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三浦英之「銀河鉄道の夏」⑦ 第七章 函館・札幌

[連載]

第七章 函館・札幌


写真/浅沼和明

 先生が死んだ――。
 青森から函館へと向かう青函フェリーの船上で、津軽海峡を渡ってくる海風にかき消されながらスマートフォン越しに聞こえてくる母親の声は、非現実的な響きを伴って私の耳に届いた。
 先生が死んだ――? 
 私と母親との間で先生と言えば、小学校時代の女性教師のことを指す以外に考えられなかった。実際、母親は私に女性教師の死を告げていた。
 私は突然目の前に現れた現実をうまく受け止めることができなかった。当然だ。物事があまりに作為的に起こりすぎている。私はそのとき、数十年前に小学校で女性教師に告げられた「いつかあなたが大きくなったら、樺太(からふと)までは無理かもしれないけれど、北海道の上の方ぐらいまで、先生を一緒に連れて行ってもらえませんか?」という言葉を頼りに、宮沢賢治が一〇〇年前に向かった樺太旅行をたどる旅を続け、いままさに青函フェリーに乗って青森から北海道へと渡ろうとしている最中なのだ。こんな計ったようなタイミングで女性教師が亡くなったりするだろうか――。
 状況もまったくと言っていいほどつかめなかった。涙声で伝わってくる母親からの報告によると、女性教師の死因はどうやら病気らしかったが、果たしてそれは本当なのか。
 もう一つ解せなかったのは、母親によると、遺族が私に「通夜や葬儀には来ないでほしい」と望んでいるらしいということだった。なぜ女性教師の遺族が葬儀への私の参列を拒否しているのか。肝心なことが何一つわからない。
 私は激しく混乱しながら、気がつくと、人目に触れぬよう青函フェリーの二等客室の隅で膝を抱えてうずくまりながら号泣していた。まともに物事を考えることができず、ただ動揺し、ただ混乱し、苦しくて寂しくて、涙が次から次へとあふれ出てきた。
 フェリーが函館港に入港し、ガシャンという大きな音を立てて桟橋につながれたとき、私はそれ以上二等客室にはいられなくなり、この先どう行動するかという具体的な選択を迫られた。精神的にはすでに取材旅行を続けられるような状況になく、すぐにでも女性教師の通夜や葬儀に駆けつけたかったが、遺族は私の参列を望んでおらず、彼女は私が知っているかつての住居からはすでに転居してしまっているため、神奈川県内で暮らしているという以外、正確な住所さえわからない。
 私は船内のアナウンスによってフェリーから桟橋へと押し出されると、女性教師の自宅がある神奈川に向かうにしても、このまま取材旅行を続けるにしても、どちらの選択肢も選べるようにひとまずタクシーで函館駅に向かうことにした。
 そのタクシーの車内で突然、発信者不明の画面表示でスマートフォンが鳴った。私は女性教師の遺族である長女からの電話ではないかと期待したが、通話ボタンを押すと流れてきたのは優しそうな年配の男性の声だった。
「三浦さん、佐藤です。函館港に無事着かれましたでしょうか? 北海道はいいところでしょう? 私のアトリエへの道順はちょっと複雑でして……」
 その日にインタビューを予定していた、函館で「山猫工房」を主宰する木版画家の佐藤国男からの道案内の電話だった。佐藤は自らを「山猫博士」と名乗ってこれまでに賢治の童話に関する木版画を三〇〇種以上も発表している人気作家だった。
 私は無邪気で明るい佐藤の声にいま自分が置かれている状況をうまく説明することができず、その日はひとまず約束のある佐藤にアトリエで面会してからその後の行動を決めることにした。佐藤のアトリエの住所をタクシーの運転手に伝えると、車で二〇分ほどの距離だという。親切そうな年配の運転手は後部座席で涙ぐんでいる私を見て、「お客さん、大丈夫ですか?」と温かい言葉で気遣ってくれた。

