[特集インタビュー]
ハラスメントや権力勾配を排除しないと、誰もが笑える“馬鹿な”笑いは生まれません
自他ともに認める噓つきの
聞き手・構成=朝宮運河/撮影=chihiro.

「本当のこと」を繫ぎ合わせたフィクション
──男子三人組の馬鹿馬鹿しくも愉快な日々を描いた『虚言少年』から十五年、待望のシリーズ第二弾が刊行されます。
作中では二~三日しか経ってないんですけどね。まさか依頼があるとは思わなくて。『虚言少年』って「百鬼夜行」シリーズの手法の一部を流用してるんですよ。構造はまったく違うんですが。過去実際に起きたこと、聞いた会話をサンプリングし、一旦バラバラに分解して、まるで違う形に組み上げるという作業ですね。なので本作の細部は〝事実〟です。判る人は世界に数人でしょうが。いずれも極めて個人的な記憶を材料にしている。「百鬼夜行」シリーズの場合は構造レイヤーを何層にもすることで引っ掛かる対象範囲を可能な限り広げるように工夫をしていますが、『虚言少年』のほうは視点人物と作品の関係性で処理してみよう、という試みです。
──では三人組の一人、京野達彦のモデルは少年時代の京極さんご自身なんでしょうか。
一般的にいうモデルとは違います。確かに僕は時代劇ファンでしたし日常的に下駄も履いていましたけど、小説に必要な部材としてのキャラクターを構成する際に属性や逸話を借りただけです。僕はいつも機嫌が悪そうな顔をしていると言われるんだけど、自分ではにこやかにしているつもりです。もし京野が自己を投影したキャラクターなら、にこやかな少年になっているはずです。登場人物はすべて誰かの属性や言動を
──十二歳の春を迎えた三人組は小学校をめでたく卒業、中学生編がスタートします。
リアルな小学生視点の小説って、かなり難易度が高いですよ。そのまま書いたら前衛小説のようになってしまう。そこで強引な技を考えたんですが、それでも小学生時代の記憶があまりにも愚かしくて、前作では中学時代の素材をかなり使ってるんです。中学生にもなると多少は人間に近づくでしょ。ただ中一というのは色々ややこしい年頃でもあるわけです。同時に小学生のような馬鹿をやりにくい環境にもなっちゃうわけで。
──第一話は小学校卒業を控えた京野が、石碑の文字を解読しようとする話。第二話ではフリスビーに興じる三人組が描かれています。
ストーリーがないんです。感動もしなければ、嬉しくも悲しくもならない。馬鹿なこどもがだらだらするだけ。小学校の敷地にはよく石碑があるでしょ。僕の学校にもあったんだけど、何が書いてあったか知らないんですね。フリスビーのくだりもそのまんまです。魔球も、壊れてガムテープで補修したのも、細かいディテールは全部事実です。そのへん噓はひとつも書いていません。でも並べ方を変えることによって回顧録じゃなくって完全なフィクションになる。お話レベルでは全部虚構ですね。
いじめや差別を含んだ笑いは楽しくない
──今回は語り手である内本健吾の前に噓つきを自称する少年・
「激闘編」だから戦わせなきゃいけないんだけど、こいつらに暴力沙汰は無理。戦ったところで負けるし。ならなぜそんなタイトルにしたんだ、という(笑)。でも、それなりに頭の悪い激闘はしてます。それにしてもウソッコ団ってひどいネーミングセンスですよ。自分で考えておきながら恥ずかしくなりました。
──小此木は「噓でみんなを幸せにする」と口にしてさまざまな陰謀を巡らせます。同じ噓でも健吾のつく他愛ない噓とはニュアンスが異なりますね。
健吾は噓つきなんだけど、基本意味のないたわごとを垂れ流すだけで人を騙そうという気持ちはないし、騙そうとしたってアホすぎて騙せないですね。虚言少年なんだけど噓が下手ってどういうことだと思いますけど。一方、小此木のように考えられた噓は否応なく犯罪に近づいていくわけです。まあ考えられたといっても中学生なので、あちこちグダグダなんだけども。誰も幸せになんかならないですよ。頭の悪いたわごとのほうがまだマシです。それにしても低レベルな闘いですね。
──小此木の計略によって、第三話では健吾が野球の試合に駆り出され、第四話では差出人不明のラブレターに右往左往することになります。
