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阿古真理『ウォーカブルでいこう!』
[第4回]東西「水の都」の挑戦

[連載]

[第4回]東西「水の都」の挑戦

江戸の風景を蘇らせたい日本橋

 水辺は、私たち人間にとって故郷のような場所かもしれません。例えばテレビ番組の「世界ふれあい街歩き」(NHK)では、ラストシーンは水辺という展開が目立ちます。夕暮れどきに人々が水辺でそぞろ歩きを楽しむ、あるいは酒を片手に「この町が好き」と語る姿には説得力があります。思えば昔、学校で習った四大文明も大河のほとりで発展しました。水が不可欠だから、人は水辺に引き寄せられるのでしょうか。
 川沿いで発達した日本の町の代表と言えば、東京・日本橋ではないでしょうか。現在放送中の大河ドラマ「べらぼう~蔦重つたじゅう栄華えいが夢噺ゆめばなし~」(NHK)でも、主役の蔦屋重三郎(横浜流星)は育った吉原を離れ、日本橋に店を構えてから、江戸時代を代表する出版社兼書店主として飛躍を遂げる姿が描かれています。当時の日本橋には魚河岸うおがしがありましたし、今も続く越後屋(現日本橋三越本店)、にんべん、大国屋(現国分)などがすでに店を構えていました。徳川家康によって、日本橋川には立派な木橋が一六〇三(慶長八)年に架けられ、五街道の起点と定められます。木橋は何度も架け替えられましたが、一九一一(明治四四)年に造られ、装飾を凝らした花崗岩製のアーチ橋は今も現役です。
 しかし、高度経済成長期には、下水道整備の遅れや不法投棄の影響もあり、洗剤などの泡が水面を覆い、悪臭も漂う状態になりました。暗渠化を望む都民の声、防災上の理由、利用できる土地が限られていたことなど、複数の事情により一九六三(昭和三八)年、川の上に被さる形で首都高速道路の高架橋が開通しています。
 当初から景観上の理由で反対意見はあり、高架橋の撤去を求める人たちが日本橋保存会を設立したのは一九六八年でした。国土交通省も検討を始め、総事業費の圧縮など、巨額の費用を調達できる目途がついたことに加え、高速道路の老朽化もあって二〇一九(令和元)年、首都高の地下化が決まりました。日本橋の下を含む約一・八キロメートルの首都高地下ルートは二〇三五年度に開通し、二〇四〇年度には高架橋が撤去され日本橋がかつての姿を現す予定です。ただ、現在も費用に見合わないなどの理由で、首都高の地下化に反対する声は上がっています。
 高架橋がなくなり、橋の全体像を見渡せるようになれば、ここが江戸、そして近代東京の起点だったことに思いを馳せられるかもしれません。空の面積が広がり、ホッと一息つけるウォーカブルな都心の水辺が再生するはず……。ところが今年三月、久しぶりに日本橋へ出かけた私は、日本橋三越本店の前から橋を見て驚きました。向こう岸で屛風びょうぶのごとく広がる巨大なガラス張りの超高層ビルを建設中だったからです。
 日本橋エリアは老朽化した建物も多く、五地区で再開発が計画されています。私が見たのは地上五二階、高さ約二八四メートルもの大型複合ビルで、完成予定は二〇二六年三月末。三九~四七階には、ヒルトンホテルの高級ブランド「ウォルドーフ・アストリア東京日本橋」が入るそうです。再開発でタワマンや超高層ビルが建つのは珍しくないものの、視界を覆うような圧迫感がある建物は、せっかくの橋からの景観を邪魔しないでしょうか。
 東京都は高架橋の撤去に合わせ、日本橋川全域を整備しようと計画しているようです。二〇二五年四月に東京都都市整備局が発表した「日本橋川周辺のにぎわい創出に向けた基本方針(取組方針Ver.1)(案)」によると、神田川から分流し、隅田川に合流するまでの全長約四・八キロメートルに歩行者用の空間を整えて緑を増やし、水質改善を進めて水辺空間を再生し、舟運で小石川後楽園、日本銀行本店などの名所をつなぐ方針だそうです。水辺から眺めるビル群は、道路からとは異なる印象になるでしょう。圧迫感も少しは和らぎ、ウォーカブルな水辺が生まれるのでしょうか。都市に求められる発展と、居心地よく暮らす、あるいは観光を楽しむせめぎ合いが東京都心にも表れています。

