[連載]
[第8回]村上春樹がノーベル文学賞を獲る日
『風の歌を聴け』誕生秘話
村上春樹は1949年1月12日生まれなので、本稿の掲載時には76歳になっています。定義上は後期高齢者です。トレードマークだった一人称の「僕」も近作ではさすがに「私」であることが増えてきました(2017年に発表された長編小説『騎士団長殺し』の語り手は「私」です)。春樹の実年齢を聞いて驚く人も多いのではないでしょうか。もっと若いイメージがあると思います。このいささか不可思議な(?)若さも、村上春樹という作家の特徴のひとつです。
村上春樹は1979年に『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞してデビューしました。この時、春樹は30歳。今はともかく当時の一般的な感覚としてはすでに若者とは言えません。しかし『風の歌を聴け』という小説は「20代最後の年を迎えた」語り手の「僕」が「僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだった」という「8年間」もの長い「ジレンマ」から脱して「今、僕は語ろうと思う」と宣言し、1970年の夏の一連の出来事を回想するという設定なので、主人公はまだ20歳そこそこ、つまりこれは一種の青春小説です。村上春樹の「僕」は、こうして誕生しました。
『風の歌を聴け』という小説の内容には触れませんが、ここで述べておきたいのは、春樹がこの初めての小説を書くにあたって、最初はごく普通に万年筆で原稿用紙に文字を埋めていこうとしたのだが、どうにもうまくいかなかった。だがふと思い立ってタイプライターを持ち出して当時はまだかなり
ときどき「おまえの文章は翻訳調だ」と言われることがあります。翻訳調というのが正確にどういうことなのか、もうひとつよくわからないのですが、それはある意味ではあたっているし、ある意味でははずれていると思います。最初の一章分を現実に日本語に「翻訳した」という字義通りの意味においては、その指摘には一理あるような気もしますが、それはあくまで実際的なプロセスの問題に過ぎません。僕がそこで目指したのはむしろ、余分な修飾を排した「ニュートラルな」、動きの良い文体を得ることでした。僕が求めたのは「日本語性を薄めた日本語」の文章を書くことではなく、いわゆる「小説言語」「純文学体制」みたいなものからできるだけ遠ざかったところにある日本語を用いて、自分自身のナチュラルなヴォイスでもって小説を「語る」ことだったのです。(『職業としての小説家』)
日本語で考えていることを英語で書いてみて、日本語にフィードバックさせるというこの特殊な「翻訳」は、村上春樹が「小説家」になるための通過儀礼のようなものだったのかもしれません。彼が自分の小説の「日本語」を獲得するためには、いったん「英語」を経由する必要があった。この事実は非常に重要だと思えます。つまり春樹の「僕」は、彼が英語で書いた「I」の訳語なのです。日本語には「僕」「私」「俺」などなど複数の一人称表記があり、更に漢字と仮名の違いもありますが、英語では全て「I」です。逆に言うと、村上春樹の小説がHARUKI MURAKAMIとして英語に翻訳された時、そこに記された「I」は日本語の「僕」の英訳なのです。「新しい日本語の文体」が「新しい英語の文体」に変身する秘密(のひとつ)が、ここに潜んでいるのではないかと思います。
村上春樹は、日本の現代作家としては例外的に多くの(英語からの)訳業を手がけています。レイモンド・カーヴァーを筆頭に春樹訳によって日本に本格的に紹介された作家も沢山いますが、特徴的なのは、J・D・サリンジャー、スコット・フィッツジェラルド、レイモンド・チャンドラー、トルーマン・カポーティなど、すでに複数の日本語訳が存在する有名作家の新訳も熱心に手がけているということです。これは既存の翻訳に不満があるからというよりも、『風の歌を聴け』のエピソードを考え合わせると、彼にとっては、日本語で小説を書くことと、誰かの小説を英語から日本語にすることが、深いところで本質的に結びついているということだと思います。ある意味で、彼は小説を書き続けるために翻訳をしているのです。彼自身の「新しい日本語の文体」の鮮度を維持し、願わくば更新するために。
村上春樹からHARUKI MURAKAMIへ
周知のように、村上春樹の小説は、英語だけでなく数多くの外国語に翻訳されており、世界中で読まれていますが、やはり英語の読者が圧倒的に多数だと思われます。おそらく今や春樹の読者は日本語のオリジナルよりも英訳の方が多いのではないかと思います。