*

「遠いところからお疲れでしょう。北海道と言っても、夏はこの通り暑いんです。さあ、まずは麦茶でも飲んで……」
 自宅兼アトリエの前で出迎えてくれた佐藤は、まるで賢治の童話に出てくる気の良い農夫のような、穏やかな雰囲気をまとった木版画家だった。自宅の二階が一〇畳ほどのアトリエになっており、いくつもの資料を詰め込んだファイルや木版画の道具、版画の試作品などが所狭しと詰め込まれている。
「木版画家になる前はずっと大工をやっていたんです」
 佐藤はアトリエのイスに腰掛けるなり、にこやかに自らの過去を語ってくれた。
「子どもの頃はずっと絵ばかりを描いていてね。将来は絵描きになりたいと思っていた。でも現実は厳しくてね。高校卒業後、二〇年以上は大工として働いたんです」
 佐藤には申し訳なかったが、私はそんな彼の身の上話をどこか上の空で聞いていた。女性教師のことを考えないようにしようとすればするほど、彼女との記憶が胸の奥からこみ上げてくる。佐藤はそんな私の事情はお構いなしに、時折アトリエに張られている木版画作品を見渡しながら話を続けた。
「でも、やっぱり絵が好きなもんだからさ、大工になった後も建築現場で余った木材なんかを見つけると、ピューとかんな掛けをしたりしてさ、そこに墨で下絵を描いたり、版画にしたりして作品を作っていたんです。そのうち周囲から『お前、うまいな』と言われるようになり、それで趣味が高じていつしか個展で発表するようになって、やがて本職としてもう四〇年近くも木版画家をやっています」
 私が上の空で頷くと、佐藤は照れながら、野球少年のような表情で微笑(ほほえ)んだ。私は、ああ、この人は本当にいい人なんだな、と思うと同時に、このような中途半端な気持ちで取材対象者に向き合っている自分に罪悪感を覚えた。
「なかでも一番多く彫ったのがやはり宮沢賢治の世界です」
 佐藤はテーブルに置かれた麦茶を飲みながら言った。
「彼は彼の世界を決して言葉で語り尽くさない。絵描きに想像や創造をさせてくれるスペースを十分に残してくれているから、とっても描きやすいんです。賢治の物語世界に登場する宇宙や植物、動物といった自然物も木版画とすごく相性がいい。なんと言えばいいのか、こう、教科書的なものが何もないというか、なにをどうやっても許される世界なんですね」
 そんな佐藤の温かな語り口を聞いていると、私の冷え切っている心も徐々に融解していくような気がして、不意に私の口から質問が出た。
「佐藤さんが『山猫博士』を名乗ったり、アトリエを『山猫工房』と称したりしているのは、なぜですか?」
「もちろん、『注文の多い料理店』や『どんぐりと山猫』に出てくる山猫からですよ」
「でも、賢治は猫が嫌いですよね?」
「その通り!」と佐藤は私の質問を受けていかにも愉快だといったように笑った。
「賢治が書いた『猫』という短編には〈私は猫は大嫌ひです。猫のからだの中を考へると吐き出しさうになります〉と書かれているのですが、私はどうしても嫌いになれないんですよね、賢治の作品の中に出てくる山猫が」
 佐藤はうれしそうに話を続けた。