徳川幕府が造った江戸の町

 日本橋川は、日比谷入江に注いでいた平川の一部をつけ替えたことで誕生しました。日比谷入江は、現在の皇居外苑や東京駅周辺、日比谷公園などを含みます。豊臣秀吉に関東へ移封いほうさせられた家康が入った当時、太田道灌どうかんが築いた江戸城の周りは湿地帯で、入江の東に江戸前島という半島が突き出ていました。江戸前島は現在の日本橋~銀座エリア。城の東南側は湿地帯で、城の西側が武蔵野台地です。武蔵野台地は、古多摩川が広げた扇状地に、富士山などの火山灰が降り積もって形成されました。
 現在の東京二三区の西南地域は、何本もの川が蛇行しつつ幾筋にも分かれて浸食し谷をつくったため、坂が多いです。私が知るだけでも、目白~高田馬場は急坂が多い印象があります。また、かつて「九十九つくも谷」と呼ばれた大田区の馬込周辺に住んだ際は、上り下りをくり返す道も歩きましたし、自転車を降りて押すしかない急坂が何カ所もありました。目黒区と品川区の境にある洗足を歩くと、丘の上は閑静な高級住宅街で谷を下るにつれて下町になり、にぎやかな商店街に至る、と町並みも視界もダイナミックに変わる、東京ならではの風景を見ることができます。
 家康が天然の平地が少ない江戸を拠点にすることになったのは、「太平洋の海運と旧・利根川の河口部にあり、水運の便に恵まれ、関東と南東北や甲信地方の経済圏が重なる場所であったから」と、『地形で見る江戸・東京発展史』(鈴木浩三、筑摩書房、二〇二二年)が指摘しています。
 城下町を造るにあたり、まず必要になったのが飲料水の確保です。海のそばにあった江戸城の周りに井戸を掘っても、出るのは塩水ばかり。そこで家康は、千鳥ヶ淵と牛ヶ淵というダム湖と小石川上水を造りました。塩も不可欠なので、産地だった行徳(現千葉県市川市行徳)と江戸をつなぐ水路として、新川、小名木川、そして現在の大手町・丸の内を通る道三堀どうさんぼりを開削します。道三堀に流れ込むよう平川をつけ替えたところが、日本橋川になりました。
 鉄道が誕生する近代まで、陸路より速く移動でき、大量のモノを運ぶのに適した水運の役割は大変重要でした。大まかに行徳→新川→小名木川→道三堀→江戸城という水上ルートを確保すると、流れ込む水が減った日比谷入江は、水路を残しつつ外濠を掘って埋め立てました。運河を掘って出た土だけでは足りなかったので、北にあった神田山を一部切り崩しています。交通手段である水路を掘りながら埋め立てるという大工事はその後も続き、網の目のように堀や川が張り巡らされた水の都が建設されていきました。

大坂の水辺をつくったのは誰?