ここで指摘すべきは、数多くの翻訳をしており、アメリカに長く住んでいた春樹が、しかし自作の英訳を自ら行なうことも、最初から小説を英語で書いて発表することもしていないということです。もちろん英語を日本語に訳すのと日本語を英語にするのとでは勝手が違うと思いますし、いくら英語が堪能になっても自分の小説は母語で書くというスタンスは何もおかしくはありません。春樹には歴代の優秀な翻訳者がいて、その人たちを信頼しているということもあると思います。しかしそれだけでなく、ここに春樹の「新しい日本語の文体」の秘密があるのではないかと思います。この「文体」は、日本語と英語(やその他の外国語)の差異を超えたところに存在する、と同時に、言語間の差異を(不完全に)止揚しようとする翻訳という往復運動をエンジンとして生まれてくるものなのではないかと。「アメリカ文学」には、米国外で生まれ、母語は英語ではなかったが、何らかの理由でアメリカに移住してから必要に迫られて英語を習得し、やがて英語で小説を書くようになり、高い評価を得るに至った亡命作家や移民作家、難民作家が多くいますが、春樹はそれとは違います。彼は日本語を捨てずに英語(など)の翻訳を介して国際的な作家となり、ノーベル文学賞候補と目されるまでに至った。むろん、英語圏以外の作家の大半はそのようにして英語しか解さない読者と出会うしかないわけですが、春樹の場合は、そのスケールが違う。彼が特殊(?)なのは、文学的な評価(というものが何なのかも考え出すとよくわからなくなってきますが)と、全世界的な読者の数、グローバルなベストセラー作家であるという事実が、いささか不釣り合いなまま結びついていることです。
村上春樹の小説は英語圏のみならず、中国や韓国などのアジア諸国でも大人気です。私は大学の講義で、過去に何人かの両国からの留学生を教えてきましたが、彼女たち(なぜか女性ばかりでした)も好き嫌い以前に読んでいて、自国でも新刊が出るとベストセラーになると言っていました。興味深かったのは、感想として、日本で言う「トレンディドラマ」の小説版というか、オシャレな都会生活を描いたフィクションとして享受されているという話と、まるで自分の国の今の物語のような気がするという意見が、両方あったことです。今やほとんどの作品が各国で翻訳されているとはいえ、日本語の刊行とは当然ながらタイムラグがあるし、訳される順番もある程度ばらばらです。つまりその小説が書かれた時や物語の舞台になっている時期と、それらが翻訳されたタイミングには必ずズレがあるわけですが、春樹の小説は、そこにある時間差が気にならないようなのです。また、その物語のほぼ全てが日本で展開するのにもかかわらず、日本に来たことがなく、日本という国に特に関心も持ってはいないだろう外国の読者でさえ、今の自分の生活や彼らの社会と共振するようなリアリティがあると感じる。これはいわゆる「普遍性」ということとは違います。春樹の小説が醸し出す空気感(のようなもの)が、時間も空間も超えて、少なからぬ人々に何かしら思い当たる節があるものとして「刺さる」ということなのだと思います。このいわば「ムラカミ・エフェクト」は極めて強力であり、日本にも日本の社会や歴史にも日本文学にも興味がない読者層のアクセスを可能にしている。春樹自身も無時間・無場所的な自らの作品のエフェクトに自覚的であり(それは意図的な戦略というよりも結果としてそうなってしまう、ということだと思うのですが)、だからこそ時として「ある日ある時」に「日本のある場所」で起こった特別な出来事を語ろうとする。たとえばそれは「1995年1月17日」であったり「1995年3月20日」であったり「2011年3月11日」であったり、あるいは「1939年」であったりする。いや、彼はいつも具体的な日時や住所を持った体験や事象から始めようとしているのだと思います。しかし書き上げられた小説は、タイムスタンプやマップのピンから解放(?)されているのです。
90年代以降、村上春樹の作品は英訳が続々と進み、「ザ・ニューヨーカー」や「ニューヨーク・タイムズ」といった有力誌/紙に定期的に寄稿、米国の年間ベストセラーリストの上位に載るようになります。2006年にチェコのフランツ・カフカ賞とアイルランドのフランク・オコナー国際短編賞を、2009年にはイスラエルの「社会の中の個人の自由のためのエルサレム賞」通称エルサレム賞を受賞し、特にカフカ賞とエルサレム賞は受賞者にのちのノーベル文学賞受賞者が多いことから最有力候補として名前を挙げられるようになりました。エルサレム賞を受賞したのと同じ2009年に全三冊から成る大作『1Q84』が刊行され(完結は2010年)、春樹の日本国内での人気はピークに達します(ハルキストというファンの呼称もこの頃に生まれたものと思われます)。以後、毎年10月のノーベル文学賞の発表間近になると「今年こそ受賞か?」などとメディアは喧伝し、書店は受賞直後から大々的にフェアを開始するべく過去作を補充し、新聞各社は予定稿を準備して待ち構える、という状況が続いてきました。
しかしご承知のように、毎年のフィーバーにもかかわらず、現時点で村上春樹はノーベル文学賞を受賞していません。そもそも前回述べたようにノーベル賞の候補者リストは50年経たないと公表されないことになっているので、全ては期待と憶測でしかないわけですが。そしていささか待ちくたびれて(?)しまったのか、一昨年(2023年)あたりから以前ほど騒がれることはなくなっていました。そして代わりに(というのもアレですが)台頭してきたのが、村上春樹よりもずっと若い日本の小説家、特に女性作家たちです。
ニッポンの女性作家
