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中村 計『落語の人、春風亭一之輔』(集英社新書)
を南沢奈央さんが読む

[本を読む]

底知れぬ真一文字

 催眠術にかかった。落語を聴き始めて20年近くになるが、昨年末、そんな感覚になる落語を初めて体験した。
 冬によく高座にかけられる「ふぐ鍋」という一席で、酒のさかなに用意したふぐ鍋の毒が怖くて箸をつけられないでいた男二人が、大丈夫だと分かった途端に、夢中になって食べるという場面がある。思い出すだけで、生唾が出てくる。出汁だしの染みた熱々のふぐ鍋をたっぷりと味わい、そのあとにシメの雑炊作りに入る。語りだけで、立ち上る湯気までも見えた。いい匂いだ。まさに飯テロ状態。そして火照ほてった体に冷えたビールを一口……その瞬間、客席からゴクリという音が聴こえた。全員が同時に唾を飲んでいたのだ。見事に操られた、と思った。
 鑑賞ではなく、体験させるような落語。それを実現する催眠術師、もとい落語家というのが、春風亭一之輔しゅんぷうていいちのすけ師匠である。いかに落語という芸に向き合っているのか。本書は、一之輔さんに魅せられた著者が取材を重ね、素顔を追いながら芸の本質に迫る。
 上質なドキュメンタリーを見ているようだった。一之輔さんが語った生の言葉を、ナレーションのように著者が客観的に捉えながら展開し、落語家仲間や弟子などのインタビューでより骨格がはっきりしてくる。序盤に、以前一之輔さんを密着したNHKの某ドキュメンタリー番組に触れている。落語における苦悩や失敗が描かれなかった、と。
 その点本書では、葛藤まで至らずとも、試行錯誤を繰り返されている姿が見え隠れしていたように思う。さらに、落語家としての一之輔さんだけでなく、弟子/師匠という顔、父親としての姿、落語ファンとしての原点の表情が見られる。多角的な取材の中で一之輔さんにとことん向き合った成果だ。これぞ〝真一文字〟。
 師匠である一朝いっちょう師匠から「うちの師匠(五代目柳朝りゅうちょう)を超えている」と言わしめる一之輔さんの凄さと人間力を感じ、最後に見えてきたのは、底知れなさだ。一冊通しても、人物を摑みきれない。もっと知りたい、落語を聴きたい。なるほど、ますます追いたくなる理由はここにあるのだろう。

南沢奈央

みなみさわ・なお●俳優

『落語の人、春風亭一之輔』

中村 計 著

発売中・集英社新書

定価1,100円(税込)

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