「現代の日本における猫のイメージとは違って、当時の山猫はとても気性の荒い動物だったようです。だから、『注文の多い料理店』や『どんぐりと山猫』に出てくる山猫が悪者のイメージで描かれているのも、あるいは仕方がないことなのかもしれません。『ポラーノの広場』に出てくる山猫博士も、選挙前の宴会で住民に密造酒を振る舞う悪役ですしね。でも、賢治は本当に山猫が嫌いだったのか? すべてが『善』ではなく、すべてが『悪』でもない。それらがむしろ混在しながら一つの世界を形成しているのが賢治作品の魅力でもあったりします。『注文の多い料理店』では、都会から来た狩人が山猫にだまされてひどい目に遭う。地方の住人が抱える、都会人への反感を見事に表現してくれて愉快だなと思う。その際の正義のヒーローは山猫なんです」
 私は佐藤の語りに引き込まれるようにして質問を続けた。
「賢治が生前描きたかったのは、具体的にはどんな世界だったと思いますか?」
「いくつかあると思うけれど、一つはきっと『いじめられっ子』の世界じゃないかな」
「『いじめられっ子』の世界?」
 佐藤は少しまじめな表情になって言った。
「たとえば『風の又三郎』や『セロ弾きのゴーシュ』といった彼の人気作品があるじゃないですか。あるいは『よだかの星』や『銀河鉄道の夜』だってそうなんですが、彼が描いているほとんどの作品では『いじめられっ子』が主人公なんです。私なんかもそうですが、賢治は『競争』という言葉が大嫌いで、童話でも競争社会を皮肉ったものを数多く書いている。そんな競争から最も遠いところにいる『いじめられっ子』をあえて物語の中心に据えることで、世界を風刺し、いじめられている子どもたちを励まそうとしていたんじゃないかなと」
 私自身は幼少期、いわゆる「いじめっ子」でも「いじめられっ子」でもなかったが、佐藤の話を聞いていると、現代でもなぜ多くの大人や子どもたちがこれほどまでに賢治の童話に惹き付けられるのか、その理由が少しだけわかるような気がした。おそらく誰もが忌避し、求めているのだ。この苛烈な競争社会から身を守るため必要な、精神を安全に保つために逃げ込めるだけの隙間を――。
「私自身も勉強が苦手な落ちこぼれだったからね」と佐藤は笑いながら話を続けた。「そんな落ちこぼれが、大人になって賢治の作品を読むと癒やされるんだよね。人間に本当に必要なものはお金でも地位でも名誉でもないよってね。代わりに『大切なもの』がうっすらと見えてくる」
「大切なもの?」と私は記者としてではなく、一人の傷ついた人間として佐藤に尋ねた。「それって具体的に言うと何ですか?」
「難しいけれど……強いて言えば、『思いやり』かなあ」と佐藤は少し悩んでから言った。「人を『思いやれる』からこそ、人は人でいられる。逆に、人は人とのつながりのなかでしか生きていけない。僕らは本来弱い生物なんだ。賢治の作品を彫っていると、時々そう感じることがあるんだよね」
 佐藤が不意に発したそんな一言が、私の体の芯をグラリと揺らした。「思いやり」という言葉は女性教師がやはり、私の小学校時代に最も大切にしていた思い出の言葉だったからだ。
「賢治は生前、ほとんど売れなかったからね」と会話の最後に佐藤は言った。「だから大衆受けするような物語ではなく、自分が本当に書きたい世界を書けたのかもしれない」