前回も触れたように、以前から私を含む一部の論者たちによって「村上春樹よりもノーベル文学賞に近い(かもしれない)作家」とされてきたのが多和田葉子です。彼女は長年ドイツ在住で、ドイツ語と日本語の両方で小説を発表しています。英訳やその他の外国語訳も多く、村上春樹のように各国でベストセラーになったりはしないものの、2016年にドイツ文学の最高の栄誉であるクライスト賞を、2018年に『献灯使』の英訳『The Emissary』で全米図書賞の翻訳文学部門を受賞しており、国際的な評価という点では間違いなく有力候補と言えると思います。多和田は半分ドイツ語の作家と言うべきですが、近年、日本の女性作家の英訳が盛んになり、海外の有名文学賞へのノミネートや受賞が相次いでいます。
2 0 2 0 年に柳美里の『J R 上野駅公園口』の英訳『Tokyo Ueno Station』が「TIME」の必読書100に選出されたのち、多和田葉子の『献灯使』に続いて全米図書賞の翻訳文学部門を受賞。同年、小川洋子の『密やかな結晶』の英語訳『The memory police』がイギリスのブッカー賞の翻訳部門にあたるブッカー国際賞の最終候補にノミネート(受賞はならず)。2022年、川上未映子の『ヘヴン』が同じくブッカー国際賞にノミネート(受賞はならず)。全米図書賞やブッカー賞は非常に有名な文学賞なので、受賞やノミネートは日本のメディアでも大きく取り上げられました。文学賞の候補になっていなくても、村田沙耶香の芥川賞受賞作にして大ベストセラーである『コンビニ人間』の英訳『Convenience Store Woman』も海外で評判になりましたし、直近では柚木麻子『BUTTER』の英訳(題名同じ)がイギリスの大手書店チェーン、ウオーターストーンズの2024年の「今年の一冊」に選ばれたことがニュースになりました。
女性作家に限らず、日本語の書き手は外国語、とりわけ英語に翻訳されないことには海外では読まれません。翻訳にはコストが掛かります。長い間、日本の出版業界(そして日本政府)は、文芸作品の輸出に積極的ではありませんでした。川端康成と大江健三郎のノーベル文学賞受賞は、二人の代表作が(この頃は特にヨーロッパ言語に)翻訳されていたことが前提です。候補になっていたとされる三島由紀夫や安部公房も同じです。しかしおおよそ2000年代、ゼロ年代の半ばあたりから(おそらく出版市場の果てしなきシュリンクへの危機感もあって)状況は少しずつ変わってきました。象徴的なのが講談社が2007年から2014年まで主催していた大江健三郎賞です。大江の作家生活50周年と講談社創業100周年を記念して設立された、その年に刊行された「文学」の書籍から非公募で一冊が選ばれる、大江ただひとりが選考委員を務める文学賞で、 長嶋有、岡田利規、安藤礼二、中村文則、星野智幸、綿矢りさ、本谷有希子、岩城けいの単行本が受賞しました。特筆すべきは賞金がない代わりに「受賞作品の英語・フランス語・ドイツ語のいずれかへの翻訳、および世界での刊行」を確約していたことです(現在の観点からすると三言語に限っているのがやや疑問ですが、大江の意向だったのかもしれません)。大江賞は一例ですが、やや俗っぽい見方をすると、文芸誌を刊行している、日本最高の文学賞である芥川賞に最も近い版元である文藝春秋、講談社、新潮社、集英社、河出書房新社の五社は、この頃から翻訳(英訳)に積極的になっていったと思います(特に講談社は海外部門の講談社インターナショナル(2011年に解散)をベースに「輸出」に熱心な印象があります。『献灯使』『密やかな結晶』『ヘヴン』はいずれも講談社刊)。そうした取り組みが最近になって(海外文学賞という形で)結果を出しつつあるということかもしれません。「ニッポンの文学」は、ようやく本格的に海外進出に向かいつつあると言っていいと思います。
東野圭吾の快進撃
ところで、ここまでの記述は、いわゆる「(純)文学」にかんしてでした。ノーベル文学賞の話題から入ったのでそうなってしまったのですが、エンターテインメント、とりわけミステリやSFといったジャンル・フィクションの世界でも、日本の小説の海外でのプレゼンスは増しています。2004年に桐野夏生が『OUT』の英訳(題名同じ)でアメリカミステリー作家協会(MWA)が主催するエドガー賞の最優秀作品賞にノミネート(受賞はならず)、中村文則も大江賞受賞作『
しかし海外でのプレゼンスが急激に高まっている日本語作家は、なんと言っても東野圭吾です。直木賞受賞作でもある『容疑者Ⅹの献身』の英訳『The Devotion of Suspect X』が2011年に刊行されると、桐野夏生に続きエドガー賞にノミネート、受賞はなりませんでしたが、それ以降、英語のみならず(英語以上に)アジア諸国で続々と翻訳が進み、映像化も頻繁になされており、特に中国ではほぼ全ての小説が翻訳されているという超ベストセラー作家になっています。2020年の書き下ろし長編『クスノキの番人』は日本語版、中国語簡体字版、中国語繁体字版、韓国語版が同時期に刊行されています。その人気ぶりはすでに村上春樹を凌駕しているとも言え、日本のトップ人気作家は海外でも強いことを証明したかたちです。
日本人のノーベル文学賞は当分ない?
