[連載]
[第11回]チェルフィッチュの「日本語」
岡田利規の言語戦略
前回も述べたように、岡田利規が近年、ヨーロッパ(ドイツとノルウェー)の公共劇場に迎えられて作・演出してきた一連の作品─『NŌ THEATER』(2017年)、『NO SEX(ノー・セックス)』(2018年)、『THE VACUUM CLEANER(掃除機)』(2019年)、『Doughnuts(ドーナ(ッ)ツ)』『Whale in the room(部屋の中の鯨)』(ともに2022年)は、現地の言語であるドイツ語とノルウェー語で上演されています。もちろん岡田は日本語で戯曲を書き、それぞれの言語に翻訳されたわけです。そして、これも前回書いたように、これらの戯曲は今のところ2023年に本谷有希子が演出した『掃除機』しか日本語版では上演されていません(また、最初の『NŌ THEATER』を除き、日本で上演されたこともありません)。このことについて、もう少し考えてみたいと思います。
ヨーロッパのそれぞれの劇場のために岡田が書き下ろした一連の戯曲には、重要な共通点があります。にもかかわらず、現地の俳優によって現地語に翻訳された台詞で世界初演されるということが、まったく考慮されていないということです。これまた前回も述べておきましたが、これらの戯曲の舞台は現代の日本であり、登場人物は日本人、テーマも日本社会が抱える諸問題です。しかし舞台に出てくるのはドイツ人やノルウェー人の役者なのです。このあからさまなギャップによる一種の「出オチ」のような面白みもあるのですが、もちろんそれだけではありません。岡田が日本語で書いた戯曲を日本人が演じれば、そのままチェルフィッチュの演劇になる。しかし『掃除機』以外の作品は今もそれは実現していません(それに『掃除機』は岡田の演出ではない)。
ギャップと書きましたが、それはもっぱら上演のレベルで起こっていることであり、日本語戯曲には言語の違いという問題は含まれていません。これらの戯曲はドイツ語やノルウェー語以外の外国語、英語やフランス語やスペイン語や中国語や韓国語などなどに「翻訳」されて上演することが可能です。そしてそれは、ドイツやノルウェーでの初演とレパートリー化が前提とされているのにもかかわらず、岡田がそのことを敢えて考慮せず、あたかも日本で日本人俳優が日本語で演じるかのように戯曲を書いたことによって可能たらしめられている。
私たちは日本で日本の俳優によって日本語に翻訳された台詞で演じられるシェイクスピアやチェーホフをごく普通に観劇しています。ハムレットやニーナが日本人でも観客は気にしない。それは演劇というフィクションの入り口に属する大前提であるからです。しかしそれは考えてみればかなり奇妙なことでもある。この意味で演劇とは舞台と客席とのいわば黙契によって成立している。それと同じことが岡田のヨーロッパでの作品と観客にも言えるのかもしれませんが、それだけではない。岡田はそれを意識的に、かつ戦略的にやったのです。
たとえば、日本でハムレット役を演じる俳優が舞台に現れるなり「こんにちは、ハムレットです。ま、ほんとは違うんですけどね」などと言ってみせたら観客は(そんなことは百も承知なのに)笑うでしょう。そういう楽屋オチ的な(メタ的な)くすぐりが岡田の戯曲(と演出)には一切ない。演劇とは「テクストと、その上演」の二段階で成立する表現形態ですが、岡田の一連の作品はテクストのレベルでは完全に「日本(語)」に定位しており、しかし上演は「日本(語)」以外でなされている。現在はチェルフィッチュとしての作品も日本よりも先に海外で世界初演されることが多くなっています。その場合は日本の役者によって日本語で演じられ、日本語を解さない外国の観客は字幕で観劇するわけです。だが、岡田のヨーロッパでの作品は、それとも違う。しかし彼の「言語戦略」が、そうした海外での長年の上演経験によって育まれたものであることも確かだと思います。
『NŌ THEATER』以外の岡田のヨーロッパ作品の四戯曲が収録された『掃除機』の「あとがき」で、岡田は「わたし自身、日本語で書いたこれら戯曲のせりふが日本語で発されるのは聞いたことがないのです」と述べたあと、こう続けます。
わたしはドイツ語もノルウェー語もわかりませんから、稽古のときはそれらの言葉に翻訳されたテキストと日本語のそれとを見開きで対照できる仕様になっている台本を準備してもらって、役者の演技を見ながらときどき日本語テキストに目を落とす、という具合にリハーサルをやっています。だからその意味では日本語のテキストも一応クリエーションの現場の構成要素のひとつではあるのですが、そしてそれがそのプロダクションのそもそもの発端であることも事実なのですが、しかしその中心に位置しているわけではありません。わたしにしても、リハーサルが進んでいくにつれて徐々に、日本語のテキストに目を落とさなくなっていきます。そして上演が初日を迎える頃には、わたしにしてからが、日本語のテキストそのものがどうだったかを気にしなくなってしまっているのです。なにせ、それよりもそこでドイツ語なりノルウェー語のせりふを発しながら演技する役者たちや、彼らの演技によって上演空間にたちあがるフィクションのありようや出来映えと向き合うことのほうが、大事で主要なことですから。(『掃除機』あとがき)
岡田は演出家でもあったのですから、この変化は当然のことだし、望ましい変化でもあったのだと思います。しかしだからといって、岡田がドイツ語やノルウェー語を(現地の俳優や観客のように)理解できるようになったということではありません(そういう面も幾らかはあったでしょうが)。あとがきの続きで、岡田は興味深い喩えをしています。
だから、本書を出版してもらうにあたり収録作を読み直したときは、なんとも奇妙な感じでした。自分が書いた元々の日本語のテキストに向き合う経験は、何と言いますか、自分がとても親しくさせてもらってる人を最初に紹介してくれた人がいる、その人とはそこまで親しいというわけではない、そんな人と久しぶりに会って、あ、どうも、と言うような感じと言いますか。(同)
「自分がとても親しくさせてもらってる人」とは出来上がった個々の「作品(演劇)」のことであり、「最初に紹介してくれた人」が「日本語(戯曲)」ということだと思います。岡田にとっては、今や外国語で上演されている舞台こそ「とても親しくさせてもらってる」のであって、その出発点である自分自身が日本語で書いた戯曲はもはや「そこまで親しいというわけではない」。日本語使用者だから(日本語が最も上手に使えるから)日本語で書いているのであり、そのことは重要だし不可欠の条件でもあるが、しかしそれはいわば「たまたま」に過ぎず、別の国に生まれて別の言語を使っていたら当然違っていたはずであり、言ってみればそれだけのことなのであって、この意味で岡田は「日本語」を特別視はしていない。
これは村上春樹が日本語で書き、彼の読者の大半は翻訳された外国語で読んでいるということに似ていますが、違うところもあります。春樹の小説は、まず最初に日本で日本語で出版され日本人に読まれる。しかし岡田利規の一連のヨーロッパ演劇は、ここまで述べてきたように、そうではない。岡田は日本(語)での上演にもウェルカムだし望んでいるとは思いますが、たとえ今後もそうならなかったとしても、作品の価値や本質は揺るがない。なぜなら、事の経緯からしても、またもっと深い意味においても、つまるところ岡田は、日本の観客や読者にではなく、
「字幕」からの跳躍
岡田利規が、このような「戦略」に辿り着くまでには、幾つかの前段がありました。前回も記したように、チェルフィッチュは『三月の5日間』(2004年)が国内で高く評価された後、海外公演に打って出ましたが、最初はなかなか評価されませんでした(たとえば『フリータイム』(2008年)のヨーロッパ公演では幕間に多くの客が帰ってしまい、ショックを受けた岡田はその後幕間を挟むのをやめてしまいました)。『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』(2009年)が海外でのブレイクスルーになったのは前述の通りですが、その勝因のひとつとして、『クーラー』がもともとダンス作品だったこともあり、身体表現のウェイトが高く、台詞を聞き取れない観客にもわかりやすかったという点が挙げられると思います。観客は字幕を読んで内容を理解していた。日本で外国語の演劇や映画を鑑賞する際と同じく、海外上演/上映では「字幕」は必須です(映画なら吹き替えもありますが)。「字幕」について考えるということは、翻訳について、言語の差異について、日本語について、そして「日本」について考えることに繫がります。
2013年にチェルフィッチュは『地面と床』という作品を発表しました。初演はベルギーのブリュッセルで、その後ヨーロッパ各都市を巡り、初演から約半年後になって、ようやく日本で上演されました。近未来の日本を舞台とする、幽霊が登場する静謐なトーンの作品で、岡田利規のその後の「能」への傾斜の初期段階と見做すことの出来る重要作ですが、ここでは物語の内容には立ち入りません。触れておきたいのは、この作品の「字幕」の扱いと「日本語」にかんする意見表明についてです。戯曲の冒頭に置かれた長いト書きには、こうあります。
間口の中央部の、床の置かれているすぐ背後に、白い表面を持つ、十字の形をした大きな平面が、その面を観客に正対するようにして立てられている。これは、字幕を投影するためのスクリーンである。この劇のすべてのせりふは、もちろん日本語で語られるけれども、そのとき必ず外国語、たとえば英語や中国語の字幕が投影される。ときどき、せりふではない文が、文字として投影されることがある、このときは日本語も投影される。日本語の字幕はこの十字の中に垂直方向に投影され、それが切り替わって次に外国語の字幕が水平方向に投影される。 以下に「字幕が出る」とあるのは、日本語の字幕が出るときのことである(もちろんそのときも、その日本語の翻訳された外国語の字幕がともなわれる)。(「地面と床」)
戯曲の最初に「字幕」のことがこのように詳しく書き込まれている。つまり『地面と床』において「字幕」という要素は作品の重要な一部なのだということです。劇が始まり、しばらくシリアスな場面が続きますが、それまで舞台に居た俳優たちが
さとみ (観客に)ところで、わたしの、わたしだけじゃないですけど、わたしたちみんながここでしゃべってる言葉は、日本語なんですけど、でも、わたしたちは全員それをすごくよくわかってるんですけど、わかってるというか、意識してるんですけど、この言葉、日本語は、今やほとんどの人にはわかられない言葉じゃないですか、だから、今もそうですけど、わたしがこうしてしゃべってるのを聞くだけでわたしが言ってることが意味がわかる人は、ほとんどいないじゃないですか、もしいたとしてもそれはただ単にものすごい偶然というか、え、すごいですね日本語おわかりになるんですね、ていうそれはもうほとんど奇蹟だな、ていうだけなんですよ。
さとみは早口でしゃべるので、外国語の字幕の投影が終わるのが、少し遅れる。それを待って。
さとみ でも、わたしは日本語しかしゃべれる言葉はないし、ほかの言葉がこれからしゃべれるようになるみたいなことにわたしの場合今さらなるのは無理だと思うし、というかそれ以前に、しゃべれるようになりたいとわたしはあんまり思ってない自分がいて、それはなんだろう、プライドなのかもしれないですけど、わかんないですけど。
やはり、外国語の投影が終わるのを待つ。(同)
このあと「さとみ」は世の中の「英語を話せるとエラい」みたいな風潮への不満
そして、次の字幕が出ます。
「あなたは思いますか?
日本語が、消えてなくなる」(同)
もちろんこの字幕も日本語と外国語の両方で表示されます。このあと「さとみ」は舞台上を去り、劇の後半にもう一度登場しますが、どの場面でも彼女の早口の台詞と字幕のスピードのずれが観客の笑いを誘うようになっています。しかしこの笑いがなんともアイロニカルな、ほとんど自虐的と言ってもいいような笑いであることは言うまでもありません。
二度目の登場シーンでの「さとみ」の台詞は強烈です。
さとみ 字幕がさっきから全然追いついてなくてすごくそれでちょっと実はいらっとしてる部分も正直あるっていうかほんとにもどかしいなこれもう!っていうこの
まだまだ延々と続くのですが、キリがないのでこのくらいにしておきます。「日本語」をめぐる問題は必ずしも『地面と床』のメインテーマではないのですが、「さとみ」の言い分が岡田利規自身の積年の思いを多少とも代弁していることは確かなのではないかと思います。
実はこの作品の直前に、岡田はアメリカの劇団Pig Iron Theatre Companyに『ZERO COST HOUSE』を書き下ろしています。この戯曲の英語訳は他の岡田作品と同じくアヤ・オガワが手がけ、同劇団の演出家ダン・ローゼンバーグによって演出されました。2013年2月に日本公演も行われています。
『ZERO COST HOUSE』は題名からもわかるように坂口恭平の「ゼロ円ハウス」にインスパイアされた作品です。岡田はヘンリー・デイヴィッド・ソローの『森の生活(ウォールデン)』と坂口の著書『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』を下敷きに、極めてユニークな戯曲を書き上げました。公演情報のあらすじから引くと「過去の岡田利規と現在の岡田利規が登場し、ソローや坂口恭平に出会うことによって、岡田本人が東日本大震災によって大きく影響された自身の「生活」についての思考の変遷をたどる物語」。2011年3月の東日本大震災と東京電力福島第一原発事故からまだ2年足らずであり、物語では当時物議を醸した「(地方に)逃げること」の是非がテーマのひとつになっています(岡田自身、坂口の呼びかけに応じて家族とともに熊本に移住しました)。
しかしここで述べたいのはやはり内容にかんしてではありません。この劇の「岡田利規」と「坂口恭平」は(「ソロー」もですが)アメリカ人俳優が演じているのです。この企画は、のちのヨーロッパでの一連の作品と同様、劇団からの委嘱によるものであり、つまり岡田は最初からそのつもりで戯曲を書いたわけです。この時点で岡田はすでに「日本語という問題」と「日本人を外国人が演じる」という二つのアイデアを得ていたということです。
ノン・ネイティブ日本語話者との演劇プロジェクト
『ZERO COST HOUSE』『地面と床』から10年後の2023年、チェルフィッチュは『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』という新作を上演しました。これはヨーロッパでの一連の経験を踏まえ、その先を志向した野心的な作品でした。2021年から開始された「ノン・ネイティブ日本語話者との演劇プロジェクト」のワークショップの成果発表としての公演です。公演のホームページには次の文言があります。「日本語が母語ではない俳優はその発音や文法が「正しくない」という理由で、本人の演劇的な能力とは異なる部分で評価をされがちである、という現状があります。ドイツの劇場の創作現場で、非ネイティブの俳優が言語の流暢さではなく本質的な演技力に対して評価されるのを目の当たりにした岡田は、一般的に正しいとされる日本語が優位にある日本語演劇のありようを疑い、日本語の可能性を開くべく、日本語を母語としない俳優との協働を構想しました」(無署名)。実際にこの劇はチェルフィッチュの作品に度々出演している安藤真理と米川幸リオン以外の出演者は日本在住の非ネイティブ日本語話者(つまり外国人の方たち)であり、その中には俳優経験がない人も含まれていました。言語能力を個性のひとつとしてポジティヴに捉えようとする制作の主旨は、近年日本でも盛んなハンディキャップを持った人たちとの演技やダンスの共同作業の試みとも通じていますが、ここまで述べてきた岡田利規の「日本(語)」との格闘の歴史を思うと、それだけではないことがわかります。題名からも知れるように、この作品は一種のSFであり、物語は全編「宇宙船イン・ビトゥイーン号」内で展開します。やはり内容には触れられませんが、ある意味でストーリー以上に、この作品の魅力は、まさに「ノン・ネイティブ日本語話者」たちの発話表現の多様性だと言えます。日本語の巧拙というよりも、それぞれの「日本語が母語ではない俳優」の日本語との距離感や角度のようなものの違いが、舞台に豊かで複雑なニュアンスを与えていたのです。そしてそれは、岡田利規の使用言語が「たまたま」日本語というマイナー言語だったから生まれたものだと思います。もちろん他の言語でも同じようなことをやることは出来ますが、英語のように「母語ではないが使用している人」が非常に多い言語ではこうはいかない(というかアメリカの演劇にはごく当たり前にこういうものがあると思います)。ここにはやはり、日本語のディスアドバンテージを逆に利用するという「戦略」が働いている。
ところで私は、この舞台を観ながら、ふと「これは日本の観客の前でないと興趣が伝わらないのではないか」と思ってしまいました。日本語の多様性がわかるのは日本語話者だけだからです。それゆえに『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』の海外公演は難しいのではないかと思ったのですが(この作品は日本が初演)、驚いたことに、その後、この作品は海外ツアーを行っています。もちろん物語のレベルでも十分面白いのですが、日本語がわからず、字幕で台詞を読むしかない海の向こうの観客は、はたしてどう思ったのでしょうか?
さて、次回は遂に最終回です。これまでの議論をおさらい&アップデートしつつ、とりあえずの結論らしきものを提出してみたいと思っています。
佐々木敦
ささき・あつし●思考家/批評家/文筆家。
1964年愛知県生まれ。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。芸術文化のさまざまな分野で活動。著書に『「教授」と呼ばれた男──坂本龍一とその時代』『ニッポンの思想 増補新版』『増補・決定版 ニッポンの音楽』『映画よさようなら』『それを小説と呼ぶ』『この映画を視ているのは誰か?』『新しい小説のために』『未知との遭遇【完全版】』『ニッポンの文学』『ゴダール原論』、小説『半睡』ほか多数。