 佐藤は根から優しい男なのだろう。その後、私を自宅の地下にある作品の収蔵庫に案内してくれ、木とインクのにおいが充満する地下室で、自身が半世紀以上かけて作り上げた数百枚の作品を一つひとつ丁寧に時間をかけて見せてくれた。
 作品を見終えて地下室から上がったリビングで、私はそれが失礼であると承知しながら、この取材旅行の目的を語り、先ほどそのきっかけとなった女性教師が亡くなったとの連絡を受けたことや、いままでの取材がどこか上の空だったことを佐藤に正直に打ち明けて謝罪した。
「そうだったんですか……」と佐藤は怒るどころか、逆に涙目になって私の話を聞いてくれた。そして腕組みをしながら数分間考え、面会の最後に「これはあくまでも私の個人的な意見ですが」と前置きしてから私に告げた。
「今回はこのまま取材の旅を続けてみてもいいのではないでしょうか。それがもし、小学校の先生がかつて望んだ旅であり、それが『葬儀に来ないでほしい』と彼女が願っている理由の一つだったとしたら……」

*

 函館から札幌へと向かうJR北海道の特急「北斗」は、線路のすぐ側にまで迫る原生林をかすめるように走行し、時折、旧式の車体を激しく揺らしてレールとの摩擦音を荒々しい原野に響かせていた。
 暗がりを疾走する列車のシートで、私は女性教師のことばかり考えていた。どうして彼女は亡くなったのか。遺族はなぜ、その死を私に伝えたがらなかったのか。考えれば考えるほど身体の芯が軸を失い、精神が傷んでしまいそうだった。
 函館で木版画家の佐藤のインタビューを終えた後、私は彼の助言に半ば背中を押されるようにして賢治の一〇〇年前の樺太旅行をたどる旅を続けた。自分で下した判断が正しいか否かについては正直確信が持てなかったが、北海道から首都圏に引き返そうにも八月上旬の混雑期で航空機の予約は絶望的であり、新幹線を頼ろうにも指定席の大半がすでに売り切れてしまっていた。私は消去法的に旅を続けなければいけない状況に追い込まれていた。
 私は過剰なストレスから身体を守ろうとする自律神経の作用からか、無意識のうちに北海道で読もうと自宅の本棚から持ち出してきたある同人誌をリュックサックから取り出し、あくまでも思考の焦点をずらす目的でそこに書かれている文章を目で追った。
 元高校教員の澤田展人(のぶひと)が二〇一六年に創刊した個人文芸誌『逍遥通信』。二〇二二年二月発行の第六号にある短編が掲載されていた。
『賢治と啄木~「北方文化圏」の旅』。
 筆者は外岡秀俊。東大在学中に小説『北帰行』で文藝賞を受賞し、朝日新聞社に入社後はニューヨーク特派員や編集局長を務めた外岡は二〇二一年一二月、心不全で突然死し、掲載されたその短編が彼の事実上の遺稿となっていた。
 外岡は私の人生のある一時期において極めて大きな存在だった。私が外岡の『北帰行』を最初に読んだのは、大学一年生のときで、駅前の古本屋で日に焼けた黄色い背表紙を手に取り、何げなくパラパラとめくってみたところ、その美しい文体に圧倒されてページをめくる手が止まらなくなった。
『北帰行』は盛岡の歌人・石川啄木の半生を軸に、外岡の分身のようにも見える青年の葛藤を描いた青春小説である。
 なぜ外岡が最初の作品の主人公に啄木を選んだのか。その推測は簡単で、それは外岡が北海道の出身だったからである。
 啄木は一九〇七年、曹洞宗の住職をしていた父親が宗費滞納のために住職の再任を拒否されて生活に困窮すると、盛岡の渋民尋常高等小学校の代用教員を辞めて北海道へと渡る。函館で小学校の代用教員や函館日日新聞の遊軍記者になり妻子を呼び寄せて居を構えるが、直後の大火で小学校や新聞社が焼失すると、失意のなかで札幌や小樽、釧路などを転々としたあげく、文学的な名声を求めて上京する。
 啄木の北海道滞在は一年にも満たないものだったが、この北の大地における漂泊が後に彼の代表作となる『一握の砂』に大きな影響を与えたことは明白であり、だからいまも多くの北海道民が啄木を「北海道の歌人」として偏愛する。宴席では大人たちが立ち上がって好きな啄木の歌を同じ節回しで歌う慣習が残っており、外岡も幼少期、父親の膝のうえでそれらを聞いて啄木を「北海道の歌人」と思い込んで育った。
 そんな啄木をテーマにした『北帰行』で在学中に華々しくデビューした外岡が、人生の最後に遺した短編で再び啄木だけでなく、同じ岩手出身の賢治についても取り上げていたことが、私にとっては衝撃だった。
 遺稿を読むと、執筆のきっかけはやはり東日本大震災だった。阪神淡路大震災などの災害を取材することが多かった外岡は、東日本大震災が起きた直後の二〇一一年三月末、実は朝日新聞社を早期退職することが決まっていた。彼は地震発生後に東北に向かう直前、東京・八重洲のブックセンターに立ち寄って取材に役立つ本はないかと視線を走らせ、「電話帳のように分厚い」第三書館刊『ザ・賢治』を買っている。その隣には『ザ・啄木』も並んでいたが、彼は迷わず『ザ・賢治』を選んだという。
 朝日新聞社を退社し、札幌に帰郷した後も、彼はフリーランスの記者として東北の被災地に通い続けた。『賢治と啄木』では次のように記している。


その間、ずっと「ザ・賢治」を携え、出張先で読みふけった。一つ一つの童話や詩が、降るとたちまち消える淡雪のように胸に染み入るのを感じた。それは啄木の歌と同じように、わずかの言葉の中に豊穣な世界を閉じ込めた「壺中の天」のように思えた。入るのはたやすいが、その意味を汲みつくすのは難しい。
(賢治と啄木~「北方文化圏」の旅』)