2024年のノーベル文学賞は韓国のハン・ガンが受賞しました。日本に先んじて韓国の女性作家の小説は英語圏でブームになっていましたが、ハン・ガンは2016年に『菜食主義者』でブッカー国際賞、2017年にイタリアのマラパルテ賞、2023年に『別れを告げない』でメディシス賞外国小説部門とエミール・ギメ・アジア文学賞(どちらもフランスの文学賞)を受賞しており、数年前からアジアで最もノーベル文学賞に近い作家のひとりと目されていましたが、年齢が若いため(1970年生まれ)、受賞するとしてもまだまだ先のことだと思われていました。かくいう私も「そろそろアジアの作家が受賞しそうだな、だとしたら中国の残雪かも」などとSNSにポストしたりしていて、1960年生まれの多和田葉子でさえ時期尚早だと思っていたら、10歳も年下のハン・ガンが受賞して、かなり驚いてしまいました(受賞に異論はありません)。韓国人で初、アジアの女性作家としても初のノーベル文学賞の意味はとても大きい。
しかしながら、すでに多くの人が指摘していることですが、ハン・ガンの受賞によって、今後かなりの長きにわたって東アジアからノーベル文学賞が出ることはないのではないかと思います。そもそもノーベル文学賞は基本的にヨーロッパ偏重であり(賞の成り立ちから言って当然ですが)、アジアの作家はこれまでに、日本の川端、大江の他は、インドのタゴール(1913年、アジア人としては初の受賞でした)、中国の莫言、そして韓国のハン・ガンしか受賞していません。もちろん今後はわかりませんが、知人には「これで10年はアジアの作家は受賞出来ない、よって年齢的にも村上春樹がノーベル文学賞を獲ることはもうない」と断言している人もいます(この理屈でいうと多和田葉子も10年待たなくてはならないことになってしまいますが)。とはいえ、ノーベル文学賞はアメリカの作家も近年はかなり少ないのですが、2016年にボブ・ディランが、その4年後の2020年にルイーズ・グリュックが受賞しているので(ちなみにディランの前のアメリカ人受賞者は1993年のトニ・モリスン、23年も昔です)、必ずしも10年も、アジアから、日本から受賞者が出ないとは限りません。
ここまで書き連ねてきていささか恐縮ですが、私自身は、ノーベル文学賞だって他の色々な文学賞(芥川賞とか)と同様に、文学なり言語芸術なりの絶対的な価値をはかるものではなく、その時々の状況やコンテクスト、ポリティックスに裏打ちされたさまざまな変数によって決まっているのだと思うので、日本から3人目の受賞者がいつ出ようと、いつまでも出なくても、誰が受賞しようと、さほど気にしてはいません。それよりも重要なのは「日本文化の海外進出」における日本語商品の可能性です。ノーベル文学賞は獲れないかもしれませんが、この意味で村上春樹は、やはり極めて重要な、クリティカルな存在です(このことは「文学的評価」とはまた別の話です)。HARUKI MURAKAMIは、なぜこれほどまでにグローバル化し得たのか? この問いに完璧に答えることは春樹本人にも出来ないでしょう。しかしたぶん、答えににじり寄るための幾つかのヒントぐらいは、今回書いたことの内に隠されているような気がするのです。
佐々木敦
ささき・あつし●思考家/批評家/文筆家。
1964年愛知県生まれ。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。芸術文化のさまざまな分野で活動。著書に『「教授」と呼ばれた男──坂本龍一とその時代』『ニッポンの思想 増補新版』『増補・決定版 ニッポンの音楽』『映画よさようなら』『それを小説と呼ぶ』『この映画を視ているのは誰か?』『新しい小説のために』『未知との遭遇【完全版】』『ニッポンの文学』『ゴダール原論』、小説『半睡』ほか多数。