 時を経て、川の存在感が希薄になった東京都心に対し、大阪は都心に開渠かいきょの川が流れ、水の都としての風情を保っています。水路が張り巡らされた「天下の台所」、大坂(近世までの表記)を造り上げたのは、豊臣秀吉と徳川幕府、そして商人たちです。
 現在の大阪市の繁華街は、大阪城から五九三(推古天皇元)年に創建された四天王寺へ続く上町うえまち台地の西側に集まっています。ここは昔、河内湾の底でした。やがて、淀川と大和川が運ぶ土砂で河口がふさがり、古墳時代には河内湖になっていきます。上町台地には六四五(大化元)年に難波宮なにわのみやが築かれましたが、六八六(朱鳥しゅちょう元)年に火災で焼失。その後、聖武天皇が七二六(神亀じんき三)年に平城宮の副都として再建しますが、七八四(延暦三)年の長岡京への遷都で難波宮は廃されました。その後、一四九六(明応五)年に蓮如れんにょが大坂本願寺(石山本願寺)を建立してからは、門前町として栄えます。
『大阪がすごい』(歯黒猛夫、筑摩書房、二〇二四年)によると、織田信長は堺や京都、奈良に近く、西国に対峙する好立地の大坂を欲しがっていたそうです。一向一揆の平定のため石山本願寺と戦って勝ち、念願の大坂も手に入れた信長ですが、本能寺の変で倒れてしまいます。
 石山本願寺跡に大坂城を築き、城下町をつくったのは、信長の後継者争いに勝利した秀吉です。一五八五(天正一三)年に城の外濠として東横堀川を掘り、土砂が積もって河内湖だったエリアにできた湿地を開拓し、船場せんばをつくりました。その後、船場の西側にも西長堀川が掘られ、一六二二(元和八)年に長堀川が掘られると、四方を川で囲まれた船場は舟運の拠点となり、大坂の中心商業地として栄えます。船場の北で土佐堀川に面した中之島や北浜には、各藩が蔵屋敷を構え、世界初の先物取引を始める堂島米市場が生まれました。
 大坂は淀川や大和川の氾濫に悩まされたため、一六八四(貞享元)年、幕府の命により、豪商の河村瑞賢ずいけんが淀川の河口を塞いでいた九条島を開削して安治あじ川を造り、木津川と分かれて大坂湾へ注ぐようにします。安治川が木津川と分流する地点には港が設けられ、江戸へ物資を送る菱垣廻船ひがきかいせんの出発点になりました。その後、淀川に流れ込んでいた大和川も直接大坂湾へ注ぐようつけ替えます。
 船場の西側の湿地を埋め立て、網の目のように水路を張り巡らせたのは町人でした。川ができると、橋が必要になります。「なにわ八百八橋」と呼ばれ、実際には二〇〇ほどあった橋のほとんども、町人が架けています。幕府直轄の天領だった大坂は、町人を中心に水の都として発展していきました。官と民がそれぞれ役割を発揮し、町づくりをする伝統は、二一世紀の今、大阪市をウォーカブルにする取り組みでも生かされています。

中之島界隈の水辺で

 現在の大阪で水都らしさを感じられるおすすめのエリアが、企業の本社が集まる淀屋橋と大阪取引所がある北浜を含む中之島界隈です。中洲の中之島を挟んで、淀川の支流の大川が土佐堀川と堂島川に分かれ、中之島の西端からは安治川となって大阪湾に注ぎます。見どころは、土佐堀川に淀屋橋が、堂島川に大江橋が架かる大阪メトロ御堂筋線・京阪電鉄京阪本線の淀屋橋駅周辺。中之島には、御堂筋を挟んで西に辰野金吾設計でドーム型屋根を持つ日本銀行大阪支店旧館、東に建築家の村野藤吾と竹腰建造が建築顧問を務めた大阪市役所本庁舎が見えます。堂島川の北端に阪神高速道路の高架橋があるものの、ほぼ川二つ分の空は広く、空間にゆとりがある川沿いの遊歩道を歩くと、都心なのに伸びやかな気分になれます。
 御堂筋は昭和初期に幅約四四メートル、一部区間は八車線もある幹線道路に拡幅され、地下に日本初の公営地下鉄として誕生した御堂筋線が走っています。御堂筋および地下鉄御堂筋線は、一九一四(大正三)年に大阪市助役に就任し、一九二三年から一九三五(昭和一〇)年に死去するまで市長を務めた關一せきはじめの旗振りで建設されました。
 大阪にとって、バブル崩壊と阪神淡路大震災のダメージは大きく、大企業も二〇〇〇年前後を中心に、次々と東京へ本社機能を移してしまいました。『ミズベリング』(ミズベリング・プロジェクト)二〇一四年一〇月二日配信記事によれば、二〇〇〇年頃、危機感を抱いた府と市、財界が目をつけたのが、比較的多くの水路が都心に残っていることです。その一部が中之島界隈。二〇〇一(平成一三)年に政府の都市再生プロジェクトに指定され、「水都大阪」を再生するべく整備が始まりました。

