[インタビュー]
悲惨な物語を書きながらでも、どこかでボケたい
二〇一八年にデビュー作『百年泥』で芥川賞を受賞し、自由な発想と巧みな文章世界で読者を魅了した石井遊佳さん。最新作品集『ティータイム』は、意外な展開で驚かせ、そこはかとないユーモアで笑わせる四篇を収録。その発想、執筆の背景にあったものは。
聞き手・構成=瀧井朝世/撮影=露木聡子
── 『ティータイム』に収録された四篇、どれも一人一人の意外な人生模様が詰まっているうえに意外な展開が待っていて、とても楽しく拝読しました。
ありがとうございます。『百年泥』とはだいぶ違いますよね。読み返して、自分でも今回はかなりミステリー的な要素があるなと思いました。書いていてすごく楽しかったです。
── 『百年泥』が芥川賞を受賞された頃はインドに住まわれていましたよね。今はどちらに?
二〇一八年に芥川賞を受賞した時は、夫と一緒にインドのチェンナイのIT企業で日本語教師をしていたんです。受賞した時に一時帰国し、その後一回チェンナイに帰って会社を辞め、私は日本に戻ってきました。夫も二〇二〇年にコロナ禍が始まった時に帰ってきて、今は二人で埼玉に住んでいます。
仲居の経験をいつか書きたいと思っていた
── 今回の四篇は帰国後に書かれたものですね。うち三篇は「すばる」の特集に掲載された作品です。特集テーマに合わせて書いたのですか。
「すばる」さんが出してくれる特集のお題が私のツボにはまりました。書きたいなと思っていたこととお題とで科学反応が起きて、結構いいものができたんじゃないかと思っています。特に「ティータイム」というお題はよかったですね。
── 表題作はタイトルから優雅なお茶会を想像したので、主人公の
私は草津温泉で仲居をやっていたことがあって、その経験をもとに小説を書きたいなと思っていたんです。「ティータイム」というお題をいただいた時に、そういえば仲居をやっていた頃、休憩時間にケーキを三個買って、寮の部屋に戻ろうとしたとき他の仲居さんの子供さん二人と会ったことを思い出しました。口をきいたこともなかったので誘うことにためらいがあって一人で食べちゃいましたが、一緒に食べればよかったなと、後から思いました。
── 仲居さんの勤務形態や業務内容、従業員たちの人間模様がすごくリアルでした。チップのことや、陰口を叩いたり、仕事で手抜きしたりする同僚のこととか。
仕事を妨げる番頭に対する憎しみとか、意地悪な仲居の迫力は実体験があったから書けました(笑)。
── 明里はある事情により、ひと月ほど前に仲居になったばかり。一方、ケーキを一緒に食べる小学生の兄妹も、家庭環境が複雑そうです。そんな三人の微笑ましい交流の話かと思ったら、少しずつ不穏な空気が漂っていく。
主人公も子供たちも、心に飢えを抱えて生きているんだけれども、それをはっきり認識することを拒否しているんですよね。
主人公は徐々に子供が語る物語世界に引きずり込まれていって、最後は圧倒される。でも、彼らのひもじさの物語を聞いたことで、主人公はやっと自分のひもじさを受け入れる気持ちになるんです。だから、成長物語という言い方を私は好きではないんですが、仮にそう呼ぶこともできるかなと思います。
欠けたところから物語が転がっていく
── 表題作をはじめ、どれも帰るところを失った人たちの物語だなと思いました。
ちょっと欠けたところがある人のほうが、その欠けたところから物語が転がっていくんです。どこか自分の人生に不全感を持っている人物でないと、少なくとも私の小説の主人公にはならないですね。
「奇遇」では自覚的にそういう人物を書きました。主人公の
── 「奇遇」は、客船乗務員の日本人青年明良と、貨物船乗務員のインド人青年クシュリナが、夜の波止場で出会う話です。
この時の「すばる」のお題は「旅」でした。二人とも長い心の旅をしてきたし、現在も船で仕事しているから旅が職業のようなものですよね。
最初はたしか、作中でインド人が語る、インドに旅行に来た日本人が帰れなくなるエピソードが頭にあったんです。その次に、夜の波止場でインド人と日本人が出会うイメージが浮かびました。私はわりと、別々にイメージなり着想がいくつか浮かんでいて、それが結びついて筋になりそうだと思った時点で書き出す、そういう書き方も多いんです。
── 彼らがなぜ船の乗務員となったのか、少しずつ過去が語られていきますが、二人ともとんでもない事情を抱えていますね。