 一方で、私は新聞業界に身を置く多くの記者のようには外岡をそれほど神格化してはいなかった。むしろ、類いまれなる才能をより文学に注いだ方が、社会的な果実が大きかったのではないかと邪推するようなところがあった。
『北帰行』の文庫本を最初に読んだ時、「一二〇円」と値札のシールが貼られた古書の著者略歴には「現在、東大法学部四年生。二十三歳」とあったため、私は当然、著者は職業作家になっているものだと思い込んでいた。ところが数年後、作家志望のある友人から「外岡はその後、朝日新聞の記者になったんだよ」と教えられ、私は落胆した。あれほどの深い内省力を持ち、文学的な才能に恵まれた書き手が、新聞記者というどちらかというと粗雑で短絡的なイメージのある職業を選んだということが、自分の中でうまく像を結ばなかったのだ。そのときの私は若き外岡の判断を好意的に受け取ったのではなく、どちらかというと否定的に受け取っていた。
 ただ、そんな私のような記者であっても外岡の存在はやはり大きく、彼が新聞記者時代に著した『地震と社会』は震災取材におけるバイブルとも呼べる書籍であったし、新たに職業記者を目指そうとする若者に「何か読んでおく必要がある本がありますか」と尋ねられたら、迷わず外岡がロンドン勤務時代に記した『傍観者からの手紙』を薦めている。
 私が大学院を卒業して紆余曲折の末に新聞社の試験を受けることになったとき、第二志望として朝日新聞社を就職先に選んだのも(第一志望は米ナショナル ジオグラフィック協会だった)、そこに外岡がいるということが理由の一つだった。
「外岡と同じ職場で仕事をしてみたい」という希望は当時の私にはほとんどなかったが、「社内の廊下で偶然、外岡とすれ違ったりしたら、面白いだろうな」という期待のようなものは確かにあった。そのときの私にとっては、外岡は依然、青春期に愛読した『北帰行』の著者であり、一緒に会話をしたり、仕事をしたりする対象ではなく、あくまでも「社内の廊下で偶然すれ違う」だけの一種の憧れのような存在だった。
 私自身が外岡と言葉を交わしたことは一度しかない。
 それは私が入社四年目である大学病院の不正を暴く連載をした際、編集局長賞という社内賞を受賞して仙台から東京まで出掛けていったときである。
 その表彰の場で当時編集局長だった外岡は言った。
「今回のような調査報道はもちろん素晴らしいけど、三浦さんの記事では二年前に社会面に載った真珠湾攻撃の記事が秀逸でしたね」
 その発言に私は少なからず驚いた。彼が言及した真珠湾攻撃の記事とは、まだ駆け出しだった入社二年目の私が、真珠湾攻撃の元搭乗員と一緒に当時流行していた「パール・ハーバー」というハリウッド映画を見た際、上司に無許可でその元搭乗員が操縦する軽飛行機に乗って仙台上空を滑空し、空の上で映画の感想を尋ねるといった記事だった。その機上で元搭乗員は「終戦までに(共に学んだ)自分以外のすべての搭乗員が死んだ。戦争を肯定するつもりは毛頭ないが、あの映画を見て『懐かしい』と思ってしまった。こんな自分を、どうか非難しないでくれないか」と取材者である私に乞う。読者からの大きな反響を受けた後、無許可で軽飛行機に乗っていたことがバレて、上司からは大目玉を食らったルポルタージュだった。
 日本の新聞社はいまも昔も、筆者の肩書で多分に記事の評価が決まる。編集委員やベテランが書く記事は素晴らしい、新人記者や地方記者のそれは取るに足りない。そんなステレオタイプの評価基準が跋扈する新聞社内で、でも実際にはそんなことまったく関係ないのだと外岡は見抜き、入社二年目の記者の記事を評価し、記憶している。そんな外岡の姿が、入社四年目の私にとってはどこかコンクリートの駐車場に咲く野バラのようにまぶしかった。
 そんな外岡は一年半前に六八歳で亡くなっていた。
 特急「北斗」のシートの上で彼の遺稿が載った同人文芸誌を読みながら、次の瞬間、「女性教師が亡くなったのもおそらく同じくらいの年齢だったはずだ」と私は思い起こし、急に胸が苦しくなった。私は読みかけの同人文芸誌を膝の上に伏せ、しばらくの間、頭の中を空白にしたいと目を閉じた。
『北帰行』の冒頭で外岡は次のように書いていた。


雪は死者たちのために降る。白い世界を走り抜ける列車は、死者たちの無数のまなざしに射竦められて動けなくなる。
(外岡秀俊『北帰行』)

 私の周囲には死のにおいばかりが立ちこめていた。
 暗い霧を纏った魂を乗せて、列車は北へと走り続けていた。

♦引用文献
外岡秀俊「賢治と啄木~「北方文化圏」の旅(『逍遥通信』第六号)逍遥通信刊行会、二〇二二年
外岡秀俊『北帰行』河出書房新社、一九七六年

三浦英之

みうら・ひでゆき●朝日新聞記者、ルポライター。1974年神奈川県生まれ。
『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で小学館ノンフィクション大賞、『帰れない村 福島県浪江町「DASH村」の10年』でLINEジャーナリズム賞、『太陽の子 日本がアフリカに置き去りにした秘密』で山本美香記念国際ジャーナリスト賞、新潮ドキュメント賞を受賞。最新刊は『日本で一番美しい県は岩手県である』。

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