眺めのいいリバーサイド・カフェ

 私がこの地域の変化に気づいたのは、二〇二一(令和三)年のこと。淀屋橋のホテルに泊まるため、グーグルマップで「淀屋橋」「モーニング」のキーワードで検索したところ、中之島界隈で素敵な店がたくさんヒットしたからです。足を運んでみると、北浜の土佐堀通り沿いのカフェには、土佐堀川に面してデッキテラスができていますし、中之島図書館にも北欧のオープンサンド、スモーブローを楽しめるカフェが誕生し、窓から土佐堀川が眺められるようになっています。私が住んでいた頃はそんな気の利いた場所はなかったのに、何があったのでしょうか。
 一九九九(平成一一)年まで大阪で働いていた私は、景気が悪くなり悲観的なムードが強くなっていくのを実感していました。東京に移ってから時折大阪へ行くと、都心の電車は空いているし、会う人たちからは景気が悪い話しか聞けないので、実は活性化している側面もあったとは思いもよらなかったのです。改めて調べると、水辺を楽しめる飲食店群は土佐堀川に面してデッキテラスでつながる「北浜テラス」と呼ばれる、水都再生の取り組みの一環だったことがわかりました。先の『ミズベリング』の記事と『グリーンズ』(NPOグリーンズ)二〇一二年八月一八日配信記事、『Wedge ONLINE』(ウェッジ)二〇二〇年一月一二日配信記事から、北浜テラス誕生の経緯が見えてきます。
 二〇〇三年、都市プランナーの泉英明さんたちが大阪ドーム前で、川に浮かぶレストラン「リバーカフェ」という社会実験を行います。昔の大阪にはこんな水辺があったと語る高齢者がいるなど、水辺を喜ぶ人たちが多かったことを踏まえ、二〇〇七年に泉さんが所属する「NPO法人もうひとつの旅クラブ」と「NPO法人水辺のまち再生プロジェクト」、その後北浜水辺協議会事務局長になる山根秀宣さんらが、ビルオーナーたちに働きかけた結果、京都の鴨川の「ゆか」や貴船の「川床かわどこ」を大阪でもやりたい、と話がまとまります。折よく、行政も「水都大阪2009」というイベントを計画中で協力体制を築けた結果、驚くほどスムーズに実現できました。当時は河川法の定めで、河川敷を占用できるのは地方自治体などの河川管理者だけ。民間が活用するには、行政のいくつもの関係部署から許可を得るなど、煩雑な手続きが必要になってしまう可能性があったのです。
 対象にした約三五軒中八軒のビルオーナーが「すぐにでもやりたい」と手を挙げ、その中でビルの構造や改修工事費用などの条件をクリアできた三軒で川床かわゆかを建設。二〇〇八年一〇月の一カ月間、社会実験として川床を実施したところ、メディアがこぞって取り上げた影響もあってあっという間に予約が埋まったそうです。二〇二五年七月現在、参加する飲食店は一四店(一五床)。先の『Wedge ONLINE』記事によると、北浜テラスに出店する店舗は、その時点で利用者数が川床実施前の一〇倍に拡大したそうです。
 水上交通についても変化が起こりました。二〇〇七年に設立した日本水陸観光株式会社が、全国で初めて水陸両用観光バスの水上での営業許可を受けて大川や大阪城といった水上、陸上の両方を巡る「大阪ダックツアー」を開始。翌年、北浜から京阪電鉄で一駅西の天満橋駅近くの大川べりの八軒家浜に船着き場や遊歩道などが整備されました。
 以前は歩行者が目立たなかった土佐堀川べりは今、ランナーや観光客も見かけます。大阪の水辺は厳しい経済状況を経て、お家芸とも言える官民のパートナーシップで再生しつつある。その先には庶民の生活再建も、東京と並び立つ大都市圏復活も見えてくるのでしょうか。

イラストレーション=こんどう・しず

阿古真理

あこ・まり●作家・生活史研究家。
1968年兵庫県生まれ。神戸女学院大学文学部卒業。女性の生き方や家族、食、暮らしをテーマに、ルポを執筆。近著に『家事は大変って気づきましたか?』『大胆推理! ケンミン食のなぜ』『おいしい食の流行史』『ラクしておいしい令和のごはん革命』『日本の台所とキッチン一〇〇年物語』『日本の肉じゃが 世界の肉じゃが』等。

『何が食べたいの、日本人? 平成・令和食ブーム総ざらい』

阿古真理 著

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定価880円(税込)

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