが、個性を保つ手間を惜しまない町の再開発は、これからの町づくりの指針となるかもしれません。

イラストレーション=こんどう・しず

阿古真理

あこ・まり●作家・生活史研究家。
1968年兵庫県生まれ。神戸女学院大学文学部卒業。女性の生き方や家族、食、暮らしをテーマに、ルポを執筆。近著に『家事は大変って気づきましたか?』『大胆推理! ケンミン食のなぜ』『おいしい食の流行史』『ラクしておいしい令和のごはん革命』『日本の台所とキッチン一〇〇年物語』『日本の肉じゃが 世界の肉じゃが』等。

『何が食べたいの、日本人? 平成・令和食ブーム総ざらい』

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