僕は生涯で野球を二度もしてるんですが、まあ中学の時は下駄でプレイしましたし、二回とも裸足で走りましたけどね。デッドボールを食らったのは大人になってからのことですが。しつこいようですが作中のキャラクターは架空ですからね。だからそんな背景を知ったところでこの小説が面白くなるわけではないですよ。
──異性との関わりが多少増えてくるのも中学生らしいですね。第四話には〝馬鹿の逸材〟
中々はげしいキャラクターですね。主要登場人物に女子がほとんどいないのは、男女比的にどうなんだと思っていたんですが、女子中学生で笑える馬鹿キャラって造形が難しくって。恋愛抜きの小説ですし、いわゆるドジな子系はこの小説では使いにくいんです。なのでわりと強力なのを一人出そうと。
──第五話で扱われるのは壁新聞の四コマ漫画を巡る騒動。小此木のたちの悪い冗談に、健吾が憤慨する場面が印象的です。イジメは面白くない、という健吾は馬鹿なりにしっかりポリシーを持っていますね。
笑いって発生的には攻撃なんですよ。だから笑われた側が嫌な気持ちになることは容易に予想できる。結果的にイジメや差別や分断に繫がることもある。それは絶対に避けなきゃいけないですね。何より楽しくない。笑われている側も噴き出してしまうような関係性をどう築くか、ということですよね。ハラスメントや権力勾配のようなものを排除しなければ、ピュアな笑いは得られません。やつらの求める馬鹿な笑いってそういうもので。
──第六話はおならにまつわる怪談。おならは前作でも取りあげられていましたが、馬鹿には欠かせないものでしょうか。
欠かせませんね。僕は民話マニアで、民話という民話を網羅的に読み漁る人生を送っていますが、洋の東西を問わず笑い話のおならネタは破格に多いですよ。もちろん下品なんですが、前作の最終話でくどくど書いた通り、時代も、文化も、宗教も、人種も性別も超えたプリミティブな笑いの原料なんでしょう。凄いことです。
馬鹿が増えれば世の中は平和になる
──最終話は夏休みの海水浴場が舞台。変態水浴び倶楽部なる者たちも登場し、馬鹿さが加速していきます。かなり楽しんで書かれたのでは。
小説を書くのは面倒なので楽しくはないです。ただ本作は稼働させる脳の部位が違う。作中歌われるポップコーンソングという歌は、五十年前に校庭で級友たちが一度だけ適当に歌ったものです。あまりにもくだらなかったので覚えていました。歌った連中は忘れてるでしょうが。変態水浴び倶楽部も実在です。あんなもの理詰めで出てくるものじゃないです(笑)。よく〝筆が滑る〟と言いますけど、この小説は筆が滑らないと書けないんです。直後に別の小説を書くとつるつる滑って困ります。
──さまざまなトラブルを馬鹿と噓でなんとかしてしまう健吾たちを見ていると、馬鹿は人生を楽しく生きるための知恵という気がしてきます。
格好つけたり虚勢を張ったりするのをやめて、もっと馬鹿になれば生きやすくはなるでしょうけどね。闘いが起きるのも世の中に馬鹿エキスが足りないからかもしれません。僕も含めておばけ好きには馬鹿が多い気がします。〝ばけもの〟と〝ばかもの〟は一文字違いですから。そのせいかあまり揉め事が起きません(笑)。
──本書を読んでいると、自分の子供時代のお馬鹿なエピソードがよみがえってきました。
書いてあることなんかどうでも良くて、読むうちに馬鹿に誘発されてつい自身の個人的な記憶にアクセスしちゃうような小説になればと。〝あの頃は馬鹿馬鹿しくて楽しかった〟と思い出し、人生の糧としていただけたなら、こんなくだらない小説でも世界平和に一ナノミクロンぐらい貢献したことになりませんかね。なりませんね。

京極夏彦
きょうごく・なつひこ●作家。1963年北海道生まれ。
94年『姑獲鳥の夏』でデビュー。『魍魎の匣』で日本推理作家協会賞、『嗤う伊右衛門』で泉鏡花文学賞、『覘き小平次』で山本周五郎賞、『後巷説百物語』で直木三十五賞、『西巷説百物語』で柴田錬三郎賞、『遠巷説百物語』で吉川英治文学賞、他に日本ミステリー文学大賞などを受賞。著作多数。2025年印刷博物館館長に就任。





