青春と読書 本の数だけ、人生がある。 ─集英社の読書情報誌青春と読書 本の数だけ、人生がある。 ─集英社の読書情報誌

定期購読のお申し込みは こちら
年間12冊1,000円(税・送料込み)Webで簡単申し込み

ご希望の方に見本誌を1冊お届けします
※最新刊の見本は在庫がなくなり次第終了となります。ご了承ください。

連載/本文を読む

石山蓮華「ショッピングモールの女」
[第6回] フードコート

[連載]

[第6回] フードコート

 その日は朝から雨が降っていた。予報によれば、夕方から翌日の昼までが特に強く降るそうで、関東でも線状降水帯発生の恐れがあるという。JRは翌日のダイヤを調整し、電車の本数を減らし、時間によっては運休にすると発表した。
 そんな日の午後、私は1時間以上電車を乗り継いで、ららぽーと立川立飛(たちかわたちひ)にやって来た。モールの大通りには硬く、毛足の短いブラウンとベージュが混ざった色のカーペットが敷き詰めてあり、ところどころになにかをこぼした黒っぽいシミがある。
 フードコートエリアに一歩入れば床の様子が明るく変わる。白っぽいフローリングは樹脂製なのだろうか、表面にはテカテカとしたワックスが塗ってあり、水を弾くようになっている。よく見ると、木目のプリントとは微妙にずれた、でもかなり本物っぽい凹凸(おうとつ)が施されている。自分の足元だけ見ているとそれが精巧に作られた偽物なのか、本物のフローリングなのかわからなくなるが、少し引いてみるだけで、こちらとあちらの節がすっかり同じ姿なのに気付き、プリントされたものだとわかる。どことなく、新築建売物件のモデルハウスのリビングを、食堂サイズまで広げたような内装だ。

 モールの3階にあるフードコートは、雨の日でも自然光が入って明るい。入り口は基本的に一箇所となっていて、廊下側には料理の匂いが漏れない作りになっていた。手前側のサーティワンには長蛇の列ができている。
 混雑のピークは過ぎていたが、遅めの昼ごはんを食べる人でまだごった返していた。よく日に焼けた小学生が、四人がけのテーブルにひとりで突っ伏している。
 中へ入れば、さまざまな食べ物の匂いと、人々のさわがしい声が空間いっぱいに満ちていき、まるで夏の浜辺である。赤ちゃんの泣き声も高校生の笑い声も混ざりあい、遠くの風の音や波音のようにさわさわと反響していた。サーティーワンアイスのキッズサイズを食べ終えた老人が、小さなカップを二つ重ね、中にピンク色のプラスチックスプーンを入れて右手に持ち、左手には白い紙コップを持っている。燃えるゴミ用のゴミ箱に、右手に持ったものをまとめて押し込むため、バネ式になった蓋に右手ごとぐっと押し当て、その拍子に左手の紙コップから水が床に向かって一直線に注ぎ込まれた。頭をスポーツ刈りにした中年の人が、目の前に置いた石焼ビビンバセットの写真を撮っている。
 店から料理を受け取った人が、両手でお盆をもち、細い通路を慎重に歩いている。向こうからはお盆の上にどうとんぼり神座(かむくら)のラーメンを載せた人がやってきて、こちらからはお盆の上に樹脂製のざっくりした黄土色の平皿に、チーズたっぷりのトマトソースパスタを載せて運ぶ人が向かってゆき、慎重にすれ違った。
 私は窓際に面した一人がけの席を見つけ、椅子にカバンを置き、ガラス面に張り付いた雨粒が集合し、一粒ツーッとすべり落ちてゆくのを見てから、財布だけ手に取って、店の前を行ったり来たりした。
 生パスタ、唐揚げ定食、麻婆豆腐、博多ラーメン、びっくりドンキー。茶色いものばかりなのが良い。びっくりドンキーのハンバーグと、牛肉丼屋 和の焼肉丼の二択で迷い、後者で焼肉丼、温玉のせを頼んだ。
 呼び出しブザーは手のひらにとってちょうどいい、まさに手のひらにすっぽり収まる小ささなのだけれど、これまで何人もの空腹の人が確実にこれを触っているからか、なんかちょっと触っていたくない感じがある。振動とともにピピピーと高い電子音が鳴り、人にぶつからないよう、床で滑ることのないよう、ゆっくりとカウンターへ向かう。

 食べるのは好きなほうだと思う。
 人とご飯を食べているとき、私のほうが早く食べ終えてしまうことがよくある。家でも外でも、目の前に料理や食べ物がやってくれば、多少熱かろうが量が多かろうが、さっさと食べてしまう。料理の温度、味、香り、食感といったいくつもの刺激の海に、味覚を使って飛び込んで、ざぶざぶと沖まで行ってみるような感覚が好きだ。
 たとえばそれが、家族が作ってくれた野菜炒めだったり、モールで食べるチーズバーガーだったり、コース料理のスープ、冷凍食品のドリア、地下鉄のホームで食べるコンビニのツナマヨおにぎりだったりと、ジャンルにかかわらず、それぞれ目の前の料理を「おいしい、おいしい」と夢中になっているときは心から楽しい。
 黙々と食べるとさらに早いのだが、ちょっとした世間話をしながらでも、私はもりもりと食べられる。私は密(ひそ)かにこの、食べる早さに自信がある。
 特にラーメンなら、街頭で100人集めて平均値をとったときには確実に早いほうに入る。カウンター式のラーメン店に行き、隣り合う誰かに同じタイミングでラーメンが提供されたときには大抵私のほうが早く食べ終える。そこに性別や年齢は関係ない。私より先に食べ始めた人よりも早くぺろりと食べ終えることもままあり、そういうときはマッチョな自己肯定感が満たされ、私って負けず嫌いなんだよなと、ほんの少し恥じる。

 実際にものを食べているとき、こういった考えごとはほとんど浮かばない。私は焼肉の上でぽよっと格好を崩した温玉をプラスチック製の赤い箸で割って、白米と肉と絡め、黙々とかき込む。赤身肉にはちゃんと中まで火が通っており、母が焼いた肉のようだなと思う。母はミディアムレアやレアを避けており、どんな肉も必ずよく焼いて食べる。ウェルダン愛好家だ。
 丼の上にどさどさと盛られた肉は、見た感じちょっとパサついてそうだったけれど、食べてみるとちゃんと柔らかくて美味(おい)しい。醬油ベースのタレは、オーソドックスな味で丼によく合う。だまったまま、一人ざぶざぶと味覚の中を泳いでいく。

 私は人とごはんを食べるのが好きではあるが、飲み会のように、常に目の前に食べられる物があり、それをだらだらとつまんでゆくような席ではないときに、よく「しまった」と思う。
 人とのゆったりしたランチなどで、一人分の量が決められた定食などを食べるとき、ご飯、おかず、汁物と、すべてを自分のペースでぱくぱくと食べてしまってから、ああ、まただと思う。相手がまだ半分も食べていないのだ。
 さっきまではなにも気にならなかったのに、目の前の友人の一口の小ささ、もはや、ささやかさがビビッドに飛び込んでくる。私なら二口で食べ切れる量のごはんが、何ターンかかっても減っていかない。目の前にほかほかの状態で出てきた料理が、食べ頃の温度やつやめきを失い、冷めて乾き切っていくのに関心がいかないのかと勝手にじれったく思う。人の口から入った料理は、自分の舌の上には来ない。だから、目の前の相手がどんなペースで、どんなふうに料理を食べようが、私にはまったくもって関係ない。余計なお世話としか言いようがない。
 空腹を抱え、これから始まる食事を待つのは、期待感でどうにか持つ。しかし、すでに満たされた胃とともに、人の食事が進むのを目の前で待っているとき、内心退屈している。しかし、そういったときに相手が大切にしているのは、食事とともにゆったりと会話することなのだ。一人分の献立のうちの一皿に、私に見えていない「会話」という料理が盛られている。私の目の前にあるのは物理的な料理のみだが、人によって食卓にのっているものそのものが違って見えている。誰かと食事するときには、その相手が料理と会話を並列に、ゆったりと楽しむのを、できるだけ尊重したい。
 私の一口は大きく、嚙む回数は少ない。早食いによって血糖値が急に上がるからか、食べている間から眠くなることもよくあるし、食事の後は小一時間寝たいくらいに眠い。
 早食いしていいことなんてなにもないのだが、私は食事の最中に満腹に追いつかれてしまうことを恐れている。子どもの頃から「出された食事は完食する」という教育方針のもと育ったので、できるだけ食べ残しをしたくない。子どもの頃は少食だったため、食べながら満腹になることもよくあり、満腹のままで食べ続けることのきつさはよく知っている。

 さらに、ご飯を食べ終えた後、本当はできればあまり長居したくない。特に行きたいところがあるのではなく、お腹(なか)がいっぱいになった後、同じ席にそのままじっとしていることの良さにピンとこないというか、急に「暇だな」と思えてくる。
 そういうとき、モールであれば同行者や自分の分の水をもう一杯取りに行ってみたり、サーティーワンアイスを物色したりすることもごく自然にできる。比較的、飽きない。

 私はとにかく食べるのが遅い子どもだった。
 母親は、幼い私に食事させるために付きっきりで、小さな一口分を口に入れては、そのままぼんやりと固まっている私に「かみかみ、ごっくん」と号令をかけて一生懸命に咀嚼(そしゃく)させていた。
 保育園に私を迎えに行ったとき、壁に向かって一人でおやつを食べていたというのを母から何度も聞いたけれど、それもどうやら、食べるのが遅かったかららしい。保育園の壁には、季節ごとに保育士さんが折り紙や画用紙で作ってくれた飾りが貼ってあり、ある一面には作り付けの小さなロッカーが並んでいた。持ち物にはどれも母の字で、あるいはフェリシモのお名前テープや、ステンシルプレートなどを駆使し、「いしやまれんげ」とあり、名前の最後にはワンポイントでチューリップのような花の図像が入っていた。フローリングの隅にはいつも砂利がほんのりと吹き溜まっていたように思うが、気にしたことはなかった。子どもの世界には、いつも子どもならではの不潔さがある。
 手のひらサイズのチーズワッフルは、中にほんのりとした塩味のあるチーズフィリングが入っていた。ほの甘い生地にはスポンジのように細かな穴が空き、凸凹(でこぼこ)の部分は編み目の模様になっていた。私は、甘いんだかしょっぱいんだかわからない食べ物はあまり好きでなかったが、嫌いというほどいやな味というわけでもなかった。ただ興味も持てず、食べ進まないまま、もそもそと齧(かじ)っていたように思う。
 家でも「ご飯ができたよ」と言われ、はーいと返事はするが、すぐには動かなかった。ご飯ができたんだなということはわかるけれど、それよりも目の前にある紙にお絵描きをしていたかった。子どもの頃の私はとにかく絵を描くのが大好きで、紙とペンさえあれば何時間でも、黙々と絵を描いていられた。次から次に描きたいものが浮かぶので、それを逃がさないよう手を動かしているときの楽しさは、目の前の食事に一生懸命になるときの集中の感覚とも、今となってはそう遠くない気もする。
 返事をしたのに一向に食卓につかないので、母から「早く食べなさい」と言われ、やっと椅子に座る。目の前にごはんが用意されても、テレビが気になったり、なにかしらで気が散ったりしながら食べる。そうやってぽつぽつと、ものを口に運んでいるうちに満腹感が私をつかまえてしまうと、より箸が進まなくなる。好き嫌いがあるのではなく、空腹というものにあまりピンとこなかったり、食べることに興味が持てなかったりで、好きな食べ物を聞かれたときには「卵かけご飯」と答えて母を落胆させた。とにかく一番すぐ食べ終えられて、すぐお絵描きに戻れるのが卵かけご飯だったからだ。

 夏休みに祖母の家に行くと、食べるのが遅い私と、同じく食の細い3歳下の従姉妹は、朝ごはんを食べている間に昼ごはんが出てくることもしばしばだった。その間遊ぶこともできず、お腹いっぱいなのにただただ、口元にそっとごはんを運び続けることになる。大人たちから「そんなにゆっくり食べてると、口の中で発酵するよ」と揶揄されながら、従姉妹と私は、夏の光の中、嚙めば嚙むほど米が甘くなるのを感じながら、じりじりと食べ続けた。
 ちゃんと食事ができると「残さずえらい」「よく食べたね」と褒められ、食事が疎(おろそ)かになっていると「栄養失調になるよ」と言われた。もともと痩せっぽちの子どもだったので、大人から「ちゃんと食べてるの?」と言われることもあった。それは単に私にだけ向いていた言葉ではなかったのかもしれないと今は思う。親は、痩せっぽちで食に興味のない子を持つ養育者として、きちんと食事を食べさせていないと思われるんじゃないかというプレッシャーに晒されていたはずだ。親にとっては何重にも、申し訳ないことをしていたと思う。

 私が食欲を理解したのは、たしか10歳を過ぎた頃だった。成長期に差し掛かった私の体は、それまでとは別次元に多くの栄養を欲した。空腹というものの輪郭が、ある日を境にくっきりとし、なんでもたくさん食べられるようになった。炊かれた白米を食べ切り、おかずもおかわりし、それでもまだちょっとなんかないかなと冷蔵庫を開けたり閉めたりした。
 それからは、ごはんって美味しい、一人分が食べられて嬉しいと思えるようになった。基本的に面倒でしかなかった食事というものの素晴らしさを、晴れて履修したのだ。

 しかし、20代の頃、日中家で一人過ごしているときにはよく空腹を取り逃がし、文字通り倒れそうになっていた。今すぐなにかを口に入れないと動けないほど消耗していたり、胃痛が起こるまで空腹に気づかないことがよくあった。その手前になんとなくお腹が空いたかもと思う、空腹の気配みたいなものがあったとしても、子どもだった頃と同じく、目の前にやりたいことがあったり、ただ気が向かなかったりすると、なにも食べない。食べる必要性を忘れたまま、食事はどんどんと後回しになって夜になり、手足が冷えて、床に横たわったまま動けなくなってから「ああ、お腹空いてたんだ」と思う。
 人と話していて、空腹でないときも食事の時間になったからという理由で、なにかを食べることがよくあると聞き、驚いた。たしかに、学校ではそうなっていた。私は一人でいると、ギリギリまで食べないのだと知ってからは、冷蔵庫にある昨日のご飯やおかずをそのまま口に放り込むことで胃痛を回避している。

 胃にものが入り、やっと落ち着いて辺りを見てみる。窓の外に目をやると、濡れたアスファルトの上を車が何台も連なって、滑るように動いている。モールの廊下にあるソファでは、家族の買い物を待つ人がぼんやりと座っていたり、至るところで家族連れが子どもにご飯を食べさせたりしている。格好も振る舞いもカジュアルで、皆がおしなべて所帯染みている。リビングから自動車に圧縮されて運ばれた家庭の空気が、フードコートでそのまま解凍されたようだ。
 席を立って返却口にお盆を戻すときも、せっかくなので席と席のあいだにある通路をゆっくりと歩いた。高校生たちが、ソファ席にぎゅうぎゅうになって、すっかり空いた神座のどんぶりを前になにやら話し込んでいた。


イラストレーション●近藤聡乃

石山蓮華

いしやま・れんげ●電線愛好家、文筆家、俳優。
TBS ラジオ「こねくと」でメインパーソナリティを務める。電線愛好家として「タモリ倶楽部」などのメディアに出演するほか、日本電線工業会公認「電線アンバサダー」としても活動。著書に『犬もどき読書日記』(晶文社)、『電線の恋人』(平凡社)がある。過去の出演作は映画『思い出のマーニー』(スタジオジブリ)、ドラマ『日常の絶景』(テレビ東京)など。

TOPページへ戻る