インドってなんでもアリみたいなところがあるので発想しやすいんですよ。私はインドで暮らしていたので、知っていることをもとにディテールをでっちあげられるというか。現在インドでは仏教は宗教としてほぼ機能していないけれど、日本人にとっては仏教が生まれた国というイメージもあって、昔から「インド幻想」みたいなものがあり、そのあたりがこの小説の地盤となっていると思います。私自身はインドに幻想を持っていないし、『百年泥』でも全然そういうことは書いていないんですけれど。
── 『百年泥』はインドが舞台のマジックリアリズム的な作品ですが、読者から「インドでは本当に人々が空を飛んで通勤するんですか」などと訊かれるそうですね。
そうそう。『百年泥』を読んだ人に「どこが面白かったですか」と訊くと、九割九分九厘「飛翔通勤」と言うんですよ。他にもいっぱいボケているのに、誰も突っ込んでくれない。「いくらなんでも、インド人、空飛べへんやろ」と思いましたけど、物語で読者を騙しおおせたとは思いました。
── 「奇遇」でも驚くような出来事が語られ、物語はちょっとノワールな方向へいく。
四篇の中ではこれが一番ノワールですかね。結末が。次の「網ダナの上に」も今回読み返してみて、ずいぶん残酷な話だなと思いました。だって、踏切で母親と一緒に死んだ女の子の霊魂が、列車の網棚の上から恨み言をたれるんですから。
人から見たら母娘心中ですが、娘は死のうとした母親を助けようとして
仏教的には、人間は生まれたくて生まれてくる
── 「網ダナの上に」を寄せた時の「すばる」のお題はなんだったんですか。
「幸福論」。どこが「幸福論」やねんって(笑)。でも、幸福は人によって解釈が違いますから。ここに出てくる死生観は一応仏教的なんです。人は死んだ瞬間に霊魂的存在になって、次の父母を探し求め、じーっと見計らって男女の交合の際にぱっと入り込んで受胎されて生まれ変わるという。仏教的には、人間は、生まれたくて生まれてくるんですよ。生まれることを、必ず自分で選んでいるんです。この話で霊魂となった娘も、自分が生まれ変わるために車内販売の女を母親と見定めて利用し、男あさりさせていますよね。娘の生前、幼馴染みが死んでしまいますが、仏教的な死生観で考えれば、その子も必ずまた生まれたいと思ってなんらかの形で生まれ変わっているって信じられますよね。
世の中には「なぜ私は生まれてしまったんだろう」と苦しんでいる方もいらっしゃると思います。でも、すべての生き物は生まれたくて生まれてきている。これはそういうポジティブな人生観があるからこそ書けた作品です。
── この作品では、駅の名前が「
私はお笑いが好きなので、どこかにユーモアがないと嫌なんです。なので悲惨な物語を書きながらでもどこかでボケたいんです。「借馬」は明らかにサンスクリット語の「カルマ」なんですが、それを仰々しく、地名の由来は借りてきた名馬がどうのこうのなどと、無駄なディテールを書いたりするのも楽しくて。
── これも他の三篇も、基本的に、物語上の現在がリアルタイムで進行しつつ、過去が回想されていくつくりですよね。
だからちょっとミステリー的な色彩が強くなったなと思いました。はじめに軽く謎をかましておいて、だんだんその謎が解けてくるという。「Delivery on holy night」なんかは、こんなきれいな女の人が自分と付き合ってくれるなんて超ラッキーと主人公は最初思うんだけど、ちょっとずつ怪しくなっていきますよね。
── その「Delivery on holy night」も、悲惨な話なのに大笑いしました。宅配ピザのデリバリー要員の青年・智史が、入れ込んでいるデリヘルの女性からクリスマスデートに誘われるところから始まります。彼が彼女に語る数奇な生い立ちの中に、大迷惑なサンタクロースが登場するんですが、これがおかしくて。
今回の短篇集の中では、「ティータイム」とこれが成長物語ということになるのかな……物語の締めくくり方としては。これは書籍化にあわせて追加で書き下ろしたもので、編集者から「人との出会いがある物語」とだけリクエストされました。
実は、最初河童の話を書いていたんですよね(苦笑)。その時が十二月だったので、河童とクリスマスの取り合わせってヘンでいいなと思って書いているうちに、いつの間にかサンタクロースの話になっていて自分でも驚きました。私も昔はサンタさんを信じていましたけれど、子供の夢を壊さないように親が枕元にこっそりプレゼントを置いていくのって、不思議な風習だなと思っていて、いつか書いてみたかったんです。
── 智史は小学生の時、家族に腹を立てて〈みんな死んじゃえ〉と願ったら、サンタさんがその願いをかなえてしまったんですよね。そのサンタさんが、「ふおっふおっふおっ(Ho Ho Ho)」といういわゆるサンタ笑いが出来ないなど、すごく面白いキャラクターで。
サンタクロースからのプレゼントというと、子供は普通、条件抜きで喜びますが、死ぬほど迷惑な贈り物ってどんなものかと思って。あのサンタさんのキャラクターはすごく好きなんですよね。口達者で、小理屈をこねながらも、ちゃんと大阪風のツッコミもしているという。
私はわりとミステリーも読むんですけれど、よく、ああいう年上の知恵者的なキャラクターが出てくるんですよ。口は悪いけれど根は優しくてユーモラスな人が好きなので、そういう人物は書きたいなと思っていました。
── なぜ意中の女性がデートに誘ってくれたのかという謎と、彼がどういう人生を辿ってきたのかという謎、二重の謎解きがスリリングでもありました。そうしたら、もう、意外な展開が待っていました。人が殺される場面もありますが、途中、ある場面で爆笑しました。
謎を深めていって、そこで何がどうなるかというのは腕の見せ所というか。自分自身も騙しつつ、読者を騙すという感覚は非常に気持ちよかったです。
この小説には結構メッタ刺しの場面もあり、読み返してみて、よくこんなもの平気で書くなと我ながら思いました。
井上ひさしさんと同じく、「辞痴」です
── お題があって、そこから発想を広げる時に、かっちりプロットは作るのですか。
私は、はじめにきちっと目次を作るんですね。全体を一、二、三、四、と分割して、さらに一の中に一、二、三、四、二の中に一、二、三、四と目次を立てて、それをプリントアウトするんですよ。二、三日それを眺めてイメージスケッチをしていき、足りないところや気になったところを整えているうちに、いつの間にか書き始めている感じです。なので、その時点で作品の三分の一から半分くらいは出来上がっていると言っていい。でも、書いているうちにぐちゃぐちゃになる。要するに、まず作ってから壊す、というイメージです。
── 言葉選びや描写でも読ませますよね。以前、石井さんが言葉や文字がすごく好きだとおっしゃっていたことを思い出しました。
井上ひさしさんの造語で、「書痴」をもじった「辞痴」という言葉があります。普通じゃないくらい辞書が好きな人のことで、井上さんもそうだったんですって。私も高校時代、一日中、国語辞典を読んでいるくらい、言葉が好きで好きでたまらなかったんです。語学の才能はまったくないので、日本語だけなんですけれど。
── 文章のリズムや、どこにどういう言葉を置くかは、すごく精緻に考えられているのですか。
そうですね。初校を見直す時も、至るところに朱字を入れてしまいますね。私はリズムしか考えていないので、句読点を音符のように考えて、多少不自然であっても読ませたいリズムで句読点を打っています。我が道を突き進んでいます。
── それが非常に心地よく、楽しかったです。すごく濃密な世界を味わえて、ほれぼれする文章世界でした。
思い出すと、十代の頃に本をたくさん読んだのに、あまりストーリーは憶えていないんですよね。言葉ばっかり追っていました。三島由紀夫が好きで何遍も読み返しているんですけれど、言葉はよく憶えているのに、読み返すたびに「こんなストーリーだったんだ」と思うくらい話の筋は憶えていないんです。
最近はストーリーも楽しめるようになりました。自分が書くものも、昔は言葉に凝る方向性だったんですが、最近は文章とストーリー、ともにドはまりしてもらえる小説を書きたいなと思っています。純文学とエンタメ系、どちらの長所も兼ね備えたいい作品をこれからも書いていきたいですね。
石井遊佳
いしい・ゆうか●作家。
1963年大阪府生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程満期退学。南インド・チェンナイでの日本語教師の経験を元に書いた『百年泥』で、2017年、新潮新人賞受賞。翌年、芥川賞を受賞。他の著書に『象